第179話 第六章「沈めれば儲かる」前編
沈んだ船は、持ち主を失う。
少なくとも、多くの港法はそう考えた。
浮いている船には、船主がいる。
船長がいる。
乗員がいる。
借金があり、修理費があり、帰る港がある。
沈めば、話が単純になる。
廃材。
危険物。
引き上げ権。
保険金。
人間は、複雑な物を壊して単純にした時、しばしばそれを解決と呼ぶ。
戦争の後に最初に繁盛するのは、墓掘りと船材屋だった。
死者へ敬意がないからではない。
敬意だけでは、明日の屋根を直せないからである。
問題は、屋根を直すために船を沈めたくなるほど、沈没へ高い値段を付けた時に始まる。
「総額を言え」とカイル。
「言わない」とミラ。
「国の安全保障に関わる」
「王家が買う気?」
「買わん」
「なら価格情報は契約者の資産」
「艦隊の砲が俺の国民へ向いてる!」
「私の港にも」
「だから共有しろ」
「無料で?」
「そこへ戻るな!」
旗艦《レガリア》の食堂。
百二十席の一つへミラの車輪椅子を固定し、長卓いっぱいに契約書を広げている。
紙は七十六枚。
表紙に大きな文字。
『危険廃材化契約』
その下に、読ませる気のない細字が続く。
沈没確認。
活動停止。
武装解除。
船籍帰属。
所有権復帰。
保険事故。
廃材優先購入。
保存誓力の扱い。
「細字が多い」とハル。
「大きい字は相手の希望。小さい字は相手の恐怖」とミラ。
「どっちを読む」
「恐怖」
「性格悪い」
「生き残る」
ミラは第十八条を指す。
『対象艦が自力浮航能力を失い、回復不能な高度低下へ入った時点で、危険廃材化成立。』
「沈めれば成立」とハル。
「第十九条」
『対象艦が停止した場合、旧船籍者、王家、軍務院、乗員相続者その他の権利主張を待ち、回収契約を保留する。保留期間中、危険手当なし。』
「止めると払わない」
「それだけじゃない」
第二十三条。
『沈没時、船体星銅は現場回収者へ四割。砲身星鉄は買付会へ五割。残余は救難費へ充当。』
「自由港へ入るのは」とエリア。
「名目上二割。実際は引揚げ費、保管費、監査費を引いて一割三分」
「港三回分は」
「全船売った総額。住民へ直接入るとは言ってない」
「言い方!」
「価格は大きく、取り分は小さく見せるのが契約」
「逆じゃ?」
「売る時と払う時で逆」
セレナが第十二条へ単眼鏡を当てる。
「契約者が対象艦の危険性を認識しながら停止方法を選択した場合、沈没益の逸失責任を負う可能性」
「何それ」とハル。
「止められるのに沈めなかったら、儲け損ないを請求される」とミラ。
「悪い契約」
「悪いと一語で捨てるな。廃艦が町へ落ちる時、早く沈めた者へ金を出す仕組みは役に立つ」
「今回は」
「止められるかもしれない船まで、沈めた方が高い」
「仕組みが悪い?」
「同じ仕組みが、違う状況で人を押す」
「ティアみたいなこと言う」
「料金」
「誰に払うの!」
カイルは契約書を奪おうとしない。
左手を卓へ置く。
本来の利き手。
「王家が艦隊を接収すれば、契約は無効か」
「王家が所有を主張すれば、沈没益は減る。代わりに王家が修理、保管、被害賠償を負う」
「国費」
「国民の金」
「分かってる」
「王子の財布じゃない」
「分かってる!」
「声が大きい時は、分かってても嫌な時」とハル。
「お前は俺の注釈書か!」
「無料」
「ミラ、値段付けるな」
「もう三ルク」
「付いた!」
食堂の床下で、オーダー・パイプが回る。
『右舷――失礼。左舷砲列――』
ミラは紙から顔を上げる。
「この船、売れる」
誰も答えない。
「星帆輪は古いけど、今の船より長持ち。砲身は溶かせる。船腹の星銅は自由港の下層浮力梁へ使える。命令筒の星蝋は、切り分ければ高級証言庫。二十一隻。港の借金、病院船、共同工房、私の義足を十本替えても余る」
「義足十本いる?」とハル。
「九本売る」
「商売!」
「でも」とエリア。
「でも?」
ミラは指先で風鈴を押さえる。
「船は人じゃない」
「誰も人だとは」とハル。
「人みたいに可哀想だから沈めない、は嫌い。船板は泣かない。砲は怖がらない。命令筒も、自由になりたいなんて思わない」
「じゃあ売る?」
「船が人じゃないから、人が残した物を好きに壊していいともならない」
手紙箱。
百二十席。
未投函の封書。
「沈めれば、命令の輪も、作った奴の署名も、兵士が一晩と思っていた手紙も、全部同じ海へ落ちる。引き上げるのは値段の付く金属だけ」
「記録は先に回収できる」とセレナ。
「全部?」
「不可能です」
「なら、沈める決断へ記録の値段が入ってない」
「入れればいい?」とハル。
「値段にできない物を、ゼロで計算するなって話」
ミラは契約書を閉じない。
契約を嫌って破るのは簡単だ。
破れば、自分が正しい顔をできる。
だが紙を破っても、沈没へ高い値段を付けた市場は残る。
「返事の期限」とセレナ。
「今日の六の鐘」
「あと二刻」
「契約者が署名しなければ」
「買付会は別の奴へ回す」
「誰かが沈める」とハル。
「だから、私が受けて止める案もある」
「契約へ署名して、沈めない?」
「逸失責任を取る。港へ借金が増える」
「どれくらい」
「港を一回沈めるくらい」
「悪い!」
「だから計算してる」
ジルが食堂の入口へ寄りかかる。
「計算は終わってる」
「数字は」
「答えも」
「なら言え」
「言えば、あんたが楽になる?」
「ならん」
「私が楽になる?」
「ならん」
「じゃあ急かすな」
「砲撃は急かす」
「砲に答えを選ばせるな」
ジルは銅笛を噛む。
反論しない。
同じ頃。
王立星航学院の救難訓練場では、二つの鐘が同時に鳴った。
一つは赤。
『東門へ避難』
一つは白。
『その場で足場固定』
どちらも、正しかった。
だから事故になった。
「第一班、東門!」
ティア・グランツの声が訓練場を切る。
灰銀の短髪。
右耳後ろの深紅の編み込み。
双規刃アレイオンは抜かず、救難指揮用の短い白棒だけを持っている。
床は、嵐庭園で使った回転板を縮小した訓練機。
四つの区画が別々に傾き、煙筒から無害な灰霧が出る。
参加者は、学院正規生だけではない。
下面区の工房徒弟。
資格を持たない現場救難員。
貴族課程の指揮生。
装具利用者。
翼のある生徒。
飛べない生徒。
異なる規則を持つ者を、同じ訓練へ入れた。
それがティアの混成救難班だった。
「復唱!」とオルト・グレン教官。
「第一班、東門!」
正規生が復唱する。
同時に、床下の機関が異常音を出した。
オルトの白い警戒鐘が鳴る。
「全員、その場で固定! 回転軸が外れる!」
「第一班は東門へ移動中です!」
「今は一つにする! 固定!」
ティアの命令。
オルトの命令。
どちらが上位か。
訓練規則では、総指揮はティア。
設備異常時の安全権限はオルト。
生徒たちは両方を知っていた。
だから半分が走り、半分が止まった。
「止まれ!」
「東門!」
「どっち!」
「前を空けろ!」
「装具班、低路!」
号令が増える。
善意が、音量を競う。
マオ・ケルンは、第一班の最後尾にいた。
左脚へ星鉄装具。
右眼へ跳ね上げ単眼レンズ。
床の傾きを足裏で読み、走る生徒の脇を低い姿勢で抜ける。
「東門、段差三!」
「分かってる!」
「お前じゃなく後ろ!」
後ろの生徒へ言う。
その瞬間、床板が逆へ回った。
オルトの固定命令を聞いた生徒が、マオの肩を掴む。
「止まれ!」
「触る前に聞け!」
マオは足裏の摩擦を一瞬だけ固定する術〈アンカー・ステップ〉を使う。
左装具が床へ留まる。
だがティアの東門命令で、前の班は彼女の腰索を引いた。
足は止まる。
身体は進む。
装具の留め具が鳴る。
「マオ!」
ティアが走る。
右膝へ痛み。
隠すため、さらに姿勢をまっすぐにする。
「索を離せ!」
「班を分けるな!」と別の指揮生。
「今は離す!」
「総指揮命令は東門です!」
「条件変更!」
「変更鐘がない!」
規則は、変更を全員へ聞かせなければ成立しない。
煙。
警戒鐘。
二つの号令。
マオの左足は固定。
右足が滑る。
身体がねじれる。
白い痛み。
彼女は声を出さない。
「痛み申告!」とティア。
「先に索!」
「痛みを」
「五!」
「十段階か」
「聞くな!」
「救難条件だ!」
「百!」
「ミラ式を誰が教えた」とオルト。
「知らない!」
ティアはアレイオンを抜く。
双剣を床へ置き、規則円を描こうとする。
円内へ同じ制限を課す陣〈イコール・リング〉。
「円内、移動禁止――」
「使うな!」
マオの声。
最も怒る時の敬語ではない。
痛みが大きすぎて、飾る余裕がない。
「私の足はもう固定されてる! 全員止めたら、索を外す奴も止まる!」
ティアの剣が止まる。
同じ制限は、公平ではない。
「訂正」とティア。
声を一語ずつ区切る。
「円を使わない。前索班、二人だけ固定解除。後索班、張力を保つ。ケルン生、装具へ触れてよいか」
「留め具だけ。脚は触るな」
「受領」
「私がやる」と装具工房徒弟。
「名前」とティア。
「今?」
「誰が触ったか残す」
「リオ」
「リオ生、留め具。オルト教官、床軸停止」
「復唱。床軸停止」
「私は前索を切る」
「切る?」とマオ。
「解く時間がない」
「後で請求」
「受領」
双規刃が索を切る。
張力が消える。
装具の留め具が外れる。
マオが倒れる前に、床へ自分の両手を付く。
誰も無言で抱えない。
「担架」とオルト。
「自分で乗る」とマオ。
「右足へ荷重をかけるな」
「左は」
「装具接合部に擦過。右足首、捻挫疑い」
「疑いで運ぶな」
「疑いだから運ぶ」
「本人へ聞け」とティア。
オルトが一拍止まる。
「マオ・ケルン。担架へ自力で移るか。二人の補助を受けるか。ここで診察を待つか」
「担架。補助一人。リオ」
「受領」
リオが手を出す。
マオが掴む。
訓練は停止した。
避難成功でも失敗でもない。
事故が起きたから、途中で止めた。