第187話 第十章「逆順の号令」前編
機械は時間を前へ進めるために作られる。
歯車は次の歯へ噛み、帆は次の風を受け、砲弾は撃った場所へ戻らない。工房の教本で「逆転」は故障の項目に置かれ、軍の教本では敗走の婉曲語に置かれた。
しかし修理工にとって、逆は敗北ではない。
分解した順番と逆に組む。
締めた順番と逆に緩める。
事故の直前まで、痕跡を逆へ読む。
壊れた物を直すとは、時間そのものを戻すことではない。
時間がどの順番で壊したかを知り、その順番へ逆らうことである。
ロロ・ピクスは十四歳だった。
国家の歴史を背負うには軽く、工具箱を背負うには小さい。
だが、歴史が巨大であることと、ネジが巨大であることは同じではない。
巨大な制度も、最後には小さな歯で動く。
「残り六十八分!」
エリアの声が全船放送へ乗る。
自由港ヴェインまで六十八分。
逆転爪の未設置、二十一。
砲撃可能艦、二十一。
まともな修理工、一人。
「数字の並びが悪趣味すぎる!」
ロロはゼロスター号の甲板で叫んだ。
四本の補助腕には、それぞれ違う物がある。
逆転爪の束。
筒油。
小型吸入器。
請求書。
「請求書を置け!」とハル。
「置いたら飛ぶ!」
「箱へ入れろ!」
「箱は爪で満杯!」
「俺の鞄!」
「配達鞄へ請求書を入れたら、お前が逃げられねえな!」
「今それ狙った?」
「修理工は回収経路まで設計する!」
ゼロスター号は旧艦隊の外周へ滑り込む。
片帆。
継ぎはぎの船腹。
翼鯨の噴気で焦げた外板。
千艘港で増えた補強材。
新しい箇所より、直した箇所の方が多い。
「この役立たず船め、今日は働け!」
舵輪を握るジルが罵る。
「褒めてる?」とハル。
「船にはな」
「俺は?」
「落ちるな」
「短い!」
「命令は短い方がいい」
無人艦《暁葬》の砲撃が、ゼロスター号の上を通った。
着弾修正はない。
だが最終攻撃へ入った艦隊は、量札網から自由港の位置を読み続ける。狙いは古い。弾数は多い。間違いを大量に続ければ、いずれ正しい場所へ当たる。
ミラは操舵席の後ろで車輪椅子へ固定されている。
左義足なし。右膝は厚い包帯。腰へ支え帯。彼女の身体だけを見れば、甲板へ出すべき状態ではない。
彼女の口だけを見れば、港一つを買収できそうだった。
「曳航艇《青匙》《九枚舌》《東風二号》、左翼へ。報酬は停止艦一隻ごとに五十ルク。沈没させたら逆に百ルク請求」
『沈めた方が早い!』
「早さへ値段は付けた。破壊へは罰金」
『誰が払う!』
「払わないなら、次の港で船名、船長名、未払い額、逃走方角を掲示する」
『脅しか!』
「信用情報」
『空賊が信用を言うな!』
「空賊だから言う。信用がなければ略奪しか残らない」
通信が一秒切れる。
『……五十五』
「五十二。燃料はそっち持ち」
『五十四、索の損耗は別』
「五十三、救難中の食事付き」
『何が出る』
「旗艦の乾パン。数十年前の」
『五十二でいい!』
「契約成立」
ミラは風鈴を鳴らさない。
風盗も使わない。
移動物から勢いを盗む風術〈スティール・ゲイル〉を使えば、一隻の速度を落とせる。だが盗んだ勢いは自分の身体へ溜まり、どこかで返さなければならない。今の腰と右膝では、止める前に壊れる。
能力を使わないのは、弱くなったからではない。
使った後の責任を計算できるようになったからだ。
「第一群、三隻」とエリア。
彼女は旗艦の外部観測台にいる。両踵を冷却布で固定し、路図を空中へ広げるのではなく、七枚の小地図へ分割していた。
「《薄明槍》から《残灯》まで。到達順は二十一、二十、十九。各艦の発声差、〇・四、〇・六。ジル、横風が一拍強い」
「見えてる」とジル。
「音は?」
「聞こえねえ右耳より、帆の震えで読む」
「補正値を」
「西へ〇・二」
セレナが全艦共通時刻を読み上げる。
「基準鐘、零。次鐘まで十秒」
黒い証羽は旗艦上空に浮き、各艦の発声灯を記録する。
カイルは軍令尖塔の白線に立つ。
まだ権限を取らず、停止句の再使用もせず、王家の空欄を塞がないまま待つ。
待つことは、何もしないことではない。
自分が一言で奪えるものを、奪わずに立つのは行動である。
「ハル!」とロロ。
「分かってる!」
「まだ言ってねえ!」
「爪を運ぶ!」
「あと手順を守る!」
「分かってる!」
「だからまだ全部言ってねえ!」
ロロは逆転爪を三つ、ハルの配達鞄へ入れた。
「赤印が二十一。白印が二十。黒印が十九。順番を入れ替えるな」
「色で?」
ミラが顔を上げる。
「色だけはやめろ」
赤緑の色覚差。
信号を色でだけ区別する設計を、彼女は信用しない。
ロロは即座に印を追加する。
「赤に一本傷。白に二本。黒に三本」
「それなら成立」
「最初から言え!」
「最初から全員が見分けられる設計にしろ」
「今作ってんだよ!」
「だから今言った」
ロロは怒るほど手が速い。
ハルは鞄を閉じる。
「一、二――ジル、投げて!」
「丁寧にな!」
ゼロスター号が《薄明槍》の腹へ寄る。
ジルが舵を切る。
船腹同士の距離、一メートル。
ハルは跳んだ。
第一の逆転爪は、砲身の下にあった。
設計した軍人は、整備工が戦闘中に触ることを想定していない。
整備は戦闘前か戦闘後に行う。戦闘中に壊れた物は、兵士の勇気で補う。古い教本には、本気でそう書かれている。
勇気は、交換部品の在庫表に載らない。
「右から砲身!」とエリア。
「見えてる!」
「あなたの右ではなく艦の右!」
「違うの!?」
「今知った顔をしないで!」
《薄明槍》の副砲が旋回する。
ハルは甲板を走る。
道が分からない。
だから今回、左右を聞かない。
「白い三本煙突と、折れた槍飾り、どっち!」
「折れた槍!」
景色で聞く。
自分が間違える方角を、仲間が同じ物として見られる目印へ変える。
方向感覚が完全に戻ることと、迷わなくなることは別である。
砲身が甲板を薙ぐ。
ハルは折れた槍飾りへ足をかけ、右手で手すりを取る。左肩は吊らない。腰帯を砲架へ回し、両足で体を支える。
逆転爪の差込口。
一本傷。
「二十一!」
爪を入れる。
かちり。
爪は半分で止まった。
「入らない!」
『上下逆!』とロロ。
「上下あるの!?」
『歯に上下がなかったら、どっちへ回すんだよ!』
「空の船は全部上下が多い!」
『文句は重力へ請求しろ!』
砲身が戻る。
ハルは爪を抜き、反転し、差し込む。
かちり。
今度は奥まで入った。
整備灯が青く点く。
「二十一、設置!」
セレナの声。
『事実確認。爪固定、灯点灯。次へ』
ゼロスター号が船腹を寄せる。
ハルは跳ぶ。
《薄明槍》から《白骨帆》へ。
間に砲弾が通る。
爆風で赤いマフラーが引かれた。
ノクスが反対端を噛み、首が締まる前に体を引く。
「助かった!」
二本の尾が一度ずつ振れる。
「対価いる?」
ノクスはマフラーをもう一度噛んだ。
「それ、対価じゃなく所有!」
次の爪。
二本傷。
《白骨帆》の差込口には、塩が固着している。
ハルが爪で削ろうとする。
『勝手に削るな!』
「でも入らない!」
『右ポケットの薄い匙!』
「俺の?」
『俺の工具をお前の鞄へ入れた!』
「どれ!」
『パンの名前のやつ!』
「工具に食べ物の名前付けるな!」
『揚げ耳!』
「形が全部揚げ耳!」
『柄に歯形!』
「それ先に言って!」
ハルは歯形の付いた薄匙を出す。
塩を削る。
爪を差す。
「二十、設置!」
第三艦《残灯》では、差込口そのものが砲撃の振動で歪んでいた。
ロロがゼロスター号から索を渡る。
「お前、残れ!」とハル。
「直す奴が残ってどうすんだ!」
「喘息!」
「吸入後、戻ってねえ!」
「三分確認!」
「今二分四十!」
「細かい!」
「修理工に細かいって言うな!」
ロロは甲板へ滑り込み、四本の補助腕で自分を固定する。
歪んだ口を見て、すぐ首を振る。
「叩いて戻すな」とハル。
「誰がそんな雑な――」
ロロは小槌を出した。
「叩くじゃん!」
「音を聞く!」
軽く一回。
高い音。
二回。
低い音。
三回目は叩かない。
「裏の受けが外れてる。表から押したら落ちる」
「どうする」
「中へ入る」
「どこから」
砲身の付け根に、人の頭ほどの整備孔がある。
ハルが見る。
ロロを見る。
「俺だな」とロロ。
「小さいから?」
「専門家だからだ! 小さいも正しいけど先に言うな!」
彼は補助腕を二本畳み、整備孔へ潜る。
砲が発射するたび、内部の金属が鳴る。
ロロの高音域には聞こえない振動を、ピコが外から三回の羽音で知らせる。
一回、停止。
二回、旋回。
三回、発射。
「ピコ、二!」
機械鳥が二度羽ばたく。
ロロは砲架の回転を避け、裏受けへ手を伸ばす。
部品は割れていた。
半分が残り、半分は床へ落ちている。
再機〈リメイク〉。
壊れた機械の動きを戻す術。
ロロは万能に直せない。
存在しなかった部品を作れない。
設計されていない機能を与えられない。
元の動きと、壊れた痕跡が必要だ。
割れた受けには、まだ「爪を支えた動き」が残っている。
「戻れ」
星痕が指へ灯る。
割れた金属が新品になるのではない。
亀裂を残したまま、最後に正しく噛んだ位置へ戻る。
今まで前へ送る爪を直してきた能力を、今回は巻き戻す爪へ使う。
逆方向のための修理。
受けが一度だけ合う。
「今!」
ハルが三本傷の爪を差す。
「十九、設置!」
ロロは整備孔から這い出す。
咳はない。
呼吸は速い。
「三分」とエリア。
「喘鳴なし!」
「自分で判定しない」
セレナが近くの伝声管で聞く。
『吸気音、正常範囲。続行可能。ただし次の再機使用前に三分休止』
「星律官が医者もやるな!」
『診断ではなく観測です』
「同じ顔して言うな!」
第一群、設置完了。
第一群の整備板には、古軍字が十二行並んでいた。
後続の曳航艇へ同じ作業を頼もうとして、ジルが紙を睨む。
「読める奴が何人いる」
「古軍字なら、ほぼいねえ」とロロ。
「じゃ、この説明書は誰を助ける」
「俺」
「お前が全部回るなら説明書はいらん」
「だから今、回って――」
ロロは言いかけて止まる。
自分しか読めない手順を、自分しかできない仕事の証拠にする。
それは下面区の工房で、上の技師に何度もやられたことだった。
「絵にする」と彼。
「時間」とエリア。
「一分」
「一分で描ける?」
「字より速い」
ロロは油紙へ三つの絵を描く。
一、差込口の切れ込み数を確認。
二、爪の傷数を合わせる。
三、青灯が点かなければ無理に押さず、赤い縄――と言いかけて、ミラを見る。
「色だけはやめろ」と彼女。
「分かってる。縄の結び目を三つ」
ジルが銅笛を噛む。
「絵も見えない霧なら」
「音。一本傷は短音一、二本は短音二、三本は長音一」
「高音は俺の右耳で拾えん」
「低音でやる」
「手が塞がってたら」
「結び縄を触る」
同じ手順を、絵、音、触れる結び目の三通りへする。
ハルが言う。
「一個の正解を三つの入口から?」
「入口が一つだと、そこを使えない奴が仕事から落ちる」
「マオが聞いたら喜ぶ」
「喜ぶ前に欠点を十個言う」
「それも仕事」
ロロは紙の端へ書く。
『読めなければ聞け。聞けなければ触れ。どれも無理なら、作業を止めろ。止めた者へ罰金なし』
「最後、大事」とミラ。
「失敗を隠して押し込む方が高くつく」
説明札は曳航艇へ配られた。
修理工が一人で速く回るだけではなく、他の者が安全に参加できる手順を残す。
その一分は、後の作業を三分縮めた。
効率とは、急ぐ人間の速さだけで測るものではない。
残り六十一本――ではない。
時間を数えるほど、減るのは分だけではない。
失敗できる回数も減る。
七つの三艦群を、順番に回る。
反復は、同じことを繰り返すだけなら退屈である。
だが災害は、同じ手順へ毎回違う邪魔をする。
第四艦は、甲板が燃えていた。
第六艦は、砲撃反動で隣艦へ衝突しかけていた。
第八艦は、整備蜂が敵味方識別を失い、ロロの工具箱を侵入物として追った。
第十艦は、命令筒の部屋が上下逆さに回転していた。
「回転してる部屋、前にもあった!」とハル。
「今回は謎の答えじゃなく移動の邪魔だ!」とロロ。
「反復防止ってそういう?」
「誰に喋ってんだ!」
第十一艦では、逆転爪が届かなかった。
同型と思われた差込口が、一世代古い。
爪が太い。
「削る?」とハル。
「爪を削ったら次で使えねえ」
「じゃ穴」
「艦側を勝手に削るな」
「さっき自分で言った」
「学習するな、嫌なところだけ!」
ロロは工具箱を開く。
代用品を探す。
ない。
恐怖は、音で来る。
直せると思った機械が完全に沈黙する音。
使える部品が一つもない時の、工具箱の軽い空音。
四本の補助腕が垂れた。
「ない」とロロ。
「何が」
「合う爪がない。元の逆転爪も外されてる。部品そのものがねえ。再機は使えない」
「作れる?」
「四十分あれば」
「残りは」
「四十七分」
「作ってる間、他ができない」
「分かってる!」
声が裏返る。
「俺一人しか修理工がいねえのが悪い! いや俺が一人分しか手がねえのが――六本あるけど! 足りねえのは俺だ!」
「違う」とハル。
「何が!」
「足りないのは部品」
「同じだ!」
「違う。お前を増やす話にすると、お前が壊れる」
「じゃどうする!」
ハルは古い差込口を覗く。
奥に、四角い軸がある。
爪はない。
だが手で回すための穴がある。
「これ、人が回せる?」
「整備用の手回し。五十七回転、一定速度。途中で止めたら最初から」
「俺が回す」
「爪の代わりにはならねえ。逆順放送の時まで誰かが回し続ける」
「じゃ俺が残る」
「二十一艦へ運ぶ役は!」
ノクスが手回し軸へ二本の尾を巻いた。
回してみる。
一回。
二回。
力は足りる。
速度が不安定。
「ノクスだけじゃ一定にならない」とロロ。
ピコが軸の上へ止まり、羽音で拍を取る。
かち、羽。
かち、羽。
ノクスの尾が、その拍へ合わせる。
「二人なら?」とハル。
「機械鳥は人じゃねえ」
「ノクスも」
「そういう分類の話じゃ――」
ロロは軸の回転を見る。
〇・九八。
一・〇一。
〇・九九。
許容範囲。
「できる」と彼は言った。
「お前が?」
「こいつらが」
補助腕が上を向く。
喜びは顔より先に出る。
「役割、増やせた」とハル。
「最初から俺が設計した!」
「三秒前に絶望してた」
「絶望は設計工程の一部だ!」
ノクスとピコを第十一艦へ残す。
命令はしない。
「やめたくなったらやめろ」とハル。
二本の尾が一度止まる。
また回る。
選んだ。