第191話 第十二章「台風の目への古路」前編
戦争の記念碑には、船の名が刻まれる。
旗艦《レガリア》。巡航艦《暁葬》。測距艦《第三鐘楼》。その文字は大きく、遠くから読める。
船の中で誰が鍋を洗ったかは、刻まれない。
誰が夜番で咳をし、誰が家へ送れない手紙を書き、誰が靴下を片方なくしたかも、たいてい刻まれない。
国家は、巨大な物を覚えるのが得意である。
巨大な物なら、一つの名前で多くをまとめられるからだ。
だが船は、人の代わりに戦ったのではない。
人を乗せて戦った。
船だけを保存し、人の名を失えば、歴史は二度目の無人化を行う。
幽霊艦隊が停泊して三日目。
自由港ヴェインの朝は、金槌の音で始まった。
壊れた係留塔。
切れた浮力索。
穴の開いた倉庫船。
折れた鐘。
修理箇所へ白い布が結ばれている。
白は降伏の色ではない。自由港では、「まだ人が作業中だ、勝手に触るな」の色である。
ハルは旗艦の食堂で、名札を並べていた。
長卓の上に、二百三十七枚。
「多い」と言う。
「一隻分です」とセレナ。
「二十一隻だと?」
「単純計算しないでください。艦種で定員が違います」
「でも、もっと多い」
「ええ」
セレナは黒い証羽を使わず、手で一枚ずつ写す。
証羽なら速い。
見た事実を正確に複製できる。
今日は、速さを優先しない。
名は証拠である前に、人が自分を呼ばせた形だからだ。
炊事兵ラト・メイン。
測距手エバ・トーラ。
帆縫い工ミズル・ケイ。
衛生士オルナ・デフ。
甲板見習い、姓なし、通称ペン。
英雄的な肩書はない。
「この人、靴下なくした?」とハル。
名札の裏に、小さな文字。
『左一足、食堂乾燥棚。持ち主は名乗れ』
「名札を掲示板代わりにしたようです」とセレナ。
「怒られない?」
「当時の規則では違反です」
「じゃ、記録する?」
「します。違反としてではなく、生活痕として」
「同じ文字でも意味が変わる」
「誰が何のために書いたかで変わります」
ハルは名札を一枚、元の向きへ戻す。
なくし物を見つけると、持ち主へ渡す前に「最後に正しかった向き」へ一度戻す癖。
持ち主は、もう取りに来ないかもしれない。
それでも向きを戻す。
食堂の一番奥に、削られた名札がある。
木の表面を刃物で何度も削り、文字だけが消されている。
部屋にも同じ削り跡。
その人物の寝台、食器、当番表の欄は残る。
名前だけがない。
「削れた下、読めない?」とハル。
「読めません」
「薬品とか」
「木目を傷め、残る痕跡まで失います」
「推測は」
「しません」
「この人だけ、名前なし?」
「現時点では」
セレナは新しい札を置く。
『氏名不明。存在確認。推定記入禁止』
「名前を付けないの?」
「勝手に付ければ、元の名を探す理由が弱くなります」
「でも空白は寂しい」
「寂しさを埋めるために、他人の名を作りません」
厳しい。
けれど、名がない者を存在しない扱いにはしない。
記録へ残らない不在を囲ったのと同じように、名のない存在を、名のないまま記録する。
ハルは削られた札の隣へ、靴下の札を置く。
「何を」とセレナ。
「隣が空いてた」
「分類上は別です」
「後で戻す」
「今戻してください」
「少しだけ」
「証拠配置を感情で変えないで」
「この人も靴下なくしたかもしれない」
「可能性を増やさないでください」
セレナの口調は変わらない。
だが、靴下の札を自分では戻さなかった。
旗艦の外では、所有権会議が始まっていた。
会議という言葉を聞いた時、ハルは走って逃げようとした。
エリアが赤いマフラーを掴んだ。
「出席」
「俺、所有者じゃない」
「だから出るの」
「分からない」
「所有者でない人へ被害が出た。所有者候補だけで決めない」
「長い?」
「長い」
「助けて」
「具体的に」
「眠ったら起こして」
「眠らせない」
「助けじゃない」
「予防よ」
会議は、停泊環の倉庫船で開かれた。
王国代表。
自由港の居住船代表。
カンティレーナの競売会。
翼鯨飼育区。
曳航艇組合。
星律局。
未登録筏の住民。
旧乗員遺族の照会代理。
椅子の高さは揃っていない。
マオが見れば怒るだろう、とハルは思う。
ミラは車輪椅子のまま、卓の中央でなく端へいる。
誰かが中央席を用意した。
彼女が断った。
「船長ではない」と言ったからだ。
「では発見者代表として」と王国役人。
「発見したのはレムの信号と霧。私じゃない」
「救難側代表」
「救難は全員」
「契約設計者」
「まだ契約してない」
「何なら座るのです」
「ミラ・ベルウェザーとして」
役人は困った。
肩書のない人間を、どの欄へ書くか分からない。
ジルが言う。
「空欄にしろ」
「議事録上、資格が」
「本人」
「それは資格名では」
「なら紙が悪い」
最終的に欄には、こう書かれた。
『参加者本人』
制度は時々、一人の変なこだわりによって一行だけ広くなる。
最初の提案は、王国から出た。
「旧軍艦は王国史資料であり、現行法上の無主国家資産として、王国が保全管理する」
次に競売会。
「維持費が巨大です。武装を無力化し、船材と機関を売却。記録区画だけ保存する」
曳航艇組合。
「止めたのは俺たちだ。停泊費と索代を先に払え」
自由港住民。
「砲撃被害の賠償が先」
未登録筏の代表。
「量札がないから被害名簿へ載っていない。まず載せろ」
全員が正しい。
正しい要求が同時に卓へ載ると、卓は戦場に似る。
ただし、砲弾の代わりに紙が飛ぶ。
ミラは七十六枚の新しい契約案を持っていない。
一枚だけ、白紙を持っている。
「ベルウェザー氏」と王国役人。「あなたの案を」
「ない」
「ない?」
「私が全部書いたら、私の港になる」
「ここは港ではなく艦隊です」
「同じ。入口と取り分を一人が書けば、その人の場所になる」
「では、誰が書くのです」
ミラは白紙を卓の中央へ滑らせた。
「被害を受けた順じゃない。金を出せる順でもない。項目ごとに決める」
彼女は指で五本の線を引く。
「一、命と生活の補償。二、乗員記録の保全。三、武装解除。四、修理と停泊費。五、将来の利用。五を最初に決めたら、金持ちが全部取る」
「優先順位は誰が」とエリア。
「今の五つは私の提案。採るかは卓」
「珍しい。命令しないのね」とセレナ。
「命令権を手放した王子の前で、私が船長ごっこしたら高くつく」
カイルは会議の一番後ろにいる。
王国代表席へ座らない。
彼は当事者であり、旧権限を放棄した本人でもある。王家の利害を代表すれば、自分の行為を自分で監査することになる。
「殿下の意見を」と役人。
「今は証言者だ。決定権はない」
「王太子として――」
「その肩書で決めれば、昨日捨てた物を別名で拾う」
「しかし王国の負担が」
「王国代表が言え。俺が補足するなら、王国の保全費と賠償義務は逃げない」
「権利は放棄し、義務は残すと?」
「逆だと便利すぎるだろ」
ミラが小さく三回笑う。
「その契約、嫌いじゃない」
「いくらだ」
「高い。国一つ分」
「俺の財布にない」
「知ってる」
会議は、六時間かかった。
ハルは三度眠りかけた。
エリアに三度、靴先を踏まれた。
「踵、痛いんじゃないの」と小声で言う。
「だから靴先」
「そういう問題?」
「眠らせないという役割を果たしている」
「丁寧だな」
「褒めても弱くしない」
決まったのは、所有者ではない。
決め方だった。
艦隊は当面、中立停泊環へ置く。
武装は発射機構と砲弾を分離し、砲身そのものは歴史資料として残す。
乗員記録区画は売却しない。
解体や再利用は、住民監査と遺族照会の後、区画ごとに決める。
未登録住民も、音声、結び目、第三者証言で被害申請できる。
停泊費と修理費は、王国、競売会、自由港交易税の三者で仮払いし、後日責任割合を審査する。
完璧ではない。
遅い。
高い。
揉める。
だが、一人が短く命じないための費用だった。
ミラは最後に、自分が旗艦食堂へ置いた一ルク銅貨を卓へ出した。
「これは?」と役人。
「席代。持ち主不明」
「一ルクで何が」
「名が見つかった乗員の遺族へ返す。見つからなければ、氏名不明者の記録保全費」
「象徴的ですね」と競売会の書記。
ミラの灰緑の目が細くなる。
「象徴じゃない。一ルク」
「意味としては」
「意味で金額を増やすな。少額だから誰も所有権を主張できない。少額でもゼロじゃないから、受領と使途を記録する」
「あなたらしい」とエリア。
「褒めてる?」
「正確に言った」
銅貨は、共同保全帳の最初の入金になった。
その帳簿は後世、しばしば「一ルクから始まった艦隊保存」と呼ばれることになる。
もっとも、その呼び名をミラが聞けば、利息を請求しただろう。
同じ日の夕方、王都から二通の通信が来た。
一通は、王国議会からカイルへ。
『旧軍令権放棄の合法性、国防上の影響、王太子権限の適格性について緊急審査を開始。帰都を求む』
「適格性って、王子をやめさせる?」とハル。
「可能性はある」とカイル。
「平気?」
「平気と言えば嘘だ」
「怖い?」
「王子でない俺を国が必要とするか、まだ分からん」
「前も言った」
「一日で治る恐怖なら、古傷にならない」
彼は通信紙を折らない。
折れば、見たくない一行を内側へ隠せる。
「帰る?」
「艦隊の初動報告を終えてから。逃げたと思われるからじゃない。説明する相手がここにもいる」
「議会に怒鳴る?」
「怒鳴らない」
「冗談は?」
「言う」
「怖いから」
「ああ」
カイルは認めた。
恐怖を隠さず、冗談をやめない。
癖が消えるのではなく、癖の意味を自分で言えるようになる。
二通目は、父王アルノーからだった。
短い。
『放棄手続を確認した。命令違反の審査は行う。艦隊を止めた判断と、権限を返した判断は分けて扱う。戻ったら説明せよ。傷を英雄談にするな』
署名。
それだけ。
「怒ってる?」とハル。
「父上は怒ると文章が長くなる」
「じゃ怒ってない」
「長く書けないくらい怒ってる可能性もある」
「どっち」
「帰るまで分からん」
「分からないまま残す?」
「セレナの真似か」
「便利だから」
カイルは紙を胸の内側へ入れた。
最後の一口を誰かへ渡す癖のある男が、今回は言葉を自分で最後まで受け取った。
もう一通、学院から届いた。
宛先は全員。
差出人はティア・グランツとマオ・ケルンの連名。
ただし筆跡は二種類で、余白に互いの訂正が入っている。
『混成救難訓練事故について。ケルン生は右足首の捻挫、左脚装具部の擦過傷。歩行訓練を段階的に再開。本人の同意なく訓練から外す措置は採らない』
その下に、マオの字。
『「再開」は痛みがないという意味ではない。痛みの申告と中止を自分で選べる条件を追加。先に聞け』
さらにティア。
『臨時指揮系統の競合、掲示色の不統一、退避号令の優先順位、装具固定手順を調査中。私の判断責任を含む。現時点で単独原因へ確定しない』
マオ。
『「私の責任である」で全部を終わらせるな。英雄的な謝罪は、壊れた規則を隠す。第一条さんは会議で三回そう言った。四回目は止めた』
ティア。
『ケルン生は、止め方が無礼であった』
マオ。
『無礼でも止まった』
ティア。
『事実である』
最後に連名。
『処分、原因、次回訓練の形式は未決。話は続く』
ハルは通信紙を裏返す。
「終わってない」
「終わっていないことを、失敗としない手紙ね」とエリア。
「怪我、治る?」
「常識的な範囲では。けれど、事故前へ完全に戻すことだけが回復ではない」
「今日、みんなそれ言う」
「必要だから」
ロロが横から紙を奪う。
「装具の擦過部、写真は?」
「添付」とエリア。
「留め具の角が当たってる。次の型、布逃がしを二ミリ増やす。マオへ送る」
「無料?」とハル。
「試作費は学院、調整費は工房、本人の使用評価へ一ルク払う」
「本人が払うんじゃなく?」
「評価してもらう側が払う。利用者を無料の試験台にすんな」
「成長した」とミラ。
「お前に――」
「言われたくない?」
「先に取るな!」
別の場所で、別の物語が続く。
ゼロスター号の一行が見ていない間も、人は怪我をし、揉め、訂正し、次の訓練を考える。
世界は、一隻の船から見える範囲だけで動くほど小さくない。