第178話 第五章「旗艦の食堂」後編
食堂の奥には、誓文室があった。
礼拝堂ではない。
飾りも祭壇もない。
長卓と、指印を取る銀板と、オーダー・パイプへつながる二十一本の細管。
壁へ、誓文が刻まれている。
『我らは、王家の空路と帰還する民を守る。
上官不在時は、直前の合法命令を保持する。
旗艦不在時は、最上位残存艦の指揮へ従う。
通信不通時は、保存音声を上官の声として扱う。
敵補給港を確認した場合、奉還路を確保する。』
「終了条件」とハル。
ない。
『一夜』とも。
『夜明けまで』とも。
『乗員帰投まで』とも書かれていない。
「手紙には一晩」とカイル。
「誓文にはない」とセレナ。
「説明された内容と、署名した文が違う?」
「手紙だけでは断定できません。本人が一晩と思い込んだ可能性、口頭説明があった可能性、後から誓文が改訂された可能性」
「でも終わりがない」
「事実です」
銀板には、百以上の指印。
右手。
左手。
指を失った者は手の側面。
押し方が弱い者へ、別の者が紙を支えた跡。
カイルは自分の右手首を見る。
王家の輪状星痕。
「これを作ったのは、俺の先祖か」
「王家だけではありません」とセレナ。「軍法官、造船院、艦隊司令、署名者」
「だから俺の責任じゃない?」
「あなた個人が過去に作った責任はありません」
「今、止められる権限がある」
「それは別です」
「別にできるか?」
セレナは答えを急がない。
「過去の作成責任と、現在の権限行使責任は分けられます。分けなければ、あなたは生まれる前の罪を背負う。分けすぎれば、今持つ鍵を見ないことになる」
「法って面倒だな」
「わざとです」
「エリアと同じこと言う」
「誰かが勝手に決めないため」とハル。
「お前まで」
「この航海で覚えた」
「出発してまだ半日だぞ」
「密度が高い」
エリアが誓文の第四行を指す。
『通信不通時は、保存音声を上官の声として扱う。』
「保存音声が上官」と彼女。「では、その保存音声の上官は」
隣の板。
『旗艦命令は王家緊急声を待機する。王家声不在時、艦隊最上位命令を代行する。』
「旗艦が王家を待つ」とハル。
「王家がいない間、旗艦が代わり」とエリア。
「その旗艦は、誰の命令へ従う」
「艦隊最上位命令」
「それ、自分では」とハル。
エリアは指を止める。
「自己参照の可能性」
「また可能性」
「全艦の代行規則を確認しないと、輪になっているか分からない」
「輪だったら」
「誰も新しく命じなくても、互いを上官として動き続ける」
誓文室の管が震える。
食堂の方から、同じ号令。
『右舷――失礼。左舷砲列――』
この声の主は、手紙の中では笑われていた。
今は二十一隻を撃たせる。
本人が望んだかどうかを、船は問わない。
食堂へ戻ると、ノクスが一つの椅子の下へ座っていた。
何も咥えていない。
匂いも追わない。
ただ座る。
「何かある?」とハル。
返事なし。
椅子の背へ、小さな刻み。
『七番席 ネイラ・オウ』
その下に、別の手で一行。
『豆を残すな。帰ったら好きな物を食え。』
食卓の引き出しへ、封のない短い手紙。
『母さん。
英雄になる気はない。
朝、起きたら暖炉へ薪を入れる人へ戻りたい。
でも今夜だけ船を残す。皆が帰る空を作る。
朝には私たちも戻る。』
「読んでいい?」とハル。
「封がなく、席札の下へ公開状態で置かれていました。ただし必要部分だけ」とセレナ。
「英雄になる気はない」
カイルが同じ行を読む。
「なのに、この艦隊を沈めたら、戦勝碑へ英雄として並べられるかもしれない」
「沈める?」
「王家軍なら、まずそれを提案する」
「カイルは」
「止める方法を探す」
「王子として?」
「……人として、と言えば楽だな」
「楽?」
「王子の責任を一度脱げる」
「脱ぐの駄目?」
「風呂では脱ぐ」
「今の話で?」
「重いから冗談を入れた」
「分かる」
「分かるな」
カイルは椅子へ座らない。
座れば、誰かの席を一時でも自分の物にする気がした。
その考えを口にすると、セレナは首を横へ振る。
「使うことと所有は同じではありません。椅子は座るためにあります」
「死者の席でも?」
「死者へ確認できません。傷めず、必要があり、後で戻すなら、私は禁じません」
「必要」
「あなたの左膝が震えています」
「見てたのか」
「観測です」
カイルは七番席の隣へ座る。
最後の一口を残す癖で、何もない食卓の端へ指を置く。
「この人へ?」とハル。
「違う。誰か分からん相手へ勝手に食事をやるな」
「じゃあ」
「癖だ」
王子の癖も、兵士の癖も、歴史書には載らない。
だが船は覚えていた。
食堂鐘が鳴った。
一度。
今までの号令とは違う。
床下の補給鉤が到着した合図。
「ロロ」とハル。
扉が開く。
工具箱が先に入ってくる。
四本の補助腕で床を歩き、その上へロロが腹ばいで乗っていた。
「主従」とハル。
「正しい関係!」
「人間の尊厳」
「工具を落とすより安い!」
「自分が安いの?」
ロロは工具箱から降りる。
「身体は直せる範囲なら直す。工具は同じ物が二度と手に入らねえ」
「自分も同じ物は」
「説教は後!」
補助腕が誓文室へ走る。
「管、見つけた! 各艦の代行線がここへ集まってる。全部写せば輪が分かる!」
「時間」とセレナ。
「二刻」
「長い」
「二十一隻だぞ!」
「砲撃は続いています」
「一刻半!」
「値切りで減るの?」とハル。
「作業者の睡眠を削る!」
「駄目」と三人。
「増えた!」
その時、補給鉤の鐘がもう一度鳴った。
「誰」とエリア。
ロロは人数を数える。
「ゼロスター号から、追加荷」
「荷扱いするな!」
ミラの声が下から上がる。
食堂扉へ、二本の索。
その間を、車輪椅子がゆっくり吊り上げられる。
ジルが下で悪態をつき、上では補助腕が引く。
「腰、水平!」とミラ。
「船の補給鉤へ注文つけるな!」とジル。
「私は荷じゃない!」
「だから壊れたら修理できん!」
「人を壊す前提で言うな!」
椅子が食堂へ着く。
左の義足は膝掛けの上。
顔は痛みで青い。
それでも片手へ、分厚い契約書を持っていた。
「何、それ」とハル。
「二十一隻分の値段」
ミラは長卓へ契約書を置く。
表紙には、競売院、自由港保険組合、旧船材共同買付会の三印。
『活動中旧軍艦隊、危険廃材化契約。
沈没確認後、船材、砲、星帆輪、保存誓力の回収権を契約者へ付与。』
「沈没確認後」とセレナ。
「止めるだけじゃ払わない」とミラ。
「なぜ」とハル。
「止まった船には所有者が戻る可能性がある。沈めれば危険廃材。保険も出る。砲を外せば兵器市場。星帆輪は港の浮力炉へ売れる」
「いくら」
ミラは言わない。
風鈴を一度鳴らす。
「自由港を、上から下まで三度建て直せる」
食堂の椅子が、静かに揺れた。
帰るつもりだった百二十人の席。
帰港後投函されるはずだった手紙。
終わりのない忠誠誓文。
それら全部へ、現在の市場が値札を付けた。
「契約者」とカイル。
「私」
「受けるのか」
ミラは契約書を開かない。
「計算してから答える」
「もう計算した顔」とジル。
「数字は」
「出た」
「答えは」
ミラは旗艦の食堂を見回す。
「まだ」
その前で、オーダー・パイプが同じ咳をした。
『右舷――失礼。左舷砲列、敵軍籍を照合。奉還路を確保せよ』
百二十席に、命令を聞く兵士は一人もいない。
それでも船は、全員が着席しているように号令を響かせた。