第186話 第九章「誰も命じていない」後編
中枢の古星図は、現在の空を描いていなかった。
敵国はもうない。
国境線は移り、砦は市場になり、補給港は翼鯨の診療所になった。星図上で赤く塗られた三つの都市は、百年前に合併し、今は学校区である。
それでも標的名だけは、現在の量札網から新しく入る。
過去の「敵」という空欄へ、現在の住所を差し込む。
「この艦隊、何と戦ってる?」とハル。
「札」とエリア。
「札の向こうの人は?」
「見ていない」
「昔の敵は?」
「いない」
「命令した人は?」
「いない」
「じゃ、戦争だけいる」
カイルが低く言う。
「そういう戦争は、終戦文書を読まない」
ロロは中枢盤の裏へ潜り込んでいた。
四本の補助腕が、別々の歯車を押さえる。一本は工具、一本は鏡、一本は吸入器、一本は請求書。
「請求書、今いる?」とハル。
「俺が死んだら未払いになるだろ!」
「死なない前提で書け!」
「生きてる客ほど逃げる!」
「王家へ回せ」とカイル。
「お前、権限捨てるんだろ!」
「財布まで捨てない」
「王家の財布だろ!」
「俺の借金にする」
「その方が回収不安だ!」
ロロは怒鳴りながら、機械を正確に読む。
命令筒の再生軸には、整備用の逆転爪がある。
「見つけた」と彼が言った。
「壊せる?」とハル。
「だから壊す話をすんな! 逆に回せる。古い音声筒は、整備で頭出しするために巻き戻す。普通は一艦ずつ停止して、手で戻す。今は全艦動いてるから、信号でやる」
「逆に号令を流す?」
「音を逆さに喋らせるんじゃねえ。代行受領の順序を逆に再生する」
彼は床へ歯車を並べた。
「今の輪は、一が二へ『お前が次』、二が三へ、三が四へ。全部が一回ずつ受け取ってるから、同時に止めても各艦の中に権限が残る。だから一巡後に戻る」
「どう切る」
「最後に受け取った艦から、受領を一個ずつ返す。二十一が二十へ。二十が十九へ。最後に二が一へ。一は王家の空欄へ返す」
「輪を逆にほどく」とエリア。
「縄じゃねえけど、そう」
「同時じゃ駄目?」
「全員が同時に『俺は返した』って言うと、全員が隣から『受け取った』を同時にもらう。輪が一拍ずれるだけ」
「会議みたい」とハル。
「悪い会議だ」とカイル。
「いい会議は?」
「終わる時間がある」
ミラの声が入る。
『契約なら、解除通知は相手へ到達して成立。出した時刻じゃない』
「そういうこと」とロロ。「距離が違う。音は同時に出しても同時に着かねえ。近い船が先に受け取り、遠い船が後。順序が崩れる」
エリアは中枢盤の二十一模型へ、光の航路を描く地図術〈ルート・レイ〉を重ねた。
淡緑の線が、船と船の距離を数値へ変える。
「音速、風向、船体管の長さ、各筒の応答遅延。全部を入れれば、発声時刻を逆算できる」
「踵は」とハル。
「冷却している」
「痛い?」
「痛い」
エリアは隠さない。
「だから一人で全線を保持しない。各艦の測距はセレナの時刻記録へ渡す。ジルに風向。ロロに筒遅延。私は統合だけ」
「守る方法を増やす」とカイル。
「覚えていたのね」
「幼なじみの命令は忘れにくい」
「命令ではなく提案」
「語尾が命令だった」
「内容が正しければ分類は後」
「セレナに聞かせたい」
「聞いています」とセレナ。
「景気が悪いな」
作戦は、机上で美しくなるほど危険だった。
二十一艦へ逆転爪を取り付ける。
各艦の距離差を測る。
自由港射程までに、逆順の受領取消しを流す。
最後に、王家の空欄へ権限を返す。
その時、カイルが再取得せず放棄を宣言する。
論理は一本。
実行は二十一箇所。
ハルが言う。
「役割を決めよう」
以前なら、自分が全部回ると言った。
今も言いたい。
だが二十一隻は、十五歳の無茶を英雄にするには多すぎる。
「ロロ、逆転爪」
「俺とピコ。あと各船の整備蜂を起こす」
「エリア、音の地図」
「ジルの風観測とセレナの時刻を統合する」
「セレナ、記録」
「各取消しの到達を証羽で確認。見えない艦は現地の機械記録を後で照合します」
「ミラ」
『自由港とカンティレーナの避難。停泊索の買付け。あと、この船団を途中で沈めようとする連中の価格を上げる』
「どうやって」
『沈めたら損する契約を即席で配る』
「動けないのに」
『口と紙は動く』
「ジル」
『この役立たず船を飛ばす。ミラを椅子ごと落とさない。お前らを必要な船へ投げる』
「投げるの?」
『丁寧に投げる』
「カイル」
「王家の空欄へ立つ。再取得しない宣言をする」
「俺」
ハルは二十一艦の模型を見る。
「足りない場所へ行く」
「役割じゃない」とエリア。
「じゃ、逆転爪が付かない船へ運ぶ。途中で人がいたら助ける」
「人はいない」とセレナ。
「分かってる。でも、いたら」
「条件としては残していいわ」とエリア。「ただし勝手に作戦変更しない。発見したら報告、三十秒待つ」
「三十秒は長い」
「あなたには必要」
「十」
「二十五」
「十五」
「二十」
「成立」とミラ。
「勝手に決めるな!」
「交渉は第三者が締めると早い」
「契約書に書いてある?」
「今書いた」
撤退条件も決める。
自由港射程まで二十五分になれば、逆順作戦を中止し、全船で衝突回避へ移る。
ロロの喘鳴が吸入後も続けば交代。
エリアの路図が二度途切れれば統合をセレナへ渡す。
カイルの呼吸が平常の二倍なら認証台から降ろす。
ハルの左肩が痛めば、船間移動をやめる。
ミラは車輪椅子の固定帯を外さない。
『最後だけ、誰が決めた』とミラ。
「ジル」とハル。
『成立』とジル。
『裏切りだ』
『一航士の職務だ』
計画は完成した。
完成した計画は、現場へ出た瞬間から壊れ始める。
最初の故障は、ロロの手元で起きた。
中枢盤の命令主軸。
外縁艦で確認した、同じ位置の摩耗。
旗艦食堂の誓文再生で、わずかに鳴っていた高音。
古い継ぎ目に、白い線が走る。
「待て」とロロ。
全員が止まる。
彼は補助腕を一本ずつ離し、耳を近づけた。
高音域の一部が聞こえない右耳ではなく、左耳。
それでも足りず、金属へ歯を軽く当てる。
振動が顎へ伝わる。
「主筒が割れる」
「今?」とハル。
「今じゃねえ。もう割れてて、今まで形だけ持ってた」
「直せる?」
「元の動きが残ってれば。だが止めてからだ。動いたまま戻すと、記録針が割れ目へ落ちる」
砲撃が旗艦を揺らす。
白い線が、一ミリ伸びた。
ロロは工具箱から薄い星鉄板を出す。
「挟む。三分持つ」
「三分で足りる?」
「足りるようにやる」
補助腕が主筒を支えた。
左手が板を差し込む。
右手が締め輪を回す。
彼の息が速くなる。
「吸入器」とエリア。
「まだ」
「撤退条件よ」
「喘鳴は出てねえ」
「呼吸数が――」
「俺の条件は喘鳴!」
「条件を狭く読むな」とハル。
「お前に言われたく――」
咳。
ロロの声が切れる。
ピコが工具箱から吸入器をくわえて飛び出す。
「裏切り鳥!」
四本の補助腕が全部上を向く。
ハルが笑いかけた、その時。
命令主軸の奥から、別の音がした。
かちり。
小さい。
時計の針が一目盛り進む音。
中枢室の止まっていた時計が、十二時五分を指す。
ロロの顔から血の気が引いた。
「記録針が落ちた」
「何が起きる」
「通常命令を読めない時の予備へ行く」
「予備?」
カイルが古い教本の一節を思い出す。
「通信断絶時、艦隊は最後に受領した戦時目的を完遂する」
「最後って?」とハル。
音声筒が、いつもの咳をしない。
言い間違いもしない。
新しい声ではない。
もっと古い、誓文の底に沈んでいた声。
『命令系統、断絶』
二十一艦の模型が、同時に赤くなる。
『敵補給港の完全無力化をもって、奉還路を確保せよ』
セレナが時間を見る。
「自由港射程まで、一時間十二分」
エリアの路図で、二十一の進路が変わる。
これまでの砲撃は、識別した標的への間欠攻撃だった。
今度は違う。
全艦が帆を最大まで開く。
砲栓を外す。
船首を自由港ヴェインへ揃える。
「最終攻撃」とカイル。
ロロが締め輪を押さえたまま叫ぶ。
「俺が壊したんじゃねえ!」
「分かってる!」とハル。
「前から割れてた!」
「分かってる!」
「分かってても記録しろ!」
「記録します」とセレナ。「既存亀裂。反復再生と停止再開の振動。応急板挿入前に記録針落下。ロロ・ピクスの行為を直接原因とは認定しない」
「認定しない、じゃ弱い!」
「現時点の事実です!」
ロロは吸入器を使う。
一息。
二息。
震える手を止めない。
「撤退?」とハル。
「しねえ」
「条件」
「吸入後に喘鳴が戻ったらだ。今は戻ってねえ」
エリアがロロの肩を見る。
「三分ごとに確認する。隠したら、私が補助腕の電源を切る」
「暴力!」
「救難」
「言い換えりゃ正しいと思うな!」
「正確に言った」
中枢盤が、逆転爪の受け入れを拒む。
最終攻撃へ入ったため、整備機能が封鎖された。
「解除するには?」とハル。
「各艦で手動」とロロ。
「二十一隻?」
「二十一隻」
「時間は?」
「一時間十二分」
「一隻三分ちょい」
「移動時間を無視すんな!」
「じゃ二分」
「減らすな!」
「でもやる」
ハルは腰帯を締め直す。
左肩を回さない。
痛みを探して、ないことを確認する。
「誰が決めた」とセレナ。
「俺たち」
「撤退条件は」
「変えない」
「零星針は」
「使わない」
「理由は」
「失われた一箇所を探す話じゃない。二十一箇所を、順番どおり戻す話だから」
カイルが左手を差し出す。
「助けてくれ」
公の場ではない。
それでも彼が、命令でなく頼む。
「俺が空欄へ立つまで、輪をほどいてくれ」
ハルはその手を取る。
「了解」
握手は契約ではない。
永遠の約束でもない。
今からやる役割を、互いに確認するだけだ。
外で、二十一艦が速度を上げる。
誰も命じていない。
だからこそ、誰かが止めなければならなかった。