第185話 第九章「誰も命じていない」前編

歴史は、いた人間を書くのが得意である。

 王がいた。

 将軍がいた。

 反逆者がいた。

 英雄がいた。

 名を一つ置けば、その前後へ出来事を並べられる。何年に生まれ、何年に命じ、何年に勝ち、何年に死んだ。人名は歴史の釘であり、年代記はそこへ掛けられた長い布である。

 では、いなかった者をどう書くか。

 指揮官はいなかった。

 監督者はいなかった。

 止める者はいなかった。

 その席は空いていた。

 空席には署名がない。

 不在には声紋がない。

 無かった手形を採取することも、発されなかった命令を復唱させることもできない。

 ゆえに国家はしばしば、不在を事故と呼ぶ。

 事故と呼べば、誰も座らなかった椅子を処罰せずに済むからである。

 だが、人が座っていない椅子にも、椅子を空けた制度はある。

 全艦停止から二分二十秒。

 静けさは、砲声より忙しかった。

「あと四十秒!」

 ロロの声が尖塔の伝声管から裏返る。

『正確には三十八! 《暁葬》の受領爪が一拍早い! 誰だよ古い歯へ油差した奴、そこだけ仕事が丁寧だ!』

「褒めてる場合か!」とハル。

『職人は敵でも褒める! 人は嫌いでも加工精度は別だ!』

 カイルは王冠台へ左手を置いたまま、呼吸を整えている。停止命令は二十一艦へ届いた。帆は畳まれ、砲栓は閉じた。

 だが表示は消えない。

『代行復帰まで 三十四』

 三十四秒後、保存命令がまた一周する。

 人間の命令は、命じた人間が息を切らしても、機械の中で疲れない。

「もう一度止めれば?」とハル。

「同じ声で二度入れると、現任指揮官として仮登録される」とカイル。

「一回は王子、二回は上司?」

「軍は回数で関係を重くする」

「恋愛より雑だな」

「恋愛を何だと思ってる」

「知らないから聞く」

「今聞くな」

 残り二十九秒。

 エリアの路図が、尖塔の内壁へ立体の線を描く。

『下層の中枢室へ降りて。命令の輪が集まる主軸がある。停止中だけ防火扉が開く』

「何階下!」

『階ではない。尖塔が傾いているから、現在の下へ三十六メートル』

「現在の下って、変わるやつ!」

『だから現在と言ったの!』

 床の一部が、停止中だけ整備用昇降路へ変わっていた。

 梯子はない。

 中央へ細い索が一本。

 ハルは穴を覗く。

 暗い。

 底に、止まった時計が見える。

 十二時四分。

 針が動かない待合室。

 父が帰らなかった日の駅の時計に、少し似ている。

 羅針盤の蓋が、親指の下で一度鳴る。

 二度。

 三度目の前に、言う。

「エリア、降下の速度、頼む」

 一拍だけ間があった。

『任せて。右の索へ腰帯。左肩へ荷重をかけない。十二メートルで一度、壁を蹴って回転を止める』

「了解」

 助けを求めても、穴は浅くならない。

 ただ、落ち方を一人で決めなくてよくなる。

「俺が先だ」とカイル。

「認証台を離れられる?」

「停止命令はもう記録済みだ」

「じゃ、俺が先」

「なぜだ」

「お前、肋骨」

「お前、肩」

「俺は腰帯で降りる」

「俺もだ」

「じゃ同時?」

「穴が一人分だ!」

『残り二十一秒』とセレナ。

「先に飛ぶなで喧嘩してる時間がない」とエリア。

 ノクスが二人の間を抜け、索へ尾を巻きつけて先に降りた。

「また決められた」とハル。

「王子の面目がない」

「最初から?」

「お前には言われたくない」

 ハルが降りる。

 カイルが続く。

 残り十四秒。

 暗い筒の中を、白い壁が上へ流れる。

 残り十秒。

 中ほどで艦が揺れた。

 ハルは右足を壁へ当てる。左肩が引かれそうになる。

「一、二――カイル、索を押さえて!」

「了解!」

 上からカイルが腰索を足で挟む。

 荷重が分かれる。

 残り六秒。

 底へ着地。

 残り三秒。

 カイルが降りる。

 残り一秒。

 止まった時計が、突然一分進んだ。

 艦隊が咳をする。

『右舷――失礼。左舷砲列、敵軍籍を照合。奉還路を確保せよ』

 砲声。

 停止が終わった。

 天井の昇降路が閉じる。

 二人は中枢へ閉じ込められた。

「計画どおり?」とハル。

「計画に閉じ込められるとは書いてない」

「じゃ計画外」

「景気が悪いな」

「食べ物じゃない。まだ大丈夫」

「人の恐怖を採点するな」

 中枢室には、椅子が一脚あった。

 高い背もたれ。

 両肘に命令鍵。

 正面に二十一艦の小さな模型。

 足元に忠誠誓文。

 そして、誰もいない。

 誰もいないことは、見れば分かる。

 証明するには、見ただけでは足りない。

 セレナは別経路から中枢へ着いた。停止中に開いた横の法務通路を使い、エリアとロロも続く。ミラとジルは旗艦食堂に残り、外の港と船団をつなぐ。

 セレナは椅子の前で手袋を替えた。

「全員、何も触れないでください」

「時計、動いた」とハル。

「触れずに指してください」

「指も触れる?」

「空気には」

「じゃ息も証拠を動かす?」

「可能性はあります」

 ハルは息を止めた。

「倒れるので呼吸してください」

「難しいな、捜査」

「生存と両立させてください」

 黒い証羽が浮かぶ。

 セレナは椅子へ近づかない。

 先に、部屋の境界を記録する。

「入口封鎖時刻。室温。湿度。気流。床面の埃。命令鍵の位置。時計表示。食料、水、寝具、衛生設備の有無」

 証羽が一項目ずつ書く。

 ロロはゴーグルの右レンズを下ろし、床を覗いた。

「埃は均一。最近踏んだ跡なし。掃除機構も止まってる」

「最近とは」

「この湿度なら少なくとも二十日。油膜の割れ方ならもっと」

「幅を記録します」

 エリアが壁の通気孔へ薄紙を当てる。

「呼気由来の水分偏りなし。室内の空気は機関冷却路からのみ。人が長時間いたなら、北側壁の塩膜が曇るはず」

「現在、曇りなし」

 ノクスが椅子の周囲を一周する。

 二本の尾は低い。

 新しく破られた約束の匂いはない。

 セレナはそれだけを記録する。

「夜獣ノクス、現在の破約痕へ反応なし。ただし、本能力は不在そのものを証明しない」

 ハルが頷いた。

 一つの能力で答えを決めない。

 鼻が犯人を示さないから犯人がいない、とはしない。

 椅子の肘には、人の手脂がない。

 命令鍵には新しい爪痕がない。

 音声管の内側には、直接発声した時に付く唾液塩がない。

 筆記台のインクは固まり、最後の日付は数十年前。

 非常食は封印されたまま、虫すら死んで乾いている。

 排水管は錆で塞がり、最近の水使用痕がない。

 壁の記録盤には、入力が二種類だけ残る。

 外部から送られた起動信号。

 各艦が自動で返した受領確認。

 人の声はない。

「起動信号は誰から」とハル。

 セレナは食堂へ通信をつなぐ。

「拘束中のレム・オルデンへ再確認します」

 返事まで少し間がある。

 背市の臨時拘置艇から、監視官を通して声が届いた。

『俺が送った』

 レムの声は疲れている。

 昨夜、翼鯨を危険へ巻き込み、王獣鈴の欠片を得ようとした男。

「文面を」

『奉還。旧受領者へ帰せ。座標と古い認証片を付けた』

「艦隊が起動すると知っていましたか」

『保管庫が開くと思った。あの艦隊が残ってるとは知らなかった』

「知らなかったことを示す資料は」

『ない』

「知っていたことを示す資料も、現時点ではありません」

『それで俺は無罪か』

「いいえ。あなたが起動信号を送信した事実、意図した所有権移転、予見可能性は別に審理されます」

『誰も撃てと命じてない』

「それも別です」

『便利だな、別って言葉は』

「混ぜれば、責任の小さい者へ全てを押しつけるか、責任の大きい制度を見逃します」

『制度を牢へ入れられるか』

「入れられません。改廃できます」

『俺は入れられる』

「はい」

『公平か』

「同じ処置をすることが公平ではありません」

『星律官らしい答えだ』

「事実だけを言えば、星律官です」

 通信を切る。

 カイルが椅子の背を見た。

「レムが火をつけた」

「火薬庫を作った者は別」とエリア。

「古い火薬を残した王家も別」とカイル。

「同じ穴規格を買った自由港も別」とロロ。

「沈める方へ金を出した買付会も別」とミラの声。

「砲撃した人は?」とハル。

 全員が椅子を見る。

 空席。

「確認できない」とセレナ。

「いない、じゃなく?」

「法的には、調査範囲を付けます。この部屋、全艦の現在記録、命令筒、受信履歴、標的識別履歴。これらに、現在の攻撃を判断し発令した人間の痕跡がない」

「長い」

「短くして誤るよりいい」

「でも被害を受ける人には?」

 セレナは空席の前へ立つ。

「記録へ残らない不在〈ネガティブ・ログ〉として作成します」

「不在を記録する記録?」

「『何もなかった』ではありません。あるはずの痕跡を列挙し、一つずつ無かったこと、調べた範囲、調べられなかった範囲を残す」

「空白を、白いまま囲う?」

「ええ。誰かの顔を勝手に描かないために」

 黒い羽根が、初めて長い文章を書く。

『本艦隊の現在攻撃について、人間による同時的な発令、修正、取消しの痕跡を確認できず。艦隊は保存音声、標的札入力、環状代行により作動。起動信号送信者の責任は存在するが、当該送信者から現在各砲撃への個別命令は確認されない。設計、保全、規格転用、起動、停止遅延、救難阻害の責任を分離し、後日審査を要す』

 証羽は止まらない。

『命令者の不在は、被害責任の不在を意味しない』

 そこで羽根が止まった。

 セレナは息を吐く。

「書けた」とハル。

「書いただけです」

「最初は書けなかった」

「……ええ」

 彼女は甘味皿を持ってきていない。

 代わりに、カイルが尖塔から一個だけ持ってきた砂糖菓子を差し出した。

「窃取品では」とセレナ。

「食堂備品を現場要員へ配給した」

「都合のよい職権解釈です」

「受け取らない?」

「証拠保全後に食べます」

「保留か」

「ミラの分類を使わないでください」

 だが受け取った。

 空席の横には、最後の当直帳が残っていた。

 紙ではなく、薄い錫板を束ねたもの。

 火災でも消えず、水へ落ちても読める。軍が永遠を信じた箇所ほど、材料は丈夫だった。

 最終日付。

『乗員、台風帯外縁にて全員退艦。艦隊は一夜、自動待機。翌朝、王国曳航隊へ引渡し予定』

「一夜」とハル。

「予定では」とセレナ。

 次の板。

『曳航隊、来着せず。待機継続』

 その次。

『外部通信、受信なし。待機継続』

 同じ文が、三十日。

 書いた筆跡はない。

 自動刻印。

 三十一日目から、日付だけになる。

 三百六十五日。

 二年。

 十年。

 途中で暦の規格が変わり、機械は古い年号を繰り返す。

「誰かが忘れた?」とハル。

「曳航隊の記録を調べないと断定できません」とセレナ。「戦況で来られなかった可能性。引渡し命令が届かなかった可能性。艦隊位置が失われた可能性」

「一夜の留守番が、何十年」

「終了条件が『王国曳航隊へ引渡し』だけだった。相手が来なければ、待機は終わらない」

 ハルは止まった時計を見る。

 待つことそのものが怖い。

 誰かが帰ると言って、理由を残さず消えること。

 待つ側の時間だけが、約束へ固定されること。

「船も待たされた?」

「船は傷つきません」とセレナ。

「でも、待つ仕組みは残った」

「ええ。そして、待たせた人間がいなくなった後も」

 当直帳の最後に、小さな追記がある。

『自動待機三百六十五日超過。人員確認を要求』

 返答欄は空白。

 機械は一度だけ、人を求めた。

 人は答えなかった。

 その後、要求機能は摩耗し、待機だけが残った。

 ロロが錫板の端を見る。

「ここ、三枚歯で日送りを直してる」

「航路盤と同じ?」とハル。

「同じやり方。誰かが途中まで来たのか、出航前に直したのかは分からねえ。工具痕の古さも近すぎる」

「名前」

「ない」

 セレナは板を証拠袋へ入れる。

「分からないことが増えました」

「嫌?」

「以前は」

「今は?」

「調べる範囲が増えた、と書きます」

 彼女は当直帳の表紙へ、保全番号を付ける。

「この記録は、現在の命令者がいないことを直接証明しません。ただし、有人引渡しが成立せず、自動待機が長期化した経緯を示します」

「事実だけ」

「事実だけを」

「でも、その事実、寂しい」

「寂しさは記録項目ではありません」

「感じてる?」

 セレナは答えない。

 答えないことと、感じていないことは同じではない。

 彼女は錫板の空白欄を、いつもより長く見ていた。