第170話 第一章「号令だけの砲撃」後編
逃げ道は、船へ続く接舷帯だった。
そこを第四射が切った。
白い布輪が外れ、ゼロスター号が背市から半船身離れる。
係留索だけが二本残る。
「乗れない!」とハル。
「飛べ」とロロ。
「ミラが!」
「椅子は飛ばすな!」とミラ。
「誰も言ってない!」
「顔で言った!」
霧の左で、旧艦の砲が開く。
六・五秒。
次の弾は、ゼロスター号と背市の間へ入る。
接舷帯の代わりになる物はない。
その時、上空から帆柱が落ちてきた。
昨夜まで香料を運んでいた小型商船《青匙号》。
第一射の端を受け、浮力袋が裂れている。船体はラナの背から滑り落ち、霧の下へ沈み始めていた。
主帆だけが、切れた係留塔へ引っかかる。
帆布が斜めに張る。
背市からゼロスター号へ。
沈む船の帆が、一瞬だけ橋になった。
「一人ずつ!」とエリア。
「時間!」とロロ。
「五秒!」とセレナ。
「一人ずつじゃ間に合わない!」
「布の張力が――」
ジルが帆を見た。
「人六。椅子一。獣一。王子は重い」
「俺だけ分類が悪い!」
「筋肉を恨め」
「順番」とミラ。
風鈴ピアスが一度鳴る。
「ハル、先。向こうで受ける。エリア、ロロ。椅子は二索で吊るす。セレナ、ノクス。カイル最後」
「ミラは?」とハル。
「椅子にいる」
「椅子だけ行ったら?」
「その親切、殴るぞ」
「元気」
「痛いから元気に見せてる!」
「言えた」
「料金四割!」
ハルは帆へ踏み出す。
布は足場ではない。
踏むたび沈み、沈むほど《青匙号》を下へ引く。
一、二、三。
走る。
風圧砲の白光。
帆の下で、沈没船の船腹が霧へ消える。
「右!」とエリア。
「俺の?」
「帆の高い方!」
「先にそれ!」
ハルは右へ三歩。
白い砲弾が左を通る。
帆布が波打つ。
ゼロスター号へ跳ぶ。
右手で船縁。
左は添える。
肩で吊らず、腹を船腹へぶつけて転がり込む。
「到着!」
「美しくない」とエリア。
「今、評価?」
「次、私」
彼女は踵を二度鳴らす。
帆へ光の点を三つ置く。
道を固定するのではない。
踏んだ位置と、沈む布の変化を次の者へ見せる。
走る。
冷却布の下で踵が痛む。
一歩目は正確。
二歩目も。
三歩目で帆が沈み、息が短くなる。
「エリア!」
「見えてる!」
彼女はグリムリリーを伸ばす。
ハルが右手で取る。
「左肩を使わないで」
「今それ言う?」
「今だから!」
二人で引く。
エリアが甲板へ乗る。
ロロは補助腕四本を帆へ広げ、蜘蛛のように渡った。
「人として走れ!」とハル。
「腕も俺の費用だ!」
次は椅子。
ジルが左右二本の索を帆柱へ通す。二点の張力を一度だけ均等にする結索〈イーブン・ライン〉。縄の光が左右へ流れ、椅子の傾きを保つ。
「ミラ」とジル。「手を離すな」
「誰に言ってる」
「痛い奴」
「役職で呼べ」
「怪我人」
「一番嫌い!」
車輪椅子が帆の上へ出る。
下は霧。
左には落ちる《青匙号》。右には砲口。
ミラは義足を抱え、風鈴を鳴らさない。
移動物から勢いを盗む風術〈スティール・ゲイル〉を使えば、椅子を速められる。
だが、今の身体で盗んだ勢いを止められない。
使わない。
「ジル、三拍で引け」
「命令か」
「依頼」
「値段」
「生きた後」
「成立」
三人で索を引く。
椅子が滑る。
帆布が裂れ始める。
「あと二!」とロロ。
セレナがノクスを抱えようとする。
ノクスは避ける。
「本人へ聞け」とハル。
「今ですか」
「今だから!」
セレナは膝を曲げる。
「ノクス。自分で渡りますか。私の外套へ入りますか」
「ノゥ」
「どちら」
ノクスは外套の内側へ飛び込んだ。
「受領」
セレナが帆へ乗る。
黒外套が風を受ける。
左側の視界が霧へ溶ける。
「三歩右!」とエリア。
「右は見えています」
「なら二歩先、布の裂け目!」
「見えていません」
「今伝えた!」
セレナは進路を直す。
証羽を一枚、帆へ落としかける。
ノクスが口で取る。
「証拠品を噛まないで」
「ナァ」
「助かりました」
最後、カイル。
帆布は半分まで裂れている。
沈没船が下へ引く。
「重い王子!」とジル。
「称号にするな!」
「マント外せ!」
「王家章が」
「船より高いか!」
カイルは半マントの留め具を外す。
深紅の布を背市側へ投げる。
「捨てた!」とベルナ。
「預けた!」
彼が帆へ踏み出す。
砲口が、同時に三つ開いた。
『右舷――失礼。左舷砲列、敵軍籍を照合。奉還路を確保せよ』
「言い間違いまで同じ」とハル。
「感心してる場合か!」
六・五秒。
カイルが走る。
大きな身体で帆が沈む。
第一弾、上。
第二弾、後ろ。
第三弾――ゼロスター号の船首。
「盾は出すな!」とエリア。
「分かってる!」
盾を出せば足が止まる。
止まれば帆と一緒に落ちる。
カイルは跳ぶ。
ハルが右腕を伸ばす。
左肩は使わない。
届かない。
「カイル!」
エリアのグリムリリーが、カイルの腰帯へ絡む。
ロロの補助腕が槍柄を取る。
ジルがロロの工具箱を取る。
ミラが車輪椅子の固定輪を踏む。
一人の腕では足りない。
だから一列になる。
カイルが船縁へぶつかる。
「受領!」
ハルとカイルが同時に言った。
「何を!」とロロ。
「俺を!」
「俺が!」
「会話が混線してる!」
引き上げる。
直後、第三弾が沈没船の帆を切った。
白布が朝空へ散る。
《青匙号》の船体は霧の下へ消えた。
橋はなくなる。
ゼロスター号だけが、背市から離れた。
離れたことは、見捨てたことではない。
だが距離は、罪悪感へよく似た形をしている。
背市カンティレーナが霧の向こうへ小さくなる。
修理中の屋根。避難鐘。置いてきた住民。
ハルは船尾へ戻ろうとする。
「どこへ」とエリア。
「背市」
「今の接舷路はない」
「別を探す」
「先に身体」
「大丈夫」
セレナが即座に言う。
「禁止語へ指定したはずです」
「誰が」
「全員で」
「聞いてない」
「あなたが寝ている間です」
「無効!」
「左肩、痛みは」
「二。今は一」
「腕を上げて」
上げる。
肩は動く。
吊るす動作だけが危険。
エリアが腰帯の位置を直す。
「次の乗り移りは肩でなく腰。私に角度を聞く」
「了解」
「『大丈夫』は」
「言わない」
カイルは甲板へ片膝をついている。
笑顔は残る。
呼吸は浅い。
「肋骨」とセレナ。
「一本も増えてない」
「痛みを」
「四」
「今日初めて正直」とハル。
「日付が変わってまだ半日だ」
「密度が高い」
「時間を濃くするな」
王盾は一度使った。
次を当然の手段にしない。
セレナは籠手へ封印札を貼るのではなく、カイル本人へ確認する。
「次の展開前に申告を」
「約束する」
「期限」
「本日、艦隊離脱まで」
「受領」
ミラは義足を抱えたまま、背市を見る。
「戻せ」と言う。
「椅子を?」とジル。
「船首を。町との通信角を取る。見えなくなると、向こうは逃げたと思う」
「お前が?」
「私が一番そう思う」
動けない時、他人の善意へ置いていかれる恐怖。
ジルは何も言わず、ゼロスター号を半度だけ振る。
通信塔が背市を捉える。
サーガの声が入る。
『ラナは急旋回できない。昨日の噴気孔傷が開く。町は東へ退避する。こちらを助けるため戻るな。艦隊の目を見つけろ』
ベルナが続ける。
『競売品は保全。住民避難を優先。なお、逃げたとは記録しない』
ミラの風鈴が、鳴らないまま揺れる。
「親切、いくら」と言いかける。
やめる。
「受領」とだけ返した。
距離は残る。
通信も残る。
見捨てないことは、必ず隣へいることではない。
別の場所で、必要な役割を続けることもある。
「係留、全解除!」とロロ。
「主帆!」とエリア。
「六割!」
「今は何割!」
「帆橋の破片が絡んで五!」
「減った!」
「見れば分かる!」
ジルが操舵輪へ入る。
「この役立たず船め。左へ四」
「俺の船を罵るな!」
「動く船だけ罵る。死んだ船には言わん」
ゼロスター号が旋回する。
霧の弧。
二十一隻。
砲撃は背市へ向いている。
だが全部ではない。
右端の三隻だけが、ゼロスター号へ船首を向け始めた。
「追尾?」とハル。
「まだ断定しない」とセレナ。
第一の旧艦が撃つ。
弾は、ゼロスター号が三秒前にいた位置へ飛んだ。
「遅い」とジル。
「狙ってるけど修正が古い」とエリア。
第二。
同じ遅れ。
「船を見てない」とミラ。
椅子を甲板へ固定し、灰緑の瞳を細める。
「何を見てる」
「札」
「どの」
「昨日、自由港から持ってきた量札。積荷の浮力負担を記録した穴札。ゼロスター号の船尾にも仮登録が一枚ある」
ロロの顔色が変わる。
「外す!」
「待って」とセレナ。
「砲に狙われる札だぞ!」
「外した結果を観測する前に証拠を動かさないで」
「撃たれながら保全すんな!」
「位置を記録。封印後、外してよい」
「三秒でやれ!」
セレナが証羽を当てる。
ロロが札を切り離す。
次の砲口。
ゼロスター号を向いていた砲が、ゆっくり背市へ戻る。
「札」とハル。
「可能性が上がりました」とセレナ。
「言い方!」
「断定はまだです」
「じゃあ、札のない船へ行く」とハル。
霧の中、艦隊の外縁に小型艦が一隻ある。
砲門二。
甲板は空。
船腹には、削れた翼章。
「乗り移る」とエリア。
「全員は危険」とセレナ。
「俺、エリア、ロロ、ノクス」とハル。
「勝手に決めない」とエリア。
「じゃあ意見」
「私は行く。測る必要がある」
「俺も行く!」とロロ。「あの標的盤、分解しないと寝られねえ!」
「寝る理由を分解へ求めるな」とカイル。
ノクスはすでに船首へ立っていた。
「ノゥ」
「行くって」
「翻訳を証拠にしないでください」とセレナ。
「セレナは?」
「ゼロスター号で音声と砲撃を記録します。次に入る時は私も」
「カイル」
「背市の避難をつなぐ。俺の名を呼んだ理由も調べる」
「呼んだ?」
「まだだ」
「何が」
霧の中央。
最も大きな旗艦の伝声塔が、ゆっくりゼロスター号へ向く。
同じ保存音声ではなかった。
低い鐘。
歯車が、名前を探すように三度回る。
『星痕照合』
カイルの右手首にある輪状の痕が、服の下で熱を持つ。
『王嗣統監――』
古い敬称。
今の宮廷では、法典の余白にしか残らない言葉。
『カイル・アークレイ殿』
全員が、彼を見る。
カイルは笑わなかった。
『王家の声、継承待機』
旗艦の砲口が一斉に開いた。
そのすべてが、王太子ではなく、自由港の量札を付けた町へ向いたままだった。