第174話 第三章「同じ言い間違い」後編
レムは、背市外縁へ係留された臨時拘置艇の保全室にいた。
両手へ誓紋封じ。
足元へ二本の監査線。
壁は翼鯨ラナの背へ直接固定せず、独立した浮力枠に載っている。
昨夜の事件で彼が入れた帰投号令が、艦隊を呼んだ。
それは事実である。
では彼が今も命令しているか。
別の問いである。
「あなたは何を送った」とセレナ。
「すでに答えました」
「文言を」
「奉還」
「一語だけ」
「一語で足りる仕組みでした」
「足りた結果を知っていた?」
「艦隊が来ることは」
「砲撃は」
レムは黙る。
セレナは沈黙の長さを記録しない。
迷いか、拒否か、計算かを見分けられないからである。
「現在、艦隊へ命令できますか」
「できません」
「証明を」
「できないことを、どう証明しろと」
その言葉が、セレナの胸へ小さく刺さる。
できない。
いない。
見ていない。
法は、存在する物を記録するのが得意である。
不在は、しばしば怠慢と同じ欄へ押し込まれる。
「命令経路を知っていますか」
「王家の声が最上位。各艦の代行。標的札。そこまで」
「誰が現在の標的名を入れる」
「札読み機」
「人ではなく」
「人が札を置く」
「今、艦隊の札読み機へ直接置いた人は」
「知りません」
「あなたでは」
「ありません」
セレナは彼の顔を見る。
証羽は、嘘を判定しない。
ノクスは地下へ連れてこなかった。生き物を法廷道具にしないためである。
「あなたが艦隊を呼んだ責任は残ります」とセレナ。
「現在命令していないなら、消えますか」
「消えません」
「なら同じでしょう」
「違います」
声が少しだけ強くなる。
「呼び出した責任と、砲撃一発ごとの現在意思を同じ人物へ重ねれば、止め方を誤る」
「私を止めても止まらない、と」
「それを検証しています」
「私が悪くないと?」
「その言葉を私へ選ばせないでください」
セレナは羽根を伏せる。
「あなたがしたことを、あなたがしていないことまで増やして軽くしない」
レムは初めて、彼女から目を外した。
船長室へ戻ると、ミラが音声紙へ値札を付けていた。
「何をしているんですか」
「売らない。並べてる」
五枚の紙。
左から、咳まで同じ号令。
右端に、標的名だけを刻んだ短片。
「前半は一枚。後半は何枚でも差し替え」とミラ。
「物の所有みたい」とハル。
「言葉の身体と、宛先の権利を分けてる」
「権利じゃない」とセレナ。
「じゃあ役割」
「命令本文と対象指定」
「長い」
「正確です」
「正確な言葉は、時々高い」
「値段へ戻さないで」
ミラは最後の短片を指で弾く。
今朝、一周目。
『背市カンティレーナ』
二周目。
『南宿量区』
三周目。
『ゼロスター号』
四周目。
『灰風便保管庫』
前半の声は同じ。
最後の名だけが変わる。
「人が喋ってるなら」とミラ。「標的が変わるたび、息の置き方も変わる。長い名なら早く、短い名なら余る。でもこれは前半が毎回同じ長さ。最後の名だけ別の口へ落としてる」
「あなたは音声鑑定の訓練を?」
「契約の読み上げを何百回も聞いた。騙す奴は、免責条項だけ息が速い」
「経験として記録します」
「料金」
「公的協力費を申請できます」
「本当に払う人、怖い」
「無償が嫌なのでしょう」
「払われると借りじゃなく仕事になる。逃げられない」
「あなたが選んでください」
ミラは少し黙る。
「保留」
「受領」
ハルが二人を見る。
「セレナ、今日やさしい」
「通常です」
「通常の定義が変わった」
「あなたの観測精度が上がった可能性」
「感染してる」
音声の最後だけが変わる。
では何が名を選ぶのか。
ロロは《残灯》の標的盤から、細い金属帯を一本引き出した。
穴が並んでいる。
文字はない。
穴の位置と数だけ。
「札読み機が、外の穴札へ音を当てる。返ってきた響きを、この帯へ写す。帯の番号に対応した標的名片を選ぶ」
「自由港の量札?」とハル。
「似てる。でも同じかは、明日分解して比べる」
「明日まで町が」
「今すぐ全部外せば、浮力負担の帳簿が壊れる!」とミラ。「カンティレーナは昨日、自由港式の仮量札で屋根と積荷を分散した。札だけ切れば、今度は町が自分の重さで傾く」
「砲撃か、落下か」
「二択へするな」とエリア。
「第三案」
「標的盤を誤読させない方法を探す」
「先に構造を見る」
「ロロの時間」
「やっと!」
その時。
遠く、自由港方面から伝羽が来た。
灰色ではない。
橙と黒の二色。
ジルが使う緊急結索札を脚へ巻いている。
「港から?」とミラ。
「ジルはここ」とハル。
「留守番の船団会」
ミラが羽根を取る。
文は短い。
『全量札が、同時に鳴った。
古い軍籍照合音。
港門は閉めていない。
閉めれば下層船が出られない。
指示を求める。』
ミラの指が、風鈴を握る。
鳴らない。
「指示」とハル。
「私へ?」
「船長じゃなくても、向こうが聞いてる」
「私一人で決めない」
「じゃあ返事」
ミラは書く。
『港門を一人の命令で閉めるな。
量札を外すな。
人を先に分散。
砲撃が見えるまで待て、ではない。見張りを増やせ。
原因調査中。次の返事を約束しない。』
「最後」とハル。
「戻れない約束はしない」
羽根が飛ぶ。
直後、船長室の音声紙が回り始めた。
誰も手を触れていない。
艦隊から来た新しい標的名を、受信器が拾った。
『右舷――失礼。左舷砲列、敵軍籍を照合。奉還路を確保せよ』
咳。
息。
六十年以上前の同じ間。
最後だけ、平らな別音声。
『自由港ヴェイン』
セレナは羽根を取る。
「現在の発声者、未確認」
書きかける。
未確認ではない。
確認できていない誰かがいる、と文が勝手に前提してしまう。
彼女は線を引いて消す。
「現在の命令者について、存在を示す証拠なし」
それでもまだ、手が止まった。
証拠が悪意へ結びつかない。
咳の主は過去にいる。
標的名を選ぶのは穴札である。
ならば、誰を捕まえれば次の砲撃が止まるのか。
答えのない欄を、法は嫌う。
セレナも、嫌っていた。
霧の中で二十一隻が、同じ言い間違いをした。
誰一人、間違いに気づかなかった。
気づく者が、もう乗っていないからである。