第165話 第十一章「最終所有者」前編

法廷で最も扱いにくい者は、嘘をつく者ではない。

 本当のことを一部だけ言い、その一部が全体であるかのように並べる者である。

 私は署名した。

 金を払った。

 規則に従った。

 書類は受理された。

 どれも真実かもしれない。

 しかし署名する資格をどう得たか。

 金の出所を誰へ隠したか。

 規則を守るため、どの事実を削ったか。

 受理した者が、何を知らされていなかったか。

 合法は、行為の全身を照らす太陽ではない。

 一枚の窓から差す光にすぎない。

 窓の外に何を置いたかまで見なければ、正しい明るさは分からない。

 セレナ・クロウは、その窓を一枚ずつ開ける仕事をしていた。

「ミラ・ベルウェザー、応答して」

 霧の中へ、セレナの声が消える。

 返事はない。

 ゼロスター号は速度を落とせない。

 後ろには小艇。

 前には《グレイ・リターン》

 下にはラナの巨大な翼。

 止まれば、小艇が旧艦へ引かれる。

 曲がりすぎれば、鯨へ近づく。

「もう一度」とハル。

「同じ声量では届きません」

「大きく」

「霧が音を散らす」

「じゃあ何で呼ぶ」

 ジルが銅笛を口へ当てた。

 高い音ではない。

 彼女自身の右耳では拾いにくい、低く短い二音。

 ボウ、ボウ。

 船村で使う位置確認。

 一音目は「生きている」。

 二音目は「返せるなら返せ」。

 霧が音を飲む。

 全員が待つ。

 待つ時間は、長さでなく、答えの有無で決まる。

 チリン。

 小さい。

 風鈴が一度。

「左下!」とハル。

「根拠」とセレナ。

「聞こえた!」

「方向は」

「左……少し下!」

「主観記録」

「今それ!」

「だから使います」

 エリアが地図筆を開く。

「音源を三点で取る。ジル、もう一度。カイル、船首へ。私が中央。セレナ、右舷」

「私は左耳の感度が低い」

「申告、受領。右耳を霧へ」

 笛。

 チリン。

 カイルが指す。

「左下二十度」

 セレナは右耳を向ける。

「船体より後方。距離は不明」

 エリアの路図へ、三本の音線が交わる。

《グレイ・リターン》左舷下。ゼロスターから百二十間」

「船に掴まってる?」とロロ。

「または落下中」

「言うな!」

「可能性です」

 ハルは船縁へ出る。

「俺が」

「単独禁止」とエリア。

「言うと思った」

「学習した?」

「一緒に行く人」

「私」とカイル。

「肋骨五」

「四・五まで下がった」

「小数、感染した?」

「ミラ式」

「却下」とセレナ。

「俺」とロロ。

「喘息」

「今は平気」

「専門語で言って」とジル。

「呼気流量、通常比九割二分。吸入後一刻以内。湿度高いが作業可」

「本当だな」

「何で難しい方が信用される!」

「お前だからだ」

 エリアは救難線を三本用意した。

 一本をハルの腰。

 一本をロロの補助腕基部。

 一本をゼロスター号の主柱。

「私が路図を保持。ジルが船を並走。カイルは支点。セレナは時間と位置を記録」

「また証拠側」とハル。

「救助の事実も、後で争われます」

「誰に」

「ミラ本人。無断で助けた料金を請求する可能性」

「ありそう」とロロ。

 ジルが舵をわずかに切る。

 《グレイ・リターン》の左舷へ近づく。

 霧の中に、船腹が現れた。

 雲灰色の板。

 古い王立冠印の削り跡。

 その下に、長い受領鎖が垂れている。

 鎖の途中で、赤茶の布が揺れた。

「いた!」

 ミラは鎖へ右腕を巻き付けていた。

 左の星晶義足は外板へ当たり、帆が半分裂れている。盗んだ勢いを上へ逃がした反動で、身体はまだ小さく揺れ続けていた。

「止まれない」と彼女。

「見れば分かる!」とハル。

「言葉で確認」

「怪我!」

「右肩二。腰五。右膝六。義足接合、熱い」

「信用」

「七・一」

「上げるな!」

「正確」

 鎖の上。

 船腹の砲口が一つ開く。

「砲!」とエリア。

「角度、外れてる」とセレナ。

 狙いはミラではない。

 ゼロスター号の主帆。

「ジル!」

「見えてる!」

 風圧弾。

 ゼロスター号が左へ傾く。

 ハルとロロが船外へ振られる。

 救難線が張る。

「ミラ、手!」

「その親切、今度こそ」

「値段は後!」

「保留!」

 ハルが右手を伸ばす。

 ミラは鎖を放さない。

「何で!」

「放したら、そっちへぶつかる」

「勢い残ってる?」

「少し」

「どっち」

「横」

 ロロが補助腕二本で鎖を掴む。

「先に義足を固定!」

「勝手に触るな」

「許可!」

「接合部じゃなく外板。三点。外すのは私」

「受領!」

 ロロが柔帯を義足の外殻へ回す。

 ハルはミラの右手首を掴む。

「今度は放して!」

「三」

「何を数える!」

「私が」

「自分で跳ぶな!」

「一」

「戻った!」

「二」

「三!」

 ミラが鎖を放す。

 残った横向きの勢いが身体を振る。

 ハル一人では止められない。

 ロロの補助腕が義足帯を引く。

 エリアの救難線が二人を戻す。

 カイルが主柱側で支える。

 ミラはゼロスター号の舷側へ当たらず、柔網へ落ちた。

 ノクスが飛びつく。

「重い」とミラ。

「四・八」とロロ。

「数字、今は安心」

 ジルが船を離そうとする。

「待って」とミラ。

「怪我人は黙れ」

《グレイ・リターン》、中に一人いる」

「見た?」とセレナ。

「鎖の振動。砲を撃つ前、床を三歩。片足が少し遅い」

「一人と断定する根拠」

「同時に別の足音なし」

「見ていない範囲は」

「いるかもしれない」

「採用」

「それから」

 ミラは右手を開く。

 掌に、薄い黒片。

 左右から閉じる括弧形。

 右下だけ短い。

「鎖の受領環から剥がれた」

「剥がした?」

「触ったら落ちた」

「事実?」

「ノクス」

 黒い獣が黒片を嗅ぐ。

 くしゃみ。

「樹脂の証明にはなる」とロロ。

「剥離面」とセレナ。

 単眼鏡で見る。

「新しい。砲撃振動で亀裂が進行。故意剥離の刃痕なし。受領環現物と照合が必要」

「乗る?」とハル。

「乗ります」

「怪我人は残る」とジル。

「乗る」とミラ。

「右膝七」

「七・一」

「増やすな」

「私の受領権者」

「誰の?」

「誰が、弱い相手から奪ったか調べる仕事。最初の客」

「契約した?」

「今から」

 ジルは銅笛を噛む。

「歩けねえ奴が船へ乗る方法を言え」

「担ぐ」

「誰が」

「一航士」

「料金」

「お前がありがとうと言うまで」

 ミラの口が止まった。

「高い」

「払え」

「……保留」

「逃げるな」

 《グレイ・リターン》へ接舷する。

 ゼロスター号を直接ぶつけない。

 二隻の間へ三本の渡り索を張る。

 先にセレナ。

 次にハル。

 エリア。

 ロロ。

 ジルはミラを背負う。

 カイルは最後まで小艇と箱を守り、ノクスがその肩へ乗る。

「王子が留守番」とカイル。

「物の保管責任者候補」とセレナ。

「格好が」

「責任に格好は不要」

「母さんも言いそうだ」

 セレナは一瞬だけ彼を見る。

「なら守って」

「了解」

 旧艦の甲板へ降りる。

 人影はない。

 床板は乾いている。

 雨の跡も少ない。

 帆は畳まれ、綱は古いが整えられている。

「無人じゃない」とジル。

「何で」とハル。

「結びが毎朝やり直されてる。古い縄は、放っとくと自分の癖で曲がる。これは人の癖で曲がってる」

「右利き?」

「左手が弱い」

「足音、片足遅い」とミラ。

「古傷」

「断定しない」とハル。

「成長がうるさい」とセレナ。

 甲板中央に、白い受信器がある。

 括弧形の環。

 右下が欠けている。

 ミラの黒片を近づける。

 形が合う。

「同一受信器の剥離片」とセレナ。「暫定一致」

「暫定?」

「接合面の微細比較を後で」

「今、目で合ってる」

「目は後で別の目に説明できません」

 受信器の横に、伝羽の発信筒。

 六枚目の偽物目録への問い合わせ控えが残っていた。

 文面。

『七音確認を無音振動へ変更する根拠を示せ。既受領試験の互換性が失われる』

「既受領試験」とハル。

「まだ箱は来てなかった」とエリア。

「受領前に、試験済みと記録した」とセレナ。

 黒い証羽が一枚立つ。

 甲板下から、扉の鍵が掛かる音。

「いる」とハル。

「一人以上」とセレナ。

「今それ言う?」

「今だから」

 旧王立契送艦には、敵国の手紙を守るための仕掛けが多い。

 船長が捕まっても、荷室を開けられない。

 甲板を奪われても、航路記録を燃やせる。

 乗員が死んでも、最後の命令だけは船が続ける。

「嫌な船」とハル。

「船は悪くねえ」とジル。「作った命令が長生きしすぎる」

「扉、爆発する?」

「古い契送艦なら、開け方を間違えると記録紙へ塩水」

「人は」

「濡れる」

「優しい?」

「紙には致命傷」

 ロロが扉の蝶番へ耳を当てる。

「鍵三つ。上は見せ鍵。中央が圧力。下が記録水」

「開けられる?」

「壊せば」

「紙が濡れる」とジル。

「だから壊さない!」

「成長」

「さっきから全員それ言うな!」

 エリアは扉の周囲を測る。

「壁の向こうに通路。左へ二間で階段」

「地図、見える?」

「建築図の残光。旧王立規格」

「王家の抜け道」とハル。

「抜け道ではなく保守路です」とカイルの通信声。

「王子、知ってる?」

『旧契送艦は全部同じ。母さんに隠れて菓子便へ乗った』

「前科」

『五歳だ』

「年齢で消えません」とセレナ。

『今、俺いないのに叱る?』

「記録しました」

 カイルの案内で、甲板脇の小さな冠板を外す。

 人一人が通れる保守穴。

「先に誰」とハル。

「私」とセレナ。

「戦える?」

「剣があります」

「証拠担当」

「現場へ最初に入る者が証拠を壊さないためです」

「俺、信用」

「行動履歴があります」

「否定できない」

 セレナが穴へ入る。

 左眼の単眼鏡を外し、右眼を暗所へ慣らす。

 単眼鏡を外すのは弱さではない。光の少ない場所で、レンズ反射を消すための判断。

「右側へいて」と彼女。

 ハルが位置を変える。

「了解」

 一行は狭い保守路を進む。

 ミラはジルの背。

「降ろして」

「歩ける?」

「二歩」

「目的地まで四十」

「高い」

「何が」

「借り」

「借りにするな。救難だ」

「契約なし」

「契約できない時も助ける港を作るんだろ」

「まだ作ってない」

「先に練習しろ」

 ミラは何も言わない。

 ジルの肩へ、ほんの少しだけ体重を預けた。

 船長室の内側で、一人の男が待っていた。

 五十歳前後。

 痩せた長身。

 灰色の髪を後ろへ撫で、古い王立契送部の制服から冠章だけ外している。左脚へ硬い補助具。机へ置いた右手の人差し指と中指に黒樹脂が染みていた。

 レム・オルデン。

「不法侵入です」と彼は言った。

 声は静かだった。

 荷物が遅れた時、相手を怒らせず責任だけ別の部署へ渡す者の声。

「星律官セレナ・クロウ」とセレナ。「危険輸送、証拠毀損未遂、風圧砲による傷害の現行確認。立入目的を告知します」

「傷害は発生していない」

「ミラ・ベルウェザー、右膝、腰、肩。砲撃だけが原因とは確定していませんが、救助索切断との因果を調査します」

「彼女は自分から飛んだ」

「だから砲で線を切ってよい?」とハル。

「君は誰だ」

「凪野ハル」

「法的資格」

「ない」

「なら黙りなさい」

「その言い方、誰が決めた」

「法」

「どの法」

 レムは答えない。

 セレナが一歩前へ出る。

「王国星律法は、現場協力者の発言を禁じていません。あなたの船は現在、翼鯨ラナの航路近接域。背市規則も適用候補。どの法を根拠に沈黙を命じましたか」

「一般的な秩序です」

「法ではない」

 ハルが小さく笑う。

「法官、強い」

「今は黙って」

「法的根拠」

「捜査指揮」

「受領」

 レムは机へ一枚の契約板を置いた。

「私は第一受領順位を合法に取得した」

「九の鐘二十五分から三十二分」とセレナ。

「その間に遠隔受領を起動した」

「認める?」

「合法行為です」

「起動した事実を認めますか」

「はい」

「小艇が翼鯨の噴気孔へ落下する危険を認識していた?」

「通常航路では、翼鯨の吸気域を通らない」

「通常ではない到着前倒しを知った時刻」

「到着後」

「どの到着」

「小艇がカンティレーナへ」

「時刻」

「記録を見なければ」

「伝羽を受信しています」

「多くを受信する」

「質問へ答えて」

 セレナの声は大きくならない。

 敬称が消えた。

 レムは机の右引き出しを見る。

 ハルも見る。

「そこ」と彼。

「何が」

「記録」

「根拠」

「見た」

「証拠では」

「だから開けて」

 セレナは令状札を机へ置く。

「危険輸送の現行性と、受信器の一致に基づき、航路記録の保全を命じます。拒否はできます。拒否した事実も記録します」

「拒否すれば開けるのでしょう」

「手続を踏んで」

「同じ結末」

「同じ結末でも、あなたが選んだ過程は違う」

 ミラがジルの背で目を細める。

「契約屋の言い方」

「星律官です」

「悪化」

 レムは引き出しの鍵を開けた。

「任意提出」

「記録します」

 引き出しの中には、四つの束があった。

 受領契約。

 輸送申告。

 来歴確認。

 依頼主通信。

 最後の束だけ、封印されている。

「依頼主通信は秘匿特権」とレム。

「まず他の三つ」とセレナ。

 受領契約は有効だった。

 バルドからフェン。

 フェンからモロウ・ナイン。

 モロウからサディ。

 サディからL・O。

 押印。

 乾燥。

 通知。

 九の鐘二十五分、レム・オルデンへ第一受領順位。

「ここは合法」とハル。

「現時点で、契約発効自体を偽造とする証拠なし」とセレナ。

「ほら」とレム。

「続けます」

 輸送申告。

 品目――古代金属片。

 動作性――なし。

 生体反応――なし。

 遠隔受領――通常級。

 大型生体航路との距離制限――不要。

 ロロが箱の輸送札を出す。

「灰風便の原票は違う」

 原票には、赤い注記。

『七拍以上の連続心音へ微振動反応。大型生体の胸郭近傍を避ける。受領器は固定点へ設置。移動受信禁止』

 室内が静かになる。

「誰が削った」とセレナ。

「輸送仲介が要約した」

「あなたの提出署名」

「代行士として」

「内容確認欄」

「形式的確認」

「形式的という免責は欄にありません」

「原票を見ていない」

「こちら」

 セレナが別紙を出す。

 レムの受領印。

 原票番号と同じ。

 右下の欠け。

「見たことを示す印」

「受け取っただけです」

「受け取ることと読むことは違う?」とハル。

「そうだ」

「でも『確認済み』へ押した」

「業務では全てを読めない」

「読めないなら、読んだって印を押すな」

「現実を知らない少年の言葉だ」

「現実って、危険を消して仕事を早くすること?」

「荷は動かさなければ価値を失う」

「鯨が傷ついても?」

「事故だった」

「事故の前に、避ける欄を消した」

 レムの顔が初めて少し固くなる。

 セレナは黒い証羽を一枚、輸送申告へ置いた。

「輸送危険の不実記載。あなたは原票を受領し、移動受信禁止を含む危険注記を、省略した申告へ確認印を押した」

「省略は、偽造ではない」

「不利益な事実を告げる義務がある場合、沈黙は欺罔になり得ます」

「なり得る」

「はい。裁くのは法廷です。私は事実を集める」

「確定していない」

「確定していないことを、無罪と呼ばないでください」