第172話 第二章「人のいない甲板」後編

 食堂の皿は伏せられていた。

 六十枚。

 食卓は三列。

 椅子は五十九。

「一つ足りない」とハル。

「持ち出されたか、別室か、破損」とセレナ。

「数えた?」

「入室時に」

「椅子の脚も?」

「全て四本」

「安心」

「何がですか」

「セレナ」

 彼女は単眼鏡の縁を一度押した。

 食器棚には、乾燥豆の袋。

 固いパンの模型。

 塩瓶。

「模型?」

 ハルが持ち上げる。

「訓練用です」とエリア。「配膳量を決める木型」

「本物は」

「ない」

 水樽も空。

 保存肉もない。

 炊事炉の灰は、指で触れれば崩れるほど古い。

 それでも、食卓の端へ当番表がある。

『一鐘前 朝食。

 二鐘 甲板交代。

 三鐘 音声筒点検。

 四鐘 星図更新。

 帰港後 手紙投函。』

「帰港後」とハル。

「帰る予定だった」

「帰ってない」

「船は」とセレナ。「人については、まだ」

 ノクスが食卓下へ入る。

 何かを咥えて出た。

 金属の匙。

 柄へ、歯形。

「パルじゃない」とハル。

「六十年以上前です」とエリア。

「匙へ歯形付ける人、昔もいた」

「人類史を一人へまとめないで」

 ノクスは匙を隠そうとする。

「証拠品」とセレナ。

「ナァ」

「返却を」

「ノゥ」

「対価、干し魚半分」

「セレナが交渉した!」

「証拠保全費です」

 ノクスは先払いを要求するよう前脚を出す。

「半分は後」

 黒い獣は不満そうに匙を置いた。

 取引は成立したらしい。

 食卓の壁には、細い棚があった。

 六十の仕切り。

 五十九には封筒が入っている。

 一つだけ空で、底へ乾いた糊が残っていた。

「手紙」とハル。

「未送付」とセレナ。

 封は閉じられている。

 宛名は家族、宿屋、菓子店、靴職人、共同墓地の管理人。軍の報告書ではない。命令でもない。

『帰港後投函』

 全ての封筒へ、同じ赤い札が挟まれていた。

「読めば、乗員のことが分かる」

「読みません」

「事件の手掛かりかも」

「だからこそ、必要性を立証してからです。証拠品は、秘密を読む許可証ではありません」

 セレナは証羽で棚の位置と封筒数だけを記録する。

「宛名は?」

「外から確認できる範囲のみ。本文は封印」

「死人の手紙でも?」

「死者だと確定していません」

「六十年以上――」

「長い不在は死亡証明ではない。あなたは異世界から来た人でしょう」

 言われて、ハルは黙る。

 自分がいなくなった世界で、母はどう説明されたのだろう。

 失踪。

 事故。

 家出。

 死亡。

 どの言葉も、帰れない側の都合を聞かずに決まる。

「じゃあ、待つ」

「何を」

「読む理由ができるまで」

「読まない理由も残してください」

「難しいな、正しいの」

「簡単なら規則になりません」

 棚の最下段から、細い紙片が垂れていた。

 封筒ではない。

 ハルは触れずに指す。

「見える範囲」

 セレナが読む。

『匙を噛むな。三度目は自費』

 全員がノクスを見る。

「ナァ」

「お前の祖先じゃない」とハル。

「人類史を一匹へまとめないで」とエリア。

「さっき俺が言われたやつ!」

 その時、食堂の天井で鐘が鳴った。

 カァン。

 甲板砲の轟音より小さい。

 それでも、空の椅子が一斉に顔を上げたように聞こえた。

『一鐘前。朝食当番は配膳台へ。夜番は先に食べろ。遅れた者の豆は増えない』

 若い女の声だった。

 号令筒の男声ではない。

 最後に笑いを飲み込む息が入っている。

 壁際の細い軌道が動く。

「下がって!」とロロ。

 食器運搬台が、誰も押していないのに炊事炉から出てきた。

 空の皿を六枚ずつ載せ、第一卓で止まり、三呼吸待つ。

 誰も取らない。

 次の卓。

 三呼吸。

 次。

 五十九脚の椅子と、六十枚の皿へ、同じ朝食を配るふりをする。

「止める?」とハル。

「今は触るな」とロロ。「これも時刻機構だ。砲撃と同じ命令筒に繋がってるかもしれねえ」

「ご飯まで軍令?」

「軍隊は、食わせないと動かない。だから飯の時刻も命令になる」

「食べることまで命令にしないと食べない人がいたのかも」とエリア。

「カイルみたいな」

『聞こえてるぞ』

 通信石から王子の声。

「食べた?」

『いま自由港の保存粥を』

「いつから」

『いまから』

「食べてないじゃん」

『いま食べるという未来を、現在形で表現した』

「嘘を文法で着替えさせるな」とミラ。

『食べます』

「事実になってから報告してください」とセレナ。

 通信の向こうで、匙が椀へ当たった。

『一口』

「二口目」とハル。

『指揮系統が増えたな』

「食事は軍令なんだろ」

『ロロ、余計な制度史を教えたな』

「今のは生活史だ!」

 運搬台は全卓を回り終えると、六十枚の空皿を載せたまま炉へ戻った。

『配膳完了。食後、各自の皿を戻せ。戻さない者は、明日の豆を数える係』

 誰も食べていない。

 誰も皿を戻さない。

 それでも完了と記録された。

「空でも、手順を通れば完了になる」とハル。

「機械にとっては」とエリア。

「人がいなくても?」

「人の有無を確かめる工程がないなら」

 ハルは五十九脚の椅子を見る。

「六十人目は、どこで食べたんだろう」

 答えは、隣の医務室にあった。

 足りなかった一脚が、診察台の横へ置かれている。

 脚へ食堂の番号《六十》。座面には包帯の繊維。背もたれへ、誰かが鉛筆で書いた。

『戻すこと』

「戻してない」とハル。

「戻る前に、いなくなった」とエリア。

 医務室に血痕はない。

 焼け跡も、争った家具もない。

 薬棚は整然と空だった。

 薬瓶を急いで投げ込んだのではない。必要な物を箱へ詰め、棚ごとに持ち出した跡である。包帯だけが半巻、切った端を留められたまま残っている。

「襲撃で全員消えた部屋じゃない」とハル。

「少なくとも、この室内に大量負傷の痕跡はありません」とセレナ。「計画的な移動の可能性は上がります」

「避難?」

「可能性」

「退艦命令?」

「可能性」

「戻る予定?」

 ハルは食堂の椅子を指す。

「その可能性は、少し高い」とセレナ。

 壁には診療当番表。

『低鐘が聞こえにくい者へは、正面から話すこと』

『右手を吊った者へ、左舷索当番を割り当てないこと』

『咳を隠す者から先に診ること』

 最後の一行だけ、別の筆跡で付け足されている。

『医務官も咳を隠すので、互いに診ること』

 ロロが喉へ手をやった。

「俺は隠してねえ」

「吸入器を使わず機関室へ先行した」とエリア。

「隠してない。後回しにした」

「身体にとって同じ」とセレナ。

「違う! 隠すは情報問題、後回しは時間問題!」

「身体はその言葉遊びで呼吸しません」

 ロロは何か言い返そうとして、咳を一つ。

 全員が見る。

「……使うよ!」

 吸入器を取り出す。

 誰も拍手しない。

 拍手すれば次から意地になることを、もう知っている。

 ノクスは診察台へ前脚を掛け、古い包帯を嗅いだ。

 右尾も左尾も、低い。

「約束、ない?」

「ノゥ」

「破った匂いも?」

「ノゥ」

 代わりに、部屋の出口へ鼻を向ける。

 廊下。

 上階。

 甲板。

 匂いは外へ続いて、そこで風に消えている。

「ここから出た」とハル。

「匂いの古さをノクスへ聞けません」とセレナ。「ただし、室内で途切れてはいない」

「消えたんじゃなく、出ていった」

「それも断定しません」

「不明の形が、一個狭まった」

 セレナは少しだけ頷いた。

 ハルは六十番の椅子へ触れず、背もたれの『戻すこと』を見た。

 戻されていない椅子。

 投函されていない手紙。

 食べられていない朝食。

 この船は、人がいなくなった後も生活を続けたのではない。

 生活の手順だけを、誰かが帰ってくるまで止めなかったのだ。

 船尾へ進む。

 操舵室。

 操舵輪は、人が触れていないのに回っていた。

 左へ四分の一。

 戻る。

 右へ八分の一。

 戻る。

 窓の外で、旧艦は三角航路の第二点へ入る。

 床の星図盤へ、三つの穴が開いている。

「見て」とエリア。

 現在の星図を重ねる。

 三点のうち一つは、今なら翼鯨ラナの進路と重なる。

 一つは、六十年前に沈んだ浮標島。

 一つは、何もない空。

「何もない場所を回ってる」

「古図では補給標だった。今は失われた」

「船は失われたって知らない」

「地図が更新されていない」

「更新する人がいない」

 操舵輪脇の記録紙は、同じ三行を繰り返す。

『第一点、異常なし。

 第二点、異常なし。

 第三点、異常なし。』

 百枚。

 千枚。

 紙が尽きた後は、細い金属帯へ刻まれている。

 異常なし。

 異常なし。

 異常なし。

 船が砲撃していることは、異常欄へ入らない。

 命令どおりだからである。

「止めたい」とハル。

「原因を知らずに止めれば、別の命令が動く」とロロの声が下から響く。

「機関室行ったの!?」

「七分待てねえ!」

「譲った時間!」

「返却後に使った!」

「時間を金みたいにするな!」

「金より大事だ!」

 床下から咳。

「吸入した?」とエリア。

「まだ!」

「戻って」

「見せたい物がある!」

 全員、機関室へ下りる。

 機関室には、火がなかった。

 炉もない。

 燃料槽も空。

 巨大な二枚の星帆輪が、船腹の外から風を取り込み、回転を歯車へ渡している。船は風を燃料にしていた。だが風だけでは、どこへ進むかも、いつ砲を撃つかも決まらない。

 中央に、銀黒の筒がある。

 人の腕ほど太い。

 輪が七つ。

 側面へ、口の形をした共鳴孔。

「命令音声を保存する筒〈オーダー・パイプ〉」とエリア。

「触るな」とロロ。

「私へ?」

「全員!」

 本人はすでに筒の下へ潜っている。

「説得力!」とハル。

「俺は見る資格がある!」

「誰が」

「工具」

「工具が資格を出すな!」

 筒は、六・五秒ごとに震える。

 外の号令と同じ咳が、内部で小さく鳴る。

『右舷――失礼。左舷砲列――』

 音が管を通って甲板へ上がる。

「ここから出てる」とハル。

「この船の声はな」とロロ。「でも他の船も同じ筒を持ってる」

「放送を受けてるんじゃ」

「受信管はある。送信管も。でも今、外から来た音より、こいつが鳴る方が〇・二秒早い」

「〇・二」

「俺の時計三つで平均」

「時計の意味が戻った」

 ロロは筒の継ぎ目へ薄紙を当てる。

 振動で粉が落ちる。

「継ぎ目、同じ位置だけ摩耗。何万回も同じ長さを回してる」

「録音?」とハル。

「何だそれ」

「声を機械に残す」

「それだ。命令を星蝋へ刻んで、輪が回るたび口から出す」

「じゃあ命令してる人は、ここにいない」

「この声については」とセレナ。

 彼女は証羽へ筒の振動を記録する。

「声の保存が確認できました。現在の発声者がいない可能性は高い。ただし、外部から別の命令が入っている可能性は残る」

「可能性が多い」

「減らすのが調査です」

 機関室の奥。

 補給庫。

 ロロが扉を開ける。

 空。

 予備の風晶なし。

 潤滑油は底に乾いた膜だけ。

 交換歯車なし。

 工具箱は持ち去られている。

「何十年、動いてる?」とハル。

「ずっと動いてたとは限らねえ。昨日まで眠って、号令で起きたかもしれない」

「起きた後の燃料は」

「風」

「油なしで」

「動けば摩耗する」

 ロロの右目だけが細くなる。

 度入りゴーグル越しに、軸受けを覗く。

「新しい油はない。でも、歯が欠けるたび、周りの誓力が『元の形』へ少し戻してる」

「再機みたい?」

「俺の壊れた機械の動きを戻す術〈リメイク〉とは違う。こいつは修理じゃない。同じ命令を守る範囲だけ、自分の摩耗を先延ばしにしてる」

「命令が油?」

「油の代わりにはならねえ。風が力、誓いが向き。どっちもなくなりゃ止まる」

「誓いは誰の」

 ノクスが、オーダー・パイプの根元へ鼻を寄せる。

 身体を細く伏せる。

 二本尾が、同じ方向へ揃った。

 古い。

 とても古い。

 破られてはいない。

 守る者がいなくても、守られ続けている誓い。

「乗員」とエリア。

「兵士の誓いを、船へ残した?」

「可能性」とセレナ。

「また」

「まだ署名を見ていません」

 オーダー・パイプが震える。

『右舷――失礼。左舷砲列、敵軍籍を照合――』

 最後の部分だけ、別の歯車が動く。

 円盤から一枚の金属片を選び、音声管へ当てる。

『背市カンティレーナ』

 前半の声と違う。

 平らで、切り貼りした音。

「標的名だけ後付け」とハル。

「見た事実として」とセレナ。「共通号令部と標的名部は別機構」

「誰かが今、名前を入れてる?」

「標的盤が自動で選んでる」とロロ。「上の札読取器から線が来てる」

「じゃあ、今いる命令者は」

 ハルは空の補給庫を見る。

 工具のない工房。

 食べ物のない食堂。

 人のいない寝台。

 操舵輪だけが動く。

 古い星図だけが正しい顔をする。

 保存された声だけが、誰かの現在形を使う。

「いない?」

 セレナは答えない。

 答えないことを、否定へ数えない。

 その時、船全体が傾いた。

「三角第三点!」とエリア。

 操舵輪が切れる。

 甲板扉が自動で閉まる。

 オーダー・パイプの下で、別の輪が回り始めた。

『補給残量、照合』

 空の庫へ、青い光が走る。

『残量、不要』

「不要!?」とロロ。

『忠誠誓文、継続』

 船腹の星帆輪が、さらに速く回る。

 補給庫は空である。

 機関は止まらない。

 止まる条件が、燃料の底ではなく、命令の終わりへ置かれているからだった。