第180話 第六章「沈めれば儲かる」後編
医務室。
マオの右足首へ冷却布。
左腿の装具痕へ薬。
骨折は見られない。
歩行再開は診察後。
軽傷と書けば、訓練事故は小さく見える。
重傷と書けば、彼女の身体を物語へ使う。
ティアは報告書の傷病欄へ、観測された事実だけを書いた。
『右足首腫脹。自力荷重で疼痛増加。
左装具接合部擦過。
意識清明。
本人、訓練中止判断へ参加。』
「最後いる?」とマオ。
「いる」
「感動話にするな」
「しない。あなたが判断した事実」
「なら、私が痛みを最初に隠したのも書け」
ティアの筆が止まる。
「責任をあなたへ移さない」
「移せと言ってない。消すな」
「……受領」
追記。
『本人、初回疼痛申告を遅延。理由は未聴取。』
「未聴取?」
「今、聞くと答えを急がせる」
「少し学んだ」
「評価は報告書の外で」
「第一条さん」
「その呼称も記録外」
オルトが入る。
左肩へ金属帯。
片眼の白濁。
手には自分の報告書。
「俺の命令とティアの命令が競合した」
「設備異常時、教官権限が上」とティア。
「規則上は」
「なら私の命令が下」
「だが総指揮の変更を全体へ伝える手順を、俺は取らなかった」
「時間が」
「時間がない時の手順を教える訓練だ」
「私が東門命令を撤回しなかった」
「撤回鐘が一つしかなく、煙区画へ届かなかった」
「装備設計」とマオ。
二人が見る。
「床固定を足裏術だけで想定した。装具の固定と腰索が同時に働く検証、してない」
「誰の責任」とティア。
「今決めるな」とマオ。「一人の名前を書けば、残りがきれいになる」
報告書の責任者欄。
空白。
ティアは、自分の名を書けば楽だった。
責任を取る者になれる。
処分を受け、物語を閉じられる。
だが、それは権限を一人へ集中した時と同じ形かもしれない。
「空白を放置しない」と彼女。
「期限」とオルト。
「三日。参加者全員へ聞く。訓練映像、床機関記録、号令到達時刻を照合。その後、処分と改訂を分ける」
「処分なしも選択肢」とマオ。
「含める」
「ティアだけ処分も?」
「含める」
「オルトだけ」
「含める」
「誰も悪くない」
「含める。ただし、誰も悪くないと、何も変えないは同じにしない」
マオは白墨の端を噛みかけ、医務室なので止めた。
「痛い」と初めて自分から言う。
「五?」とティア。
「十段階で六」
「さっき百」
「うるさい時は尺度を変える」
「記録できない」
「人間だから」
ティアは報告書を閉じる。
結論は、まだ書かない。
旗艦《レガリア》へ、学院から短い伝羽が届いた。
事故速報。
『混成救難訓練を停止。
負傷者一名、意識清明。
複数号令の競合あり。
原因、責任、処分は調査中。
結論前の外部解釈を禁ず。』
署名、ティア・グランツ。
追記、マオ・ケルン。
『私を「守るため」に詳細を消すな。足は痛い。生きてる。話は続く。』
「マオらしい」とハル。
「返事は」とエリア。
「今の事件を解く助言を求めない」とセレナ。「負傷への見舞いと、受領だけ」
ハルは書く。
『受け取った。痛いって書いてくれて助かった。こっちも二つ以上の命令がぶつかってる。原因はまだ。』
「最後、情報漏洩」とセレナ。
「二つ以上だけ」
「艦隊事件の存在は公知です」
「なら」
「可」
エリアが一行。
『地図は、止まった人を障害物として描かない。訓練路の更新時、必要なら図面を送る。』
「必要なら」とハル。
「向こうが選ぶ」
ロロは工具の絵を描く。
「何」
「装具の留め具、壊れたなら寸法よこせ」
「壊れたとは書いてない」とセレナ。
「じゃあ『壊れてなくても点検代一ルク』」
「見舞いが請求書!」
「マオは無料を嫌う!」
ミラは何も書かない。
「送らない?」とハル。
「今は私の言葉が、向こうの事故を私の話へ引っ張る」
「似てるから?」
「似てる時ほど、同じ答えを送りたくなる」
伝羽は飛ぶ。
違う場所で続く話を、こちらの解決へ使わない。
六の鐘まで、一刻。
買付会の曳航艇が、霧の外へ来た。
白い船体。
黒い沈没印。
船首に、星帆輪を切る大型鋸。
「早い」とセレナ。
「契約成立前です」とエリア。
「待機料を取りに来た」とミラ。
曳航艇から通信。
『契約者ベルウェザー。危険廃材化準備を開始する。署名後、最寄り艦から浮力袋を破断』
「署名してない!」とハル。
『準備は契約外』
「抜け道」とミラ。
『砲撃が自由港射程へ入るまで二刻。沈没処理が最短』
「最短は正しい?」とハル。
「船を止める方法がまだないから、現時点では」とセレナ。
「じゃあ」
「最短と、選ぶべきは別」とエリア。
曳航艇の鋸が回り始める。
狙いは外縁小型艦《残灯》。
人はいない。
船体を切れば、一隻は沈む。
だが《残灯》は命令の代行線へつながっている。
沈んだ時、次の艦がどう反応するか不明。
「止めろ」とカイル。
『王家命令は契約当事者外』
「国防権限」
『自由港籍船へは及ばない』
「そこだけ正しい!」
ミラが通信管を取る。
「準備条項、第五項を読め」
『危険区域へ入る前に――』
「全部」
『契約対象の船籍、乗員生存、積載危険物、連鎖浮力への影響を確認する』
「確認した?」
『無人艦』
「乗員がいない観測と、生存者がいない確認は別」
『詭弁だ』
「契約文だ」
『積載物は軍用』
「未投函手紙、忠誠誓文、個人遺留品、命令管。危険物分類を一つずつ」
『砲撃中だ!』
「だから契約を飛ばす?」
『人命が優先だ』
「なら、準備料の支払いを沈没成立へ結ぶな。今すぐ救難作業として入れ」
向こうが黙る。
「救難なら」とミラ。「沈めても廃材権は自動取得しない。止めた場合も同じ賃金。危険手当は私が自由港基金から仮払い。最終負担は監査」
「ミラ」とジル。
「何」
「自由港基金、残高」
「知ってる」
「足りん」
「知ってる」
「誰が承認」
「港の三者」
「聞いてない」
「今から聞く」
「時間」
「救難開始だけは、契約より先」
ミラの声が止まる。
それは、まだ彼女が制度にしていない言葉だった。
無償の親切は、人を所有する。
そう学んで生きてきた。
だが人が死ぬ前に、契約参加の資格を確認する時間はない。
「仮払いは私個人」と彼女は言い直す。
「いくら」とハル。
「義足三本分」
「高い!」
「命より安い、とは言わない。私の義足も生活だから」
「じゃあ」
「今、払える物を出す」
曳航艇へ伝える。
「沈没準備を停止。救難待機へ変更。報酬は停止でも沈没でも同額。廃材権なし」
『買付会が認めない』
「なら帰れ」
『契約者ではない』
「そう」
ミラは七十六枚の契約書を持ち上げる。
「まだ契約者じゃない」
紙を破らない。
破れば、相手は控えを持っている。
破った音だけが勇ましく残る。
表紙を閉じる。
七十六枚を順番どおり揃える。
自分の署名欄へ、一本の線を引く。
拒否ではない。
未署名でもない。
大きく三文字。
『不成立』
「返却」とミラ。
契約書を補給鉤へ載せる。
「理由を」とセレナ。
「沈める方へ高く払う契約では、止める判断を買えない」
「船を人だと思ったから?」とハル。
「違う」
「可哀想?」
「違う」
「じゃあ」
「命令に縛られた物を壊して、自由にした顔をしたくない」
ミラは風鈴を鳴らさない。
「船は自由を欲しがらない。だから、私たちが何を残すかは、私たちの責任になる」
補給鉤が契約書を運ぶ。
買付会の曳航艇は、鋸を止めた。
帰るか、救難へ残るか。
向こうの物語は、向こうが決める。
旗艦の食堂で、ミラは一枚の銅貨を卓へ置いた。
「何の」とハル。
「この席を使った代金」
「誰に払う」
「持ち主不明」
「払えない」
「だから預ける。名が見つかったら返す。見つからなければ、乗員記録の保全費」
「無料で座るの、嫌?」
「借りにしたくない」
「でも席の人、請求してない」
「だから一ルク。高すぎない額を私が選んだ」
セレナは銅貨を証拠袋へ入れない。
「一時預りとして記録します」
「利息なし」
「勝手に条件を増やさないで」
外で、二十一隻が同じ号令を繰り返す。
沈めれば、すぐ静かになる。
静かになることと、終わることは同じではなかった。