第177話 第五章「旗艦の食堂」前編

歴史は、兵士を数で書く。

 三千騎。

 七個大隊。

 艦二十一。

 死者四百八十。

 数は必要である。

 千人の移動を千行の名前だけで語れば、補給も責任も見失う。

 だが数へした後、元へ戻す手順を国は持たない。

 一個大隊の中に、豆が嫌いな人間が何人いたか。

 砲声へ慣れず、毎夜耳を塞いだ者がいたか。

 忠誠を誓った時、帰ったら靴屋を継ぐつもりだった者がいたか。

 戦争が終わると、旗と将軍の名だけが残る。

 食堂の椅子へ座っていた人々は、椅子より先に消える。

 だから旧軍艦の食堂は、ときに司令室より多くを語る。

「旗艦まで、九百四十歩」とエリア。

「平均?」とハル。

「船体換算」

「もう聞かない」

「学習した」

「諦めた」

「似ています」

「違うよ!」

 霧の中央。

 旗艦《レガリア》は、他の船より三倍長かった。

 船首に王冠はない。

 削り取られた跡だけが、白い傷として残っている。

 左右の翼章は一枚ずつ欠け、帆は風を受けずに張る。中央甲板から三本の伝声塔が立ち、二十一隻へ声を投げていた。

『右舷――失礼。左舷砲列、敵軍籍を照合。奉還路を確保せよ』

 六・五秒。

 砲火。

 自由港ヴェインへ向けられた砲は、まだ遠距離射程へ入っていない。

 その代わり、進路上のカンティレーナ周辺を「敵補給線」として削り続けている。

 ロロの薄輪で背市の集計鐘は一時的に標的から外れた。

 だが旧艦は、標的が消えたことを停戦とは理解しない。

 次の札を探す。

 霧を走る避難艇。

 自由港式の係留札を付けた救難凧。

 昨日の競売品を運んだ空箱。

 穴の形が合えば撃つ。

「旗艦の三角航路、あと四周で最接近」とエリア。

「四周は何分」とカイル。

「一周二分十三秒。風で前後」

「九分弱」

「近づいたらどう乗る」とハル。

「古い星図の第四点を使う」

「三角じゃ」

「旗艦だけ、三周ごとに四点目へ出る。各艦の号令を受け取るため、艦隊中央を横切る」

「そこへゼロスター号を」

「置かない」とジル。

 操舵輪を左手で回しながら、歯形のついた銅笛を噛む。

「中央へ入れたら、二十一隻全部から見える。この役立たず船は、見られて喜ぶほど役者じゃない」

「じゃあ何を置く」

「私たち」

「船なし?」

「船は外で走らせる。旗艦が第四点へ出る瞬間、下を通る補給索へ乗る」

「補給索?」

 エリアの路図に、細い線が現れる。

 旗艦と周囲六隻を結ぶ索。

 物資を渡すためのものだったらしい。今は何も運んでいない。それでも巻き取り輪は動き、空の鉤だけが六・五秒ごとに巡っている。

「空の索へ、人を載せる」とカイル。

「設計外」とロロ。

「無理?」

「料金」

「できるのか!」

「鉤を三つつないで足場を作る。人四、獣一。俺は後から工具箱で行く」

「工具箱に乗る?」

「工具箱が俺を運ぶ」

「主従が逆」

「正しい関係だ!」

 セレナが人数を確認する。

「旗艦へ入る者。ハル、エリア、カイル、私、ノクス。ロロは補給索の安全を確認後。ジルはゼロスター号。ミラは」

「行く」と通信管の向こう。

「身体条件上、現段階では推奨できません」

「推奨を同意に変えるな」

「行く方法を提示してください」

「椅子ごと補給鉤」

「却下」とジル。

「誰の権限」

「椅子を押す奴」

「私は押される物じゃない」

「今は椅子を押してる」

「人を運んでる」

「なら人の腰が壊れる方法は却下」

「痛みは五。動ける」

「十段階?」とハル。

「百」

「小数より悪い!」

 ミラは風鈴を一度鳴らす。

「私は後から別便。契約書が届く」

「何の」とハル。

「船の値段」

 答える前に、旗艦が第四点へ動いた。

「今!」

 ゼロスター号が霧へ沈む。

 正確には、旗艦より高度を下げる。

 上を見れば、巨大な船腹が空を塞ぐ。

 古い外板。

 補修痕。

 砲弾跡。

 削られた王冠章。

 艦底から、空の補給鉤が流れてくる。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 ロロが三つを横棒でつなぐ。

 補助腕が留め金を締める。

「耐荷重」とセレナ。

「人五人分」

「誰の基準」

「旧軍平均七十キロ」

「ノクスを含め」

「カイルが二人分食ってる」

「俺は七十六だ!」

「装備込み九十!」

「王子の尊厳を重量で剥ぐな!」

「尊厳は索へ載らねえ!」

「正しい」とミラ。

「そっちから援護するな!」

 カイルは半マントを外す。

 右籠手は外せない。

 王盾の核がある。

「俺が最後」と彼。

「また?」とハル。

「重いからだ!」

「自覚した」

「嬉しくない!」

 補給鉤がゼロスター号の船首へ最接近する。

 ハルが飛ぶ。

 一、二、三。

 鉤へ足。

 横棒へ右手。

 左肩は使わない。

 エリア。

 セレナ。

 ノクス。

 カイル。

 五人が、旗艦の腹へ運ばれる。

 ゼロスター号が下で離れる。

 霧の中、他の旧艦の砲口が回る。

「量札は外した?」とハル。

「全員」とセレナ。「ただしカイルの王家星痕は別の識別対象」

「安心できない情報!」

 旗艦の伝声塔が開く。

『王嗣統監カイル・アークレイ殿』

 補給鉤が一度止まる。

『王家の声、継承待機』

 カイルの右手首が熱を持つ。

「返事するな」とエリア。

「してない」

「顔が返事しそう」

「どんな顔だ」

「全員を守れる方法を一人で選ぶ顔」

「悪い顔か?」

「危険な顔」

 旗艦の艦底扉が開く。

 補給鉤は自動で中へ入る。

 暗い。

 ロロが作った光筒をハルが掲げる。

 床が近づく。

「降りる!」

 一人ずつ飛ぶ。

 カイルの着地で、床板が大きく鳴る。

「重い」と三人。

「ノクスまで鳴くな!」

「ノゥ」

「肯定された!」

 旗艦《レガリア》の下層通路は、町の路地ほど広かった。

 壁へ、二十一隻分の船名板。

 そのうち十九枚が残り、二枚は外されている。

 甲板員の交代表。

 医務室への矢印。

 避難艇番号。

 どれも今の艦隊を動かす命令ではない。

 人が暮らすための小さな指示である。

『濡れた長靴を食堂へ入れるな』

『夜番後の豆粥は鍋底から取れ』

『第三浴室の湯弁、強く回すな。取れる』

「最後、ロロが喜びそう」とハル。

「喜びません」とセレナ。「取れる設備は危険です」

「でも直したがる」

「それはそう」

 ノクスが浴室方向へ行こうとする。

「今は食堂」とハル。

「ノゥ」

「行く?」

「ナァ」

「風呂?」

 ノクスはハルの靴へ噛みつき、食堂側へ引いた。

「案内してる?」

「匂い」とエリア。

 古い紙。

 油。

 乾いた豆。

 食堂の扉は半開きだった。

 旗艦の食堂には、百二十席あった。

 椅子は床へ固定。

 揺れに合わせて背が少ししなる。

 三列の長卓。

 天井から、灯りの消えた食堂鐘。

 皿は置かれていない。

 代わりに、卓上へ小さな物が残る。

 木の独楽。

 欠けた櫛。

 縫いかけの手袋。

 水で薄めたインク瓶。

 半分だけ磨かれた真鍮ボタン。

「生活」とハル。

「遺留品」とセレナ。

「言い方が違う」

「役割が違います」

 セレナは黒い羽根を出す。

 だが全てを記録しない。

「なぜ」とハル。

「事件との関連が不明な私物を、無制限に複製しません」

「証拠にならない?」

「なる可能性はあります。しかし持ち主の生活を、調査者が所有する理由にはならない」

「死んでるかも」

「だからこそ、本人が異議を言えません」

 ハルは木の独楽へ触れず、目だけで見る。

 赤と青の塗り分け。

 軸が少し曲がっている。

 回せば、たぶんすぐ倒れる。

 それでも誰かは捨てなかった。

「食べ物は」とカイル。

 炊事室。

 豆袋が二つ。

 中は空。

 乾燥肉棚も空。

 水槽は底まで乾いている。

 壁へ献立表。

『一日目 豆粥。

 二日目 豆煮。

 三日目 豆と肉。

 四日目 肉のない豆。

 五日目 料理長の創意。』

 横に別の筆跡。

『豆。』

 ハルが笑う。

「歴史的真実」

「兵士も同じこと考えるんだな」とカイル。

「王城は?」

「豆が高級な皿で出る」

「同じ」

「器で国が持つ」

「景気が悪い」

 カイルの笑いは途中で止まる。

 献立表の下に、手紙箱がある。

『帰港後投函』

 蓋は閉まっていない。

 中へ、何十通もの封書。

 投函されなかった。

「開ける権限」とハル。

「事件関連性を確認するため、外面から」とセレナ。

 宛名。

 家族。

 店。

 宿。

 名前のない一通。

 封は、ほとんど閉じられている。

 開いているものが二通。

 一通は書きかけ。

 一通は、封蝋が乾く前に折り直したらしく、自然に口が開いていた。

 セレナは後者を取る。

「本文を読む前に、必要性を」

「忠誠誓文や命令のことが書いてある可能性」とエリア。

「生活だけなら閉じる」とカイル。

「受領」

 セレナは一行ずつ読む。

『ミアへ。

 右舷砲列が、また左を右と言った。司令は自分で笑っていた。声筒へ残すから言い直せと言われたが、皆がこのままでいいと言った。完璧な声より、本人の声だと分かる方がいい、と。

 明日、忠誠誓文へ署名する。船だけが一晩残り、私たちは退避艇で港へ戻る予定だ。

 靴屋の棚、上から二段目は直しておいてくれ。帰ったら――』

 そこで終わっている。

「一晩」とハル。

「船だけが残る」とエリア。

「自動防衛のために、声を保存した」

「可能性が非常に高い」とセレナ。

「帰ったら、の後」

「書かれていません」

「何をするつもりだったんだろ」

「分かりません」

 カイルが手紙を見つめる。

「右と左の言い間違いを、皆が残した」

「本人の声だと分かるため」とエリア。

「今は、誰も本人だと思ってない」

「人を残すための傷が、人のいない命令の証拠になった」とセレナ。

 言葉は、目的を変える。

 笑い声の痕跡が、六十年後には砲撃の不気味さになる。

 本人らしさを残した咳が、現在の発声者がいないことを示す。

 カイルは手紙を閉じる。

「返す相手を探す」

「子孫か、宛先の記録」とセレナ。

「見つからなければ」

「見つからないと記録します」

「英雄資料館へ飾らない?」

「本人が望んだ証拠はありません」

「助かる」

「誰が」

「この人」

 カイルは手紙の署名を見る。

『トラン・ベル』

 王子は、一兵士の名を声に出して読んだ。

 それだけで、艦隊二十一隻という数から、一人が戻った。