第190話 第十一章「幽霊艦隊の停泊」後編

「減速帆、封鎖解除!」

 ロロが叫ぶ。

 ハルは手動弁を回す。

 今度は動く。

 右へ一回。

 二回。

 三回。

 冠飾りの下から、巨大な帆骨が飛び出した。

 布は開かない。

「何で!」

『数十年畳みっぱなしだ! 癒着してる!』

「切る?」

『外布だけ! 主帆索は切るな!』

「どれが主!」

『太い方!』

「全部太い!」

『中央の赤い――色は駄目だ! 三本切れ込み!』

「それ!」

 ハルは三本切れ込みの索を残し、外布の固着を短剣で切る。

 風が隙間へ入る。

 古い帆が一気に開いた。

 衝撃でハルの体が持ち上がる。

 左手が反射的に帆索へ伸びる。

 掴めば、左肩一つで全身を吊るす。

 やめる。

「一、二――ノクス!」

 二本の尾が腰帯へ巻きつく。

 ハルは両足を帆骨へ当てる。

 助けを求めた。

 三を言う前に。

「助かった!」

 ノクスは返事の代わりに、マフラーを一度噛む。

 減速帆が風を受ける。

 《レガリア》の船首が、わずかに下がった。

「速度、七パーセント低下!」とエリア。

「七だけ!?」

「七も!」

「言い方で増えない!」

「残りを増やす!」

 自由港ヴェインでは、上層船が左右へ分かれ始めた。

 カイルは公開回線へ声を入れる。

「自由港の全船へ。王家の命令ではない。衝突路を空けてほしい。中央を通せば、下層病院船への直撃を避けられる。動けない船は位置を返してくれ。こちらが避ける」

 以前の彼なら「退避せよ」と一文で命じた。

 今は理由と選択を渡す。

 返答が殺到する。

『上層七、移動可能』

『育児船、索を外せない』

『病院三、固定』

『市場船、右へ二十メートル』

『登録なし居住筏、中央下にいる!』

 最後の声は、量札へ載っていない。

 古い艦隊には見えなかった生活。

 エリアは地図へ空欄を作らない。

「登録なし筏の位置を!」

『灯りなし、音だけ! 鐘を三回鳴らす!』

 霧の下で、鐘。

 一回。

 二回。

 三回。

 エリアの左手が、その音へ線を引く。

「確認。中央下、船首から四十メートル。衝突路を上へ一・三度変更」

「舵が死んでる!」とジル。

「外から引く!」とミラ。

 停止した二十艦と、自由港の曳航艇が、旗艦へ索を投げる。

 一隻で止められない質量。

 だから二十隻を錨にする。

 だが停止艦は各方向へ流れている。張力が揃わない。ジルの均等結索は一度使い、もう焼けた。

「一本ずつ」とジル。「同時に引くな。近い奴から、船首を振るだけ」

『誰の命令だ!』と曳航艇。

「命令じゃねえ。船を壊したくなけりゃ聞け」

『同じだろ!』

「嫌なら別案を出せ!」

 一秒。

『……近い順を言え!』

《青匙》、一番。《九枚舌》、二。《東風二号》、三!」

 異議を許した指示は、命令でなくなるわけではない。

 ただ、従う者が自分の判断を残せる。

 一本目の索が張る。

 《レガリア》の船首が〇・二度動く。

 二本目。

 〇・四。

 三本目。

 索が切れた。

「不足!」とエリア。

「何が!」とハル。

「下方向の力。船首を上へ振りたいのに、全艦が同高度」

 カンティレーナから、サーガの声が入る。

『ラナを使え』

 翼鯨ラナ。

 昨夜の傷がまだ癒えきらず、背市カンティレーナを乗せたまま霧の外へ退避している。

「無理」とミラ。「また噴気孔へ負担をかける」

『噴気は使わない。ラナが上昇する時の腹風へ乗せる』

「都市ごと近づける気?」

『ラナが選ぶ』

「飼育主任が決めるな」

『だから今、聞く』

 通信の向こうで、サーガが巨大な翼鯨の皮膚へ鼓動を送る。

 人間の言葉ではない。

 長い付き合いの中で覚えた、近づくか離れるかの問い。

 ラナの四枚翼が、一度ゆっくり動く。

 霧が持ち上がる。

 カンティレーナが進路を変えた。

『来る』とサーガ。

「ラナ自身の選択を確認」とセレナ。

「そこまで記録する?」とハル。

「都市を背負う生物を道具として書かないためです」

 ラナが《レガリア》の下へ回る。

 巨大な身体が上昇する。

 腹側から、山のような風が押し上げる。

 減速帆がその風を受けた。

 旗艦の船首が上がる。

「一・一度!」とエリア。

「あと〇・二!」

 自由港まで二分四十秒。

 最後の〇・二度は、王子の仕事ではなかった。

 ハルは船首下部へ降りていた。

 そこに、奉還錨がある。

 古い軍艦が帰還港へ自分を固定するための巨大な鎖。現在は錆び、半分だけ船腹へ埋まっている。落とせば自由港の外縁網へ掛かり、船首を横へ振れる。

 落とし方は、簡単だった。

 鎖留めを二本抜く。

 問題は、二本が船体の左右へ二十メートル離れていることである。

「同時に抜かないと、片方が荷重を受けて折れる!」とロロ。

「俺と誰!」

「カイル!」

 軍令尖塔からカイルが走ってくる。

 マントなし。

 右籠手なし。

 王家の声なし。

 それでもカイルである。

「左を取る!」

「どっちの!」

「船の!」

「みんな船の左右好きだな!」

「右利きだろ、お前は右!」

「お前は?」

「左利き!」

「礼法で右じゃないの?」

「今は礼法を捨てた!」

 二人が左右へ分かれる。

 鎖留めは腰ほど太い。

 手動把手を回し、最後に引き抜く。

 カイルの左手は自然に動く。

 幼少期に矯正された右ではなく、自分の手。

 ハルは右で回す。

「残り一分五十!」とセレナ。

「回転、二十!」とハル。

「十八!」とカイル。

「遅い!」

「王子は力仕事を教わってない!」

「盾は持てるだろ!」

「盾は回さない!」

「言い訳!」

「そっちは!」

「二十二!」

「速いな!」

「配達店の荷台固定!」

「王学に入れろ!」

 鎖が鳴る。

 自由港の登録なし筏、その鐘が真下で三回鳴る。

 エリアの声が緊張する。

「現在角では船尾が筏へ当たる。〇・二度、必須!」

「あと何回!」

「三十六!」とロロ。

「先に言え!」

 カイルの呼吸が速い。

 肋骨が痛む。

 セレナが聞く。

「呼吸数、平常の一・九倍」

「二倍じゃない!」

「自己申告だけで続行しないでください」

「左手作業、盾なし。あと十四回!」

 ハルの左肩も、反対側の鎖振動を受ける。

 痛くない。

 まだ。

「一、二――カイル、同時に頼む!」

「今頼むのか!」

「一人で抜かないため!」

「了解!」

 最後の回転。

「三!」

 二人が留めを引く。

 抜けない。

「固い!」

「同時がずれた!」

「誰の!」

「数え方!」

「一、二、三で三に引くの普通!」

「王国軍は三の後!」

「文化差!」

 衝突まで四十秒。

「もう一回!」

「今度は『今』で引く!」

「了解!」

 カイルが声を出す。

「一、二――今!」

 二本の留めが同時に抜けた。

 奉還錨が落ちる。

 巨大な鎖が船腹から吐き出される。

 下の係留網へ、錨爪が掛かる。

 旗艦の速度が鎖へ伝わる。

 網が悲鳴を上げる。

 自由港の何百本もの索が、一本ずつ張る。

 船首が横へ振られる。

 〇・一度。

「あと〇・一!」

 鎖の一本が切れかける。

 カイルの右手へ炎が灯る。

 船全体を守らない。

 最後の破片だけ。

「守る人数、十四!」

 登録なし筏の住民。

 王盾炎〈レグルス・ガード〉が、小さな赤い盾となって鎖の切断部を包む。

 大盾ではない。

 空を覆わない。

 一本の鎖を、三秒だけ守る。

 返る痛みも、十四人分。

 カイルの背中の火傷が熱を持つ。

 膝が揺れる。

「三秒!」とエリア。

 一。

 二。

 三。

 船首が、〇・一度動く。

 盾を消す。

 鎖が切れる。

 《レガリア》は自由港中央を掠め、登録なし筏の上を通過した。

 船尾の装甲が、鐘の柱を一本だけ折る。

 人には当たらない。

 巨大な旗艦は、港の外へ抜ける。

 ラナの上昇風と、二十艦の曳航索と、減速帆と、奉還錨。

 一つでは止まらない。

 全部で止める。

 速度が落ちる。

 十。

 八。

 五。

 最後に《青匙》の曳航索が張り切り、船体が大きく回る。

 《レガリア》は自由港外縁の無主停泊環へ、横向きに滑り込んだ。

 停止。

 本当の停止。

 砲声もない。

 機関音もない。

 船体の進みもない。

 静けさの中で、折れた鐘だけが一回鳴った。

 誰も命じなかった。

 生き残った人が、勝手に鳴らした音だった。

 停泊後、最初にしたことは歓呼ではない。

 点呼だった。

 自由港の登録船。

 未登録筏。

 病院船。

 育児船。

 カンティレーナ。

 曳航艇。

 ゼロスター号。

 人員死亡、ゼロ。

 重傷、三。

 軽傷、二十七。

 行方不明、二。

 行方不明は十五分後、切れた索の浮袋に掴まって見つかった。

 死亡、ゼロ。

 その数字は奇跡ではない。

 奇跡と呼べば、準備、異議、問い、索、地図、修理、値段、証言、怪我を申告した一言が消える。

 幸運はあった。

 だが幸運へ仕事を全部渡してはいけない。

 カイルは甲板へ座り込んだ。

 王盾の返りは小さい。

 小さいだけで、痛くないわけではない。

 ハルが隣へ座る。

「王子じゃなくなった?」

「軍令権一つを捨てただけだ」

「じゃ王子」

「残念そうだな」

「長い肩書が減ると思った」

「お前が勝手に短くしろ」

「カイルでいい?」

「最初からそう呼んでるだろ」

「じゃ何も変わらない」

 カイルは自由港を見る。

「変わったぞ」

「何が」

「あの船へ命令できない」

「したい?」

「今は、したくない」

「後で?」

「後で欲しくなるかもしれない。国が危ない時、あれば救えると思うかもしれない」

「でも取れない」

「ああ」

「後の自分を信用してない?」

「信用してるから、制限する」

 ハルは考える。

「信用したら自由にするんじゃない?」

「自由だから、間違える。間違えても一国を壊せないようにする」

「王様って面倒」

「今知ったか」

「ずっと面倒だと思ってた」

「景気が悪いな」

 今回は、二人とも笑った。

 エリアが来る。

 歩幅が小さい。

 両踵の痛みを隠さないため、地図槍を杖として使っている。

「二人とも、治療」

「俺は軽い」とハル。

「カイルの次」

「なぜ俺が先だ」とカイル。

「呼吸数、背部熱、肋骨痛。三項目」

「ハルは肩」

「痛みなし。耳鳴りあり。一項目」

「数で負けた」とハル。

「競わないで」

 ロロは甲板へ寝転がっている。

 工具箱を枕にし、吸入器を胸へ置く。

 四本の補助腕は全て垂れている。

「修理代……」

「後で」とセレナ。

「今、書かねえと……王家の権限、消えた……」

「王国の支払義務は消えていません」

「本当か……」

「事実です」

「じゃ寝る……」

 ピコが戻り、ロロの額へ止まる。

 ノクスは隣で丸くなる。

 ミラは車輪椅子から、停泊した二十一艦を見る。

「売れば、いくら」とハル。

「今聞く?」

「計算してる顔」

「してる。船材、砲、航路盤、歴史価値、保全費、被害賠償。全部足すと、買える者が所有すべきじゃない値段になる」

「じゃ売らない」

「私が決めない」

「誰が」

「自由港、カンティレーナ、王国、旧乗員の遺族、被害住民。あと、登録されてない筏」

「多い」

「所有者を一人にすると、また命令が短くなる」

 ジルが濡れた契約書を甲板へ広げる。

「紙が濡れたら、字が残った」

「珍しい」とミラ。

「いい紙だ」

「買付会の契約」

「じゃ高い」

「破る?」

「乾かして証拠にする」

「成長した」

「お前に言われたくない」

 日が傾く頃、旗艦の中枢を保全封鎖する前に、ロロが一箇所だけ確認したいと言った。

「今寝たばかり」とハル。

「寝たから起きた」

「理屈が短い」

「主筒の裏。逆転させた時、別の歯が三枚鳴った」

 三枚歯。

 中枢盤の下、王冠台のさらに奥。

 ロロが薄板を外す。

 そこには古い航路盤があった。

 戦闘星図ではない。

 通常航路にもない。

 円形の盤面の中央に、渦。

 永続台風を示す七重線。

 その目へ、一本の細い軍用路が入り込んでいる。

 目的地名は削れて読めない。

 盤の縁には、三枚歯の修理痕。

 ロロは指で触れない。

 見るだけ。

「同じ規格」と言う。

「何と」とハル。

「古い機関士の直し方。三枚だけ歯を替えて、隣の古歯を残す。誰かは分からねえ」

「分からないまま?」

「分からないまま記録する」

 セレナが頷く。

 航路盤の端に、座標が一つ。

 永久台風帯の目。

 そして、短い注意書き。

 文字は煤で半分隠れている。

 今読めるのは最初の二語だけだった。

『動く壁――』

 ロロが煤を払おうとする。

 セレナが止める。

「保全後に」

「一文字だけ」

「全部、保全後」

「融通!」

「証拠」

「会話が輪になる!」

 ハルは航路盤を見た。

 台風の目へ入る、古い道。

 何があるかは、まだ書かれていない。

 だからこそ道だった。