第207話 第八章「金庫ではなく嵐」前編

修理工は、動かない物を信用しない。

 石壁は動かないと言われる。

 だが、熱で伸びる。

 冷えれば縮む。

 船が揺れれば釘穴の中で一厘ずつ削れる。

 三百年後には、最初の図面と違う場所へいる。

 金庫は動かないと言われる。

 だが、鍵を開けるたび蝶番が減る。

 中身を入れれば重心が変わる。

 守る側が「ここにある」と決め続けることで、同じ場所に見えているだけかもしれない。

 ロロ・ピクスが機械を直す時、最初に聞くのは「どこが壊れた」ではない。

「いつから、動いてないことにした?」

 壊れた物の多くは、止まっていない。

 間違った動きを、正しいと呼ばれている。

 永遠に回る徴税要塞の金庫も、同じだった。

「この軸、中心じゃねえ」

「真ん中にある」とパル。

「見た目の真ん中」

「真ん中、二つ?」

「回る物には二つある。形の中心と、力の中心」

「人にも?」

「急に難しい話すんな」

「ロロ、形の中心どこ」

「知らねえよ!」

 固定軸の内側は、一本の縦穴ではなかった。

 三重。

 一番外は要塞の壁を回す大歯環。

 その内側は金庫区画へつながる白い支持筒。

 最も内側には、台風の目へ突き出た青黒い柱。

 図面では三本とも同じ中心線へ重なる。

 現物では、白い支持筒だけが一寸半ずれている。

「施工ミス?」とパル。

「三百年動いて施工ミスで済んでたら、施工した奴は神だ」

「神、税払う?」

「払わせるのがここだろ」

 ロロはゴーグルの右レンズを下ろす。

 右眼は弱い。

 細部を見る時ほど左へ顔を傾ける。

 四本の補助腕を、白筒の周囲へ一本ずつ伸ばす。

 第一腕。振動計。

 第二腕。温度計。

 第三腕。糸錘。

 第四腕。古航路盤から写した角度板。

 本腕二本は、身体を支える。

 道具が多いから腕が多いのではない。

 腕が多いから、道具を置かずに済むだけである。

「回転、外一〇二」とロロ。

「金庫?」

「白筒、一〇二」

「同じ」

「待て」

 徴税船の入港鐘が、遠くで鳴る。

 一拍。

 要塞外輪の歯音が低くなる。

 一〇二。

 一〇一。

 九十九。

 白筒は。

 一〇二。

 一〇一。

 九十九。

「同じ」とパル。

「そうだ」

「悪い?」

「悪いんじゃねえ。答えだ」

「何の」

「金庫は要塞へ固定されてねえ」

「白い柱、つながってる」

「支えてるだけだ。回す力は別」

 ロロは最内側の青黒い柱へ耳を当てる。

 台風の唸りが、骨へ来る。

 歯車の音ではない。

 風そのものの周期。

「金庫の回転は、台風から取ってる」

「要塞も」

「要塞は徴税帆と歯車。金庫は台風の角速度に直接同期。だから外から見たら同じ場所にいる」

「でも、動いてる」

「ずっとな」

 古航路盤の注意書き。

『動く壁は運ばない』

 主語を足す。

 動く壁を、運ぶな。

 あるいは。

 動く壁は、何かを運ばない。

「壁、金庫を運んでない」とパル。

「台風が運んでる」

「じゃ金庫を盗むには」

「金庫を動かす必要がねえ」

 ロロは笑う。

 修理工が、故障箇所を見つけた時の笑いである。

 嬉しいのではない。

 面倒の形が分かっただけ。

「台風を止めればいい」

「三百年の?」

「一瞬」

「一瞬、長い?」

「扉一枚ぶん」

「証明」とパル。

「今した」

「言葉」

「測定も!」

「小さく」

 ロロは文句を言いながら、工具袋から三つの物を出す。

 丸いナット。

 糸巻き。

 パルの銀匙。

「匙、また使う?」

「傷つけねえ」

「傷一つ、豆四口」

「高え!」

 ナットを要塞外壁。

 糸巻きを白い支持筒。

 銀匙を金庫に見立てる。

 ナットと糸巻きを同じ糸で回し、銀匙だけは中央の細糸へ結ぶ。

「全部、同じ速さ」とパル。

「今はな」

 ロロが外側の糸を一瞬だけ指で押さえる。

 ナットと糸巻きは遅れる。

 銀匙は、中央の細糸が回り続けるため、半寸だけ先へ出る。

「離れた」

「止めたのは外だけ。第五章では、台風が先に遅れて、外壁が後から追った。向きは逆でも、速度差が出れば同じだ」

「今度は台風を止める」

「要塞外壁は歯車の慣性で少し進む。金庫は台風と一緒に止まる。だから壁だけ先へ行く」

「金庫、空に残る」

「〇・七六秒なら半寸。台風の回転を全部抜いて一・五拍なら――」

 ロロは糸の長さを測る。

「扉一枚と、手を入れる幅」

「人、入る?」

「細い奴」

「私」

「お前は行くって決める前に、横加速と帰りの幅を聞け」

「細いだけじゃ駄目?」

「身体は鍵じゃねえ」

 パルは銀匙を取り戻す。

「豆、いらない」

「傷ないから?」

「今の言葉、代わり」

「値段つけるな」

「ミラみたい」

「似てねえ!」

 ロロは三つの模型を片づける。

 その手が、一度止まる。

「ただし、台風を長く止めすぎたら駄目だ」

「何で」

「外輪の雲が内へ落ちる。金庫だけじゃない。要塞も、船も、雨も、止まった後の行き先を失う」

「一瞬より長いと」

「静かな空じゃねえ。遅れて全部がぶつかる」

「じゃ一・五拍」

「一・五拍以内」

「短い」

「短いから、戻ってこられる」

 パルは掌へ、一本と半分の線を描いた。

 数字を覚えるためではない。

 止めすぎないための線。

 金庫を開ける計画は、金庫の大きさから始まらない。

 静止してよい時間の短さから始まった。

 答えを見つけた直後、床が割れた。

 正確には、整備軸の清掃扉が開いた。

 下から白い手袋が三つ。

「無登録整備員を確認。工具を置け」

「工具は俺のだ!」

「所有申告を」

「ロロ・ピクス、工房登録九八二、四腕補助具は本人装具、右の長レンチはマオから借りた――いや今のは違う、マオじゃねえ、マオは学院だ、これはマオル工房の――」

「申告不一致」

「名前似てるだけだ!」

「全工具を留置」

「俺を留置しろ!」

「人身は対象外」

「工具なしの修理工は半分人身だ!」

 秤杖が伸びる。

 ロロの工具箱が重くなる。

 狭い整備軸で、重さは逃げ場を奪う。

 パルが六本指を白管の弁へ入れた。

「開ける?」

「何を」

「下」

「白は重力――待て、開けすぎるな!」

 パルは三分の一だけ回す。

 局所重力が斜めへ倒れた。

 工具箱は床へ沈まず、壁へ滑る。

 秤杖の先端も引かれる。

「今!」

 ロロの第一補助腕が杖を挟む。

 第二が留置印を削る。

 第三が警備員の手首へ布帯を巻き、第四がその帯を軸の手すりへ結ぶ。

「人へ使うな!」と警備員。

「工具へ使うな!」

「物と人を同列に」

「俺の工具は俺の仕事の一部だ!」

「仕事は人格ではない」

「だったら肩書きで人を呼ぶな!」

 パルが清掃扉の横へある小箱を開ける。

 中に、木札。

『清掃児童 三』

『清掃児童 四』

『清掃児童 補充』

 名前なし。

 彼女の手が止まる。

 警備員が言う。

「管理札へ触れるな」

「この人、どこ」

「過去の人員区分」

「名前」

「原簿参照が必要」

「原簿、見せない」

「本人署名が」

「子ども、字書けない」

「後見人が」

「いない」

「であれば請求資格が」

 パルは木札を元の箱へ戻す。

 持っていかない。

 それは誰かの記録である。

 自分と似ているから、自分の物ではない。

「写す」と彼女。

「複製禁止」

「覚える」

「記憶は」

「課税外」

 ハルから聞いた言葉を使う。

 六本指で、三つの数字を掌へ押す。

「三。四。補充」

「人名ではない」

「だから覚える」

 警備員の顔に、迷いが出る。

 その迷いをロロは利用する。

 第四補助腕が清掃扉を閉じた。

 白手袋三人を、下側へ残して。

「怪我は」とロロが扉越しに聞く。

「拘束者が救護を」

「怪我あるか!」

「……一名、手首擦過」

「布帯、緩めろ。左の結び目を引けば外れる!」

「逃走補助を要求」

「救助だ!」

「敵対者の」

「手首は敵じゃねえ!」

 向こうで布がほどける音。

「確認」と警備員。

「何を」

「擦過、軽度。救護不要」

「なら追ってくんな!」

「職務です」

「景気悪い職場だ!」

 ロロとパルは、白筒の外周を上へ進む。

 胸の狭さは二。

 走れば三になる。

 止まれば追いつかれる。

「吸入器」とパル。

「まだ」

「返事できなくなったら使う」

「今できる」

「今、使う?」

「……一回」

 パルは工具袋の外ポケットを開ける。

 触る前に聞いた。

「渡す」

「受領」

 ロロは自分で吸う。

 一息。

 二息。

 肺へ入る冷たい味。

「二から一・五」

「小数、禁止」

「俺の身体だ!」

「記録する時」

「誰が記録」

「私」

「お前、字書ける?」

「結び」

 パルは腰索へ、小さい輪を一つ結ぶ。

 発作二。

 吸入一。

 継続可。

 紙がなくても記録はできる。

 記録は文字の所有物ではない。

「先」とパル。

 上方から足音。

 別の点検扉が開く。

 ハルが頭から落ちてきた。

「うわ!」とロロ。

「下、どっち!」とハル。

「今お前が落ちてる方!」

「毎回変わる!」

 エリアの淡緑線が、彼の腰へつながっている。

 カイル、セレナ、ノクスが後ろ。

「ミラは」とパル。

「試験室」とハル。

「助ける?」

「行く」

「金庫は」

「捨てた」

「拾う?」

「今は人」

 ロロはハルを見る。

 怒っている。

 声が低い。

 羅針盤の蓋を触っていない。

 大きな怒りほど、彼は手遊びを止める。

「ミラ、裏切ったと思ってんのに?」

「思ってる」

「じゃ何で」

「俺が助けるかどうかと、ミラが何したかは別」

「後で請求する?」

「何を」

「怒り」

「値段つけられない」

「ミラが困る」

「困ればいい」

 ハルは迷わず言う。

 パルが少し笑う。

「安くしない?」

「しない」

「よし」

 エリアが点検路へ降りる。

 彼女はパルへ先に聞く。

「触れてもいい?」

「何を」

「首の布。ほどけています」

「自分で」

「鏡を」

 エリアが小さな銀片を向ける。

 パルは自分で布を結び直す。

「できた」

「受領」

 ハルの顔が固くなる。

 エリアが言い直す。

「分かった」