第188話 第十章「逆順の号令」後編
十五艦目で、風が変わった。
永続台風帯から伸びた外縁風が、霧を東へ押す。
艦間距離が一気に縮む。
エリアの七枚の路図、そのうち二枚が重なりかけた。
「全遅延、再計算!」
彼女の声が速くなる。
「第三群は〇・三秒短縮。第五群は船体反響が二重。第六群――」
踵に針のような痛み。
淡緑の線が一度、途切れた。
ハルが伝声管へ叫ぶ。
「一回!」
「数えないで!」
「撤退条件!」
「一回は統合縮小。二回で交代!」
「何を渡せる!」
エリアは息を整える。
左肺の容量が小さい。
高高度で長い詠唱を続ければ、言葉が道より先に切れる。
以前なら隠した。
今は申告する。
「ジル、風向補正を直接ロロへ。セレナ、基準鐘の管理。ハル、各艦の距離を歩数で報告。私は全体線だけ残す」
「具体的に頼んだ」とハル。
「感想はいらない。第十五艦から第十六艦、何歩!」
「跳んだ分も?」
「索長で!」
「二十二メートル、途中で三メートル沈んだ!」
「正確」
「褒められた!」
「次!」
役割を渡すと、路図は細くなる。
細くなって、切れなくなる。
ジルが風を読む。
右耳では高音を拾えない。帆の張りを左手で読み、結び縄へ数を刻む。
「第五群、東へ〇・四。第六、横風なし。第七――悪い、二艦が寄りすぎる!」
《黒曜皿》と《第三鐘楼》が衝突コースへ入る。
間にゼロスター号。
「この役立たず船め、挟まるな!」
ジルが舵を切る。
片帆では抜けきれない。
二艦の距離、十二メートル。
十。
八。
ミラの手が風鈴へ伸びる。
勢いを盗めば、ゼロスター号を前へ出せる。
だが握るだけ。
鳴らさない。
「ジル」
「分かってる」
二点の張力を一度だけ均等にする結索〈イーブン・ライン〉。
ジルは左右の曳航索を舵柱へ巻き、左手で結び目を締めた。
「この役立たず二隻、喧嘩は同じ力でやれ!」
結び目が白く光る。
左右の張力が一度だけ均等になる。
《黒曜皿》が引く力と、《第三鐘楼》が押す力が、ゼロスター号を挟まず互いへ流れる。
船は紙一枚の距離で抜けた。
結び目が焼き切れる。
ジルの左手の皮が裂ける。
「損耗」とミラ。
「指五本、残ってる」
「治療費は契約へ足す」
「いらん」
「私の契約」
「俺の手だ」
「一航士の手は船の資産」
「船長じゃないだろ」
「今は客員航路士」
「なら口を挟むな」
「客だから苦情を言う」
「黙って固定帯を締めろ」
「締まってる」
「もう一段」
「高い親切だな」
「未払い全部だ」
ミラは反論しながら、自分で固定帯を一段締めた。
能力を使わない選択が、ゼロスター号を救ったのではない。
ジルの結索、エリアの警告、操舵、索、ミラが無茶をしないこと。
複数の小さな手段が、一人の大技を不要にした。
逆転爪、二十一本。
設置完了まで、残り三十四分。
自由港ヴェインの帆灯が、肉眼で見える。
下層船は切り離せない。病院船の窓へ白い布が張られ、砲撃の閃光を患者へ見せないようにしている。
見えないようにすることと、危険を消すことは違う。
それでも人は、消せない危険の中でできる小さなことをする。
ロロは旗艦中枢へ戻った。
喘鳴、なし。
指先の星痕、薄い。
補助腕の一つが熱で遅れている。
「休止三分」とセレナ。
「全部付いた!」
「再機使用後の休止」
「今休んだら放送準備が!」
「私が盤を読みます」とエリア。
「綴りが古い!」
「古星語は読める」
「機械の略号は!」
「あなたが口で言う」
「口は休止に入らねえのかよ!」
「喘息のためには入れた方がいいわ」
「じゃ誰が説明――」
ハルが吸入器を指す。
「三分。俺が聞く」
「お前が聞いたら三倍かかる!」
「じゃ、三分で一分分」
「算数を気合で通すな!」
ロロは座る。
補助腕が全部、床へ垂れる。
ピコはまだ第十一艦。
ノクスと手回し軸を動かしている。
自分の手が届かない場所で、他者が自分の設計を動かす。
怖い。
便利な部品として必要とされ、壊れたら交換されるのが怖い。
同時に、自分しかできないと言い続ければ、仲間を部品にしてしまう。
「基準盤、左列の七」とロロ。
エリアが触れる。
「これ?」
「違う、隣!」
「七と書いてある」
「それは古軍字で『戻し』!」
「略号ではなく別字じゃない!」
「だから言った!」
「正確に言って!」
「機械は正確だ、字が悪い!」
「字は機械へ刻まれている!」
ハルが二人の間で首を振る。
「会話が前に進んでない」
「逆転準備だからいい!」とロロ。
三分が終わる。
ロロは立つ。
「始めるぞ」
中枢盤へ、二十一の発声時刻が並ぶ。
同時ではない。
第七群、最も遠い艦から先に発声。
距離の短い艦ほど遅く発声。
到達時刻だけを、〇・四秒ずつ逆順へ揃える。
音の波を、空で階段にする。
エリアは淡緑の線を引く。
「第七群、三十秒後。第六群、三十二・一。第五――」
ジルの風補正。
セレナの基準鐘。
各艦の筒遅延。
ノクスとピコの手回し速度。
全部を一枚へ重ねる。
路図が二度目に揺れかける。
エリアは自分から言う。
「統合負荷、限界近い。第二群以降は、各群の線をロロへ渡す」
「俺が持つ!」とハル。
「あなたは時刻札を運ぶ」
「地図は持てない?」
「持てる。読めない」
「正確」
「褒めていない」
ハルは七枚の時刻札を鞄へ入れる。
各群の整備盤へ、最終の発声時刻を手で合わせる必要がある。
遠隔では、最終攻撃の封鎖が残る。
「また回るの?」
「七群だけ」とロロ。
「さっき二十一回った」
「今度は七。減った」
「成長した?」
「仕事量がだ!」
ジルがゼロスター号を寄せる。
「落下少年、今度は落ちるな」
「呼ぶな!」
「落ちたら名前どおりだ」
「名前じゃない!」
ハルは跳ぶ。
時刻札を七群へ届ける間、砲弾は自由港の外縁へ届き始めた。
一発が、無人の倉庫船を貫く。
二発目が、下層浮力索を切る。
ミラが即座に曳航艇へ命じる。
「《九枚舌》、切れた索を病院船から外へ逃がせ。《青匙》は育児船の負担を引く。報酬、命綱一本ごとに追加二ルク」
『数えてる暇がない!』
「後で住民証言。署名できない者は結び目。救命を先に」
昨日までなら、契約成立を確認してから動かした。
今は救命を契約より先に置き、支払い方法を後から複数にする。
「契約は?」とジル。
「後」
「借りになるぞ」
「私が払う」
「全部は無理だ」
「払える者へ分ける」
「払えない者は」
「助ける」
短い。
ミラはその言葉を、金額で覆わなかった。
ハルは第五群へ着く。
時刻札を合わせる。
「第五、準備!」
第四群。
途中で砲弾が索を切る。
足場がない。
「エリア、道!」
『路図を一度切れば描ける。今切ると全体遅延を失う』
「じゃ別!」
ハルは見回す。
折れた帆柱。
砲弾の煙。
ゼロスター号は遠い。
カイルの声。
『左の砲身が十秒後に上がる。乗れ』
「砲身に?」
『俺が幼い頃、王城の礼砲でやった』
「王子の遊び、危険!」
『今言うな!』
砲身が上がる。
ハルは先端へ飛びつく。
左肩で吊らない。両足と腰帯。
発射準備音。
「これ撃つ?」
『七秒後』とセレナ。
「先に言って!」
『今言いました』
砲身が隣艦へ向く。
ハルは最高点で跳ぶ。
一、二――
「ジル、風!」
『東から一拍!』
帆布片がゼロスター号から射出され、ハルの下へ広がる。
彼は帆へ着地し、滑って第四群の甲板へ渡る。
直後に砲が火を吐く。
爆風が背中を押す。
「四、準備!」
第三。
第二。
第一群へ戻る頃、残り十七分。
全群の灯が青く揃う。
ロロが基準盤へ両手を置いた。
「逆順放送、開始」
最初の声は、最遠艦《薄明槍》から出た。
『代行権、前順位へ返納』
保存された命令ではない。
整備用の取消し音声。
一秒後、別の艦。
『受領なし。返納』
〇・四秒。
次。
音は同時ではない。
遠い声が先に出て、近い声が後に出る。
空を進む間に並び替わり、受け取る側へは逆順で届く。
二十一が二十へ。
二十が十九へ。
十九が十八へ。
輪を作ったのと反対の順番。
ロロは基準盤を見つめる。
「第七群、到達」
セレナが確認する。
『発声灯三。受領取消し三。記録』
エリアの線が一群、灰色へ変わる。
「第六群」
声。
声。
声。
命令は大声で始まった。
終わりは、小さな返却通知だった。
第五群。
一艦の灯が点かない。
「どこ!」とロロ。
「第十一艦」とエリア。
ノクスとピコがいる艦。
手回し軸の速度が落ちた。
「ピコ!」
返事はない。
距離が遠く、羽音は届かない。
路図の点だけが、遅れている。
〇・二秒。
〇・四。
許容差は〇・三。
「失敗する」とエリア。
「まだ!」
ロロは命令主軸へ手をかける。
遠隔で回転を補助できる機構はない。
あるのは、壊れた同期歯。
元の動きは残っている。
再機を使えば、一度だけ軸の速度を戻せる。
休止はした。
だが主筒の亀裂も広がる。
「使う」とロロ。
「何を」とハル。
「第十一の同期歯。遠隔連結だけ戻す」
「主筒が割れる?」
「可能性」
「割合」
「ミラじゃねえ!」
「数字!」
「四割!」
「使わなかったら」
「全部失敗」
「じゃ使う」
「俺が決める!」
「決めた?」
「決めた!」
ロロは星痕を灯す。
「戻れ!」
中枢から第十一艦へ伸びる古い整備線。
切れた歯が、一度だけ過去の位置へ戻る。
ノクスの尾へ、均等な拍が伝わる。
ピコの羽音と重なる。
第十一艦の灯が青く点く。
「到達!」
〇・二九秒。
許容内。
主筒の亀裂が、白く伸びる。
ロロは見ない。
「第四群!」
返納。
取消し。
沈黙。
一隻ずつ砲口が下がる。
帆が緩む。
最終攻撃の赤灯が消える。
自由港の空から、砲弾の数が減る。
二十一から十八。
十八から十五。
十五から十二。
「止まっても流れる!」とミラ。
艦は速度を失っていない。
命令が止まっても、質量は止まらない。
曳航艇が索を取る。
《青匙》が一艦の船首を外へ引く。
《九枚舌》が別の艦へ横帆を張る。
『報酬、二隻分!』
「停泊完了で一隻分!」
『止めた!』
「止まってない、命令が消えただけ!」
『詐欺だ!』
「物理!」
ジルが笑う。
「空賊に物理で値切られるとはな」
「物理は署名しないから嫌い」
第三群。
《残灯》の整備灯が揺れる。
ロロが息を吸う。
細い喘鳴。
セレナが聞く。
『吸入後の再発を確認。撤退条件』
「あと三群!」
『交代してください』
「誰に!」
ハルが中枢へ戻っている。
「俺が盤を押す!」
「順番を間違える!」
「お前が言う!」
「息が!」
「短く言え!」
ロロの口癖は長い。
説明は一息で全部言う。
今、短くしなければならない。
「青、押せ」
ハルが押す。
「次、白」
押す。
「待て。二拍」
待つ。
「黒」
押す。
ロロは吸入器を使い、盤から一歩退く。
交代した。
便利な部品でなく、説明する人として残る。
第三群、停止。
第二群。
音が空を逆に渡る。
残り六隻。
五。
四。
第一群。
ノクスとピコの手回し軸が、最後の五十七回転へ入る。
「あと十」とエリア。
九。
八。
《残灯》が返納。
七。
六。
《白骨帆》が返納。
五。
四。
《薄明槍》が返納。
三。
二。
一。
二十艦の灯が消えた。
静寂。
旗艦《レガリア》だけが、赤い。
「輪は切れた」とロロ。
声がかすれる。
「最後は王家の空欄へ返る」
軍令尖塔で、カイルが白線へ立つ。
『全代行権、王嗣へ返納』
《レガリア》の王冠台が開く。
『軍編入を選択せよ』
カイルは答えない。
『軍編入を選択せよ』
王家の声を待つ空欄が、埋まらない。
通常なら、ここで艦は停止するはずだった。
だが旗艦には、もう一つの規則がある。
『王嗣認証あり。命令未確定。王都中枢防衛を優先』
「何だ、それ」とハル。
カイルが古い教本をめくる。
「旗艦だけの護送規則だ。王族が艦上にいて命令を出さない場合、敵に強要されていると判定する」
「黙る自由がない?」
「軍にはない」
《レガリア》の全帆が開く。
二十艦から返された推力補助が、旗艦へ集中する。
巨大な白い船体が加速した。
砲撃ではない。
船そのものを槍にする。
自由港ヴェインまで、十二分。
「一隻だけなら」とカイル。
右籠手へ炎が灯る。
エリアが即座に言う。
『盾は禁止。船首をずらす』
「十二分で?」
『十二分ある』
ミラが車輪椅子の固定帯を握る。
「最後の契約が残った」
「何と?」とハル。
「王家と、王家の声」
《レガリア》は誰の命令も待たず、命令を待つ王子を乗せたまま、自由港へ突進した。