第192話 第十二章「台風の目への古路」後編

 四日目、乗員記録の返還が始まった。

 生存している元乗員は見つからない。

 だが遺族はいる。

 名簿照合の結果、最初に来たのは白髪の女性だった。

 彼女は《第三鐘楼》の測距手エバ・トーラの孫だという。

 祖母ではなく祖父でもなく、会ったことのない大叔母。家で「戦争へ行ったまま」とだけ聞かされていた。

「帰った記録はありません」とセレナ。

 言葉を飾らない。

「死亡記録は」

「ありません」

「では、生きていた?」

「断定できません」

「船にいた?」

「最終出港名簿と、食堂当番表と、寝台札に名があります。少なくとも出港時には」

「その後は」

「分かりません」

 女性は怒らない。

 泣きもしない。

 長く曖昧だった家の話へ、曖昧な答えが一つ増えただけだからだ。

 セレナは封筒を渡す。

 未送付の手紙。

 エバ・トーラが姉へ書いたもの。

『帰ったら、南窓の屋根を直す。私は高い所が嫌いだから、梯子を押さえてくれ』

 短い。

 英雄の遺言ではない。

 屋根の修理予定。

 女性は、そこで初めて笑った。

「うちの家、今も南窓だけ雨漏りするんです」

 歴史は、時々、百年越しに生活へ戻る。

「手紙を持ち帰りますか」とセレナ。

「原本はここへ残してください。写しを」

「理由を伺っても」

「うちだけの人にしたくない。船にいた人でしょう」

「はい」

「でも写しは家に置く。雨漏りの下へ」

 セレナは写しを作る。

 黒い証羽ではなく、手で。

 文字の癖まで、ゆっくりなぞる。

 ハルは少し離れて見ていた。

 父ソウジの手紙はない。

 帰るという約束だけが残り、理由がない。

 エバの手紙は届かなかった。

 それでも、屋根を直すという具体的な予定が残っている。

 どちらがましとも言えない。

「父さんも、こういうの残してるかな」と呟く。

 エリアが隣にいる。

「分からない」

「探す?」

「あなたが探したいなら」

「見つかったら、読むの怖い」

「読まない選択もある」

「でも読む」

「その時、一人で読まなくていい」

 エリアは「私がいる」と永遠の約束をしない。

 その時に相談できる選択肢を置く。

 ハルは頷く。

「頼むかも」

「具体的に頼んで」

「隣にいて」

 エリアの顎が、少しだけ上がる。

 感情を抑える時の姿勢。

「分かった」

 二人の間に、長い言葉はなかった。

 長い約束より、短い役割の方が守りやすい時もある。

 記録返還の列には、誰も来ない名もあった。

 二百三十七枚のうち、照会先が見つかったのは百十二。

 死亡記録と一致したのが四十九。

 帰還記録が別港で見つかったのが十三。

 重複、誤記、通称だけが二十七。

 残りは不明。

 削られた名札は、不明のまま。

 セレナは最終記録へ書く。

『不明は、存在しなかったことを意味しない』

 ハルが覗く。

「前の記録と似てる」

「同じではありません。前は命令者の不在。今回は存在した人物の氏名不明」

「意味は違う」

「だから言葉も変えます」

「細かい」

「細かい違いを潰すと、違う人が同じ誰かになります」

「分かった」

「本当に?」

「名前だけ違う同じ人にしない」

「……ええ」

 セレナはその答えを記録しない。

 仲間の理解を、証拠にしない。

 ただ、少しだけ甘味皿をハルの方へ寄せた。

「甘すぎる」とハル。

「私のです」

「寄せたのに?」

「保管場所を変えただけ」

「一個」

「窃取です」

「試食」

「二個目へ手を伸ばしたら記録します」

「カイルと同じ扱い!」

「法は平等です」

「菓子だけ?」

「まず菓子から」

 記録返還と並行して、武装解除が行われた。

 「砲を壊す」と言えば一日で済む。

 だが、壊れた砲も売れば武器になる。砲身を残し、発射機構だけ外せば、後で誰かが戻すかもしれない。

 そこで三つへ分けた。

 砲身。

 発射鍵。

 砲弾。

 三つを別の場所、別の管理者、別の記録方式へ置く。

 砲身は停泊艦に固定したまま、内部へ鋳鉄の封栓を入れる。

 発射鍵は星律局と住民証人の二重箱。

 砲弾は王国工兵が信管を外し、外殻を被害補修材へ転用するか、危険物として解体する。

「王国工兵だけ?」と未登録筏の住民。

「技術上は」と役人。

「昨日まで王家の砲だった」

 疑いは当然だった。

 ロロが手を上げる。

「分解手順を公開する。絵で。字が読めなくても、どの部品を外したか見えるようにする。作業中は住民二人が横で見る」

「危険では」と役人。

「見る位置まで絵に描く。近づくなだけじゃ、どこからなら見ていいか分からねえ」

 ジルが言う。

「紙が濡れたら」

「金属札へ刻む。あと結び縄。発射鍵を外した砲は、砲尾へ三つ結び」

「音声は」とミラ。

「ピコに覚えさせる」

 ピコが得意げに胸を張る。

「こいつ、途中で歌うぞ」とハル。

「歌と手順を分ける!」

「できる?」

「俺が教える!」

 最初の砲弾外殻は、自由港の壊れた水槽へ使われた。

 白い弾体を縦に割り、内側の火薬痕を完全に洗浄し、二枚を合わせて貯水槽の補強板にする。

 昨日、人を撃つ形だった金属が、今日は飲み水を漏らさない形になる。

「美談にしないで」とセレナ。

 作業を見ていた書記が首を傾げる。

「なぜです」

「転用できたから砲撃が許されるわけではありません。材料が役立つことと、使われ方の責任は別です」

 ハルが補強板を叩く。

「でも、捨てない」

「ええ。捨てないことと、褒めることも別です」

 水槽には、小さな札が付けられた。

『旧艦隊砲弾外殻。信管・火薬除去済み。砲撃被害補修へ転用。来歴を消さない』

 子供がその札を読み、弾だった板へ水桶を立てかける。

 歴史を残すとは、触れない聖物にすることではない。

 何だったかを隠さず、今どう使うかを選び直し続けることでもある。

 五日目、ゼロスター号へ戻る。

 船は修理中だった。

 片帆の裂け目。

 船腹の擦過。

 舵索の焼け。

 ミラの車輪椅子を固定した甲板穴。

 ロロは請求書を読み上げる。

「帆布二十三ルク。索十七。外板三十一。逆転爪二十一個、材料と危険手当で九十八。俺の吸入薬、五。ピコの羽根一枚、精神的損害――」

「鳥に精神的損害ある?」とハル。

 ピコがハルの頭をつつく。

「ある!」

「今ので俺も」

「相殺」

「勝手!」

「ノクスの手回し作業、何で払う」とロロ。

 ノクスは前足を舐めている。

「魚?」

 二本の尾が上がる。

「成立」とミラ。

「お前が決めるな」

「本人が尾で同意した」

「尾は署名か?」とジル。

「今回の自由港なら、本人が選んだ印として証人付きで有効」

「制度が動物へ追いついたな」

「ノクスを動物だけで分類すると噛まれるよ」とハル。

 ノクスがロロの工具袋を噛む。

「俺を噛め!」

「痛いよ」

「工具の方が高い!」

 日常が戻る。

 戻るとは、事件前と同じになることではない。

 食卓の席が一つ増えている。

 ミラの車輪椅子が通れるよう、工具箱の置き場所が変わっている。

 ハルは左肩へ荷物を掛けない。

 エリアは踵の冷却時間を自分から告げる。

 カイルは王盾籠手を外したまま食事をする。

 ロロは吸入器を隠さない。

 セレナは「いない」を記録できる。

 変化は、演説より家具に先に現れる。

 昼食は、旗艦から運び出した乾パンではなかった。

 ジルが酸っぱい魚煮を作った。

 ミラが辛味を足す。

 カイルが市場から苺を買ってきた。

 王室勘定を使わず、借金した。

「誰に」とセレナ。

「サーガ」

「返済期限は」

「次にラナへ会う時」

「曖昧です」

「苺一籠に契約書は要らんだろ」

 ミラが手を出す。

「私が書く。利息は苺一個」

「高い!」

「一個だぞ」

「割合で言え。十二個中一個、八・三パーセント!」

「怒るほど細かい」とハル。

「借金は細かくなる!」

 ミラが苺を一個取り、カイルの皿へ戻す。

「今回は利息なし」

「親切?」

「見舞い」

「いくらだ」

「聞く側になったな」

「お前といると、無料が怖くなる」

「ありがとうで払え」

 言ってから、ミラ自身が止まる。

 助けられた後、対価を払わず「ありがとう」だけを試す。

 いつかの場面種は、未来の大事件でなく、苺一個から始まる。

 カイルも気づく。

「ありがとう」

「……成立」

 ミラは硬貨を出さなかった。

 ジルが魚煮をよそう。

「風鈴脚、成長したな」

「その呼び方、子供だけ」

「今は義足なしだ」

「だから?」

「風鈴椅子」

「契約終了」

「何の契約だ」

「会話」

「勝手に終えるな」

 笑いが船内へ広がる。

 ノクスが苺を嗅ぎ、嫌そうに顔を背ける。

 ロロは魚煮へ乾パンを浸し、柔らかくして食べる。

「旗艦の乾パン、数十年前じゃなかった?」とハル。

「これは今日の!」

「見分けつく?」

「歯が折れるかどうか」

「先に食べるな!」

「機関祖礼で、動いた時の音を――」

「乾パンは機械じゃない!」

「硬さは部品級だ!」

 エリアが右手で口元を隠して笑う。

 心から笑う時の癖。

 ハルはそれを見て、何も言わない。

 言えば止まる気がしたからだ。

 言葉を多くするほど良い場面と、言葉を置かない方が残る場面がある。

 過剰な言葉遊びを好む少年たちも、時々は学ぶ。

 食後、ロロが古航路盤を持ってきた。

 保全処理を終え、煤を乾式で除去し、修理痕を写し取ったもの。

 円盤の中央に、七重の渦。

 永久台風帯。

 外縁から中心へ、細い一本の線。

「軍用路」とカイル。

「通常航路台帳にはない」とエリア。「風壁を避けるのではなく、台風の回転と同じ速度で内側へ入る古い経路。ただし測定日が欠けている。今も同じ風とは限らない」

「使える?」とハル。

「正確に言って。線が残っているだけ。使用可能性は未確認」

「どこへ行く」

 エリアは盤縁の座標を読む。

「中心近くに、旧税務要塞の登録座標。目的地名は削れている」

「税務要塞」とミラ。

 灰緑の目が、傷を忘れたように光る。

「金がある顔」とハル。

「税務要塞に金庫がない方がおかしい」

「昔の金?」

「金だけじゃない。通行税の記録、没収品、航路権、未換金の証書」

「もう中身を決めてる」とエリア。

「可能性を値段へ直してるだけ」

「証拠は」とセレナ。

「税務要塞という座標」

「金庫の存在は未確認」

「税務要塞に金庫がなかったら、設計者を訴える」

「死者でしょう」

「遺産へ請求」

「その前に、注意書き」とロロ。

 盤の端。

 煤の下から全文が出ている。

『動く壁は運ばない』

 ハルが読む。

「壁が動く?」

「注意書きは『動く壁』を否定してない」とエリア。「運ばない、と言っている」

「何を」

「目的語がない」

「人?」

「推測しないで」とセレナ。

「船?」

「推測」

「金庫?」

「願望」とジル。

「誰の」とハル。

「ミラの」

 ミラは航路盤を膝へ載せる。

 三枚歯の修理痕を指でなぞらない。

 見るだけ。

「この直し方、ロロは知らない?」

「規格は知ってる。誰が直したかは知らねえ。三枚だけ新しくして、隣を残すのは古い節約法だ。上手い奴ならやる。下手な奴もやる」

「つまり」

「何も絞れねえ」

「役立たず修理痕」

「証拠を罵るな!」

「ジルの真似」

「この役立たず証拠め」とジル。

「増やすな!」

 盤には、道だけがある。

 目的地名なし。

 注意書き一行。

 修理者不明。

 後の事件の答えは書かれていない。

 書かれているのは、行けるかもしれないという形だけだ。

 道とは、本来その程度のものである。

 行き先を強制せず、歩いた結果を保証せず、入口だけを示す。

 ハルは羅針盤の蓋を弾く。

 一回。

 二回。

 三回。

 通常の癖。

 恐怖ではない。

「調べる?」

 エリアが聞く。

「道を?」

「行くかどうか」

「今決める?」

「決めなくてもいい」

「じゃ、みんなに聞く」

 ハルは一人ずつ見る。

 カイルは帰都審査がある。

 エリアは踵の治療が必要。

 ロロはゼロスター号を直さなければならない。

 セレナは艦隊記録を完成させる。

 ミラは車輪椅子で、義足の再調整もまだ。

 ジルは索代を回収する。

 ノクスは魚を食べる。

 全員に、今の生活がある。

 冒険は、生活を無視して始めるほど格好よくない。

「今日は決めない」とハル。

「珍しい」とカイル。

「待つの嫌いなんじゃ」とロロ。

「待つだけは嫌い。でも、直してから相談するのは待つじゃない」

「何だ」とミラ。

「準備」

 エリアの歩幅が、半歩だけ大きくなる。

 未知の道を前にした時の癖。

「台風の観測記録を集める。古路と現在風の差を測る」

「俺は盤の修理痕」とロロ。「あとゼロスター号。今行ったら帆が台風より先に死ぬ」

「私は法的な接近制限を確認します」とセレナ。「旧税務要塞が現行法上どの管轄か不明です」

「管轄があるの?」とハル。

「不明です」

「じゃ行ける?」

「不明を許可へ変えないでください」

 カイルは通信紙を畳む。

「俺は帰都する。審査が終われば合流できるかは、その時に言う」

「約束しない?」

「ああ。戻れる日を決められないからな」

「じゃ、連絡して」

「それは約束できる。帰れない時も理由を送る」

 ハルは頷く。

 父がしなかった約束の形。

 必ず帰る、ではない。

 帰れない時に、理由を説明する。

「成立」とミラ。

「お前の契約じゃない」とカイル。

「聞いてる側の分類」

「終了は?」

「まだ」

 ミラは古航路盤を持ち上げる。

 銅色の巻き髪。

 片耳の風鈴。

 車輪椅子。

 義足なし。

 走れない。

 だから冒険を始められない、とは言わない。

「準備が済んだら」と彼女は言う。

「台風の目へ行く」

 ハルが笑う。

「何しに?」

「金庫を盗む」

「あるか分からない」

「だから確かめる」

「動く壁は?」

「運ばない」

「意味分かってる?」

「分からない」

「それで行く?」

「分からない物が、金庫を守ってるんだろ」

「決めつけ」とセレナ。

「仮説」

「願望」とジル。

「商機」とミラ。

「危険」とエリア。

「修理代」とロロ。

「景気がいい」とカイル。

 全員が、同じ道へ別の名前を付ける。

 ハルは赤いマフラーを結び直した。

「じゃ、話は保留」

「保留?」とミラ。

「準備したら、もう一回みんなで決める」

 ミラの風鈴が、一度鳴る。

「契約成立」

「保留なのに?」

「保留を選ぶ契約」

「そんなのある?」

「今作った」

 ゼロスター号の外で、停泊した二十一隻が夕陽を受ける。

 命令を待たない船。

 沈められなかった記録。

 帰らなかった人々の名。

 その向こう、空の果てで、永続台風がゆっくり回っている。

 目には、まだ何も見えない。

 道だけが、古い円盤の上に残っていた。