第171話 第二章「人のいない甲板」前編

無人島と、人のいない家は違う。

 無人島には、初めから人のための椅子がない。

 食器を伏せる向きも、夜番の交代表も、誰かの足へ合わせて削れた階段もない。

 人のいない家には、いない人の形が残る。

 椅子が引かれている。

 片方の靴だけが寝台の下へ入っている。

 帰るつもりで閉じなかった戸棚が、何十年もそのまま待っている。

 幽霊が怖いのではない。

 戻る予定だった生活だけが、戻った人より長く残ることが怖いのである。

「距離、二十七!」とエリア。

「何が!」

「船縁から船縁!」

「単位!」

「歩!」

「俺の?」

「平均!」

「誰と誰の平均!」

「今そこを議論する人は落ちます!」

 ゼロスター号は、外縁の小型旧艦へ斜めに並んでいた。

 船名は見えない。

 船腹の文字は風砂で削れ、最後の一字だけが残っている。

『――灯』

 灯を運ぶ船だったのか。

 十四番目の灯だったのか。

 灯を消した船だったのか。

 字の欠けた部分へ勝手な話を足さない、とセレナなら言う。

「二十七歩は、俺が二十七歩歩ける距離じゃない」

「空中では誰も歩きません」

「じゃあ何で歩」

「測量単位!」

「地図が人間を捨ててる!」

「人間が地図へ単位を預けたの!」

 旧艦は、ゼロスター号を見ていない。

 砲口は背市へ向いたまま。

 舵は小さく左右し、霧の中にある何かを追っている。

 甲板には人影なし。

 船から船へ渡す捕索を撃てば、相手の帆索を傷つける。

 傷つければ止められるかもしれない。

 傷つけたため全砲が撃つかもしれない。

「壊す前に見る」とロロ。

「お前が言うと信用しにくい」とハル。

「俺だって順番は知ってる! 見る、分かる、分解する!」

「最後が確定してる」

「見ただけで分かる機械が悪い!」

 ロロは短い滑空索をゼロスター号の帆柱へ掛けた。

 四本の補助腕が、先端へ磁石、鉤、布袋、請求札を付けている。

「請求札、今いる?」

「事故でなく作業だって残す」

「誰に請求」

「船の持ち主」

「いる?」

「いないなら空欄」

「空欄へ請求?」

「空欄だから無料になると思うなよ」

 ミラが車輪椅子から口を挟む。

「正しい。持ち主不明と、価値なしは別」

「味方が増えた!」

「料金二割」

「減らせ!」

「無料が嫌なんだろ」

「俺の主義を値切りに使うな!」

 ジルが操舵輪を半刻み回す。

「この役立たず船、あと一尺寄れ」

「相手と擦る!」とロロ。

「擦らん。向こうが同じ古星点へ戻る」

「分かるの?」とハル。

「三回見た。舵が左、右、左。全部、霧の同じ穴へ鼻を戻す」

 エリアの地図へ、旧艦の航跡が三重に描かれている。

 直線ではない。

 小さな三角。

 同じ三点を回る。

「現在の風路じゃない」と彼女。「星の位置も一つずれている。古い星図の航路点を使ってる」

「空の星が動いた?」

「星図の基準が変わった。六十年以上前なら、この三点は補給待機の標準三角だった可能性がある」

「船は古い地図で同じ場所を回ってる」

「地図上では正しい」

「現実では?」

「翼鯨の市場を砲撃してる」

「地図が正しくても駄目なんだな」

「今日だけで理解しないで。今まで何度言ったと思ってるの」

「今日の実地が強い」

「授業料を取ります」とミラ。

「お前の授業じゃない!」

 旧艦が三角の頂点へ戻る。

「今!」とジル。

 ハルは滑空索へ飛びついた。

 一、二、三。

 風を切る。

 左肩へ全体重を掛けない。

 右手で滑車を持ち、左は姿勢だけ。

 下は白い霧。上は旧艦の帆腹。

 途中、砲声。

『右舷――失礼。左舷砲列、敵軍籍を照合。奉還路を確保せよ』

「また!」

「五秒!」とセレナ。

「何が!」

「着弾まで!」

「先に言って!」

「今言いました!」

 ハルは身体を縮める。

 風圧弾が滑空索の下を通る。

 索が上へ跳ねる。

 左肩が抜けかける。

 手を離す。

「ハル!」

 落ちる。

 旧艦の側面へ靴底を付ける。

 壁を三歩走る。

 一。

 二。

 三歩目の前に、右手を船縁へ掛けた。

 左は使わない。

 身体を振る。

 甲板へ転がる。

「到着!」

「生きてるか!」とロロ。

「到着って言った!」

「荷物も到着って言う!」

「じゃあ人間到着!」

 甲板は乾いていた。

 霧の中にいるのに、露がない。

 板へ薄い灰が積もり、帆索の下だけ筋状に払われている。

 誰かが歩いた跡ではない。

 自動で巻き取られる索が、同じ場所を擦った跡だ。

「人影」

 ハルは船首。

 中央。

 船尾。

「なし」

「見える範囲で」とセレナの声。

「見える範囲で、なし!」

「復唱、受領」

 ノクスが次に滑ってくる。

 自分で索へ爪を掛け、風を二本尾で受ける。途中で一度、砲声へ耳を伏せたが、甲板へ軽く着いた。

「怖い?」とハル。

 ノクスは身体を細く伏せる。

 毛を逆立てない。

 それが本当に怖い時の姿だ。

「戻る?」

「ナァ」

「進む?」

「ノゥ」

「どっち」

 ノクスはハルの耳を噛んだ。

「第三案か!」

「翻訳が雑」とエリア。

 彼女も索を渡ってくる。

 着地前に踵を二度鳴らせないため、船縁へグリムリリーの石突きを二回当てた。

 カン、カン。

 旧艦の内部から、別の音が返る。

 カン。

「今の何」

「私の二回に、一回返した」

「返事?」

「反響」

「どこから」

「下」

 ロロが来る。

 補助腕二本で索を取り、残り二本は工具箱を抱える。人間の両腕は、請求札を守っている。

「優先順位!」とハル。

「紙が濡れたら証拠が残る!」

「ジルみたいなこと言うな!」

「学んだ!」

 最後にセレナ。

 彼女は証羽を一本、滑車へ固定していた。渡る間に見た砲口と艦間距離を、そのまま記録するためである。

「左側、支えいる?」とハル。

「必要なら言います」

「聞いてから触る」

「それで結構です」

 船縁へ着く直前、霧から別艦の帆が現れる。

 セレナの左側。

 彼女には見えない。

「左、船腹!」

「距離」

「三歩!」

「歩は平均ですか」

「今それ言う!?」

 セレナは滑車を縮める。

 身体が上へ寄る。

 旧艦同士の帆先が、彼女の靴底をかすめた。

「接触なし」とセレナ。

「今のは自分で記録しなくていい!」

「主観事故ほど必要です」

 全員、甲板へ立つ。

 ゼロスター号は距離を取り、霧の外で並走する。

「十分で戻れ」とカイルの通信。

「短い!」とロロ。

「砲撃されてる町の十分だ!」

「機関室まで五分!」

「寝室を見る」とハル。

「何で!」

「人がいたか分かる」

「機械を見れば」

「人がいない理由は機械だけじゃ分からない」

 ロロは反論しようとし、補助腕を一本だけ垂らした。

「……七分。残り三分で機関」

「短くなってる」

「俺の分を譲った!」

「料金」

「後で請求!」

 甲板扉は、鍵が掛かっていなかった。

 ハルが取っ手へ触れる前に、内側から開く。

 誰もいない。

 扉脇の歯車が、艦が三角航路の頂点へ入った瞬間だけ解錠している。

「歓迎?」

「勤務交代用」とエリア。「航路点に着いた時だけ甲板員が入れる仕組み」

「今も交代を待ってる?」

「仕組みは」

「人は」

「見てから」

 階段を下りる。

 空気は乾燥していた。

 黴の匂いがない。

 代わりに金属油、古い革、石鹸、紙。

 人が昨日までいたような匂いではない。

 だが、最初から人がいなかった船の匂いでもない。

 壁へ、外套が掛かっている。

 二十着。

 大きさが全部違う。

 肩へ補修布。袖口へ名前の頭文字。最も小さい一着だけ、肘が二度縫い直されていた。

「制服」とハル。

「旧王家補給艦隊」とエリア。「横翼章。王冠を外した改修後のもの」

「人がいた」

「いた、は言えます。いつまでいたかは別」

 ノクスが外套を嗅ぐ。

 右の尾が上がる。

 左は下がる。

「古い約束?」

「ノゥ」

「破られた?」

「ナァ」

 ノクスは次の外套。

 次。

 全部へ同じ反応。

「約束の匂いはある。破った匂いはない?」

 ノクスが短く鳴く。

「推測として記録」とセレナ。

「ノクスの意思は記録しないの?」

「私は意味を受け取れていません」

「鳴いた事実」

「記録済み」

 寝室。

 二段寝台が十。

 毛布は畳まれていない。

 誰かが朝起きた形で、中央がへこんでいる。

 枕元には本、木彫り、磨きかけの靴、針の止まった懐中時計。

 一つの寝台だけ、毛布が完全に整えられていた。

 下の名札は削られている。

「読める?」とハル。

 セレナが単眼鏡を近づける。

「削った方向は右から左。文字の深さは一定ではありません。名前は復元不能」

「誰かを消した?」

「事故で板が擦れた可能性。処分で削った可能性。本人が削った可能性。現時点では不明」

「不明ばっかり」

「不明を埋めるために来たのではありません。不明の形を狭めるためです」

 ハルは名札へ触れない。

 部屋の隅に、小さな椅子。

 座面へ三本の切り傷。

 誰かが待っていた。

 誰を待っていたかは、分からない。