第206話 第七章「風を盗む上限」後編

 留置室からの脱出は、王子が靴を脱ぐところから始まった。

「歴史に書くな」とカイル。

「既に記録中です」とセレナ。

「星律官を連れて脱獄する欠点」

「利点は後で適法性を争えます」

「今の利点をくれ」

「靴下に穴がないと証明できます」

「景気が悪い!」

 上着と靴を椅子へ着せる。

 荷重印を椅子側へ残す。

 ノクスが一脚ずつ移り、体重鏡へ生体反応を足す。

「人数、足りない」とエリア。

「俺が走って二人分」とハル。

「速さは人数にならない」

「鏡、心拍見る?」

「脈見鏡と同型なら」

「カイル、冗談」

「なぜ」

「心拍上げて」

「苺がない」

「想像」

「それは恋愛区分へ入る」

「誰と苺食べる想像!」

 カイルの心拍が上がる。

「成功」とロロなら言っただろう。

 扉の体重鏡が五人と一体分の変動を、晩餐後の揺れとして処理する。

 エリアが椅子の固定帯を細く切る。

 セレナは証羽の軸で荷重印の縁を削る。

 カイルが小盾を床と衣服の間へ差し込み、重さの方向を一瞬だけ横へ変える。

 ハルは右手で扉上の点検孔へ届く。

 左肩は使わない。

 腰索を椅子へ。

「一、二、三」

 身体を上げる。

 点検孔の留め金を外す。

「開いた」

「あなたは方向以外の扉に強い」とエリア。

「扉はそこにいるから」

「道もいます」

「逃げる」

「あなたからだけ」

 ハルが笑いかけ、途中で止める。

 いつもの掛け合いが、いつもの場所へ戻ろうとする。

 戻していいのか分からない。

 エリアも気づく。

「今は」と彼女。「救助を優先する」

「計画じゃなく?」

「あなたが拒否したから」

「本当に拒否していいと思ってた?」

「……書かれた時は」

「今は」

「助かった」

 正直すぎる。

 ハルは点検孔へ入る。

「あとで聞く」

「受領」

「その言葉、やめて」

 エリアが息を止める。

「分かった」

「今はそれで」

 留置室の外は、牢獄ではなかった。

 事務区画だった。

 机。

 棚。

 眠気を追うための苦い茶。

 家族の小さな絵。

 壁へ貼られた勤務表。

 人を閉じ込める場所は、鉄格子ばかりではない。

 明日も同じ席へ来なければ、家族の居住登録が止まる机も、人を囲う。

 警報が鳴ると、職員は机の下へ入った。

『侵入者六。未固定小獣一。全区画、資産保全姿勢』

「資産って何」とハル。

 机の下の女が答える。

「帳簿。印章。私たちは避難順位三」

「一と二は」

「原簿。封印物」

「人が三?」

「職員は勤務保証で補填可能」

「死んだら代わりを雇う?」

「遺族へ保証金」

「本人は」

「死亡時には受領できません」

「当たり前を規則みたいに言うな!」

 ハルの声が低くなる。

 机下の子どもが泣いた。

 職員の家族。

 勤務時間中、保育区画が封鎖され、親の机へ連れてこられている。

 ハルはすぐ声を下げる。

「ごめん。君に怒ってない」

「誰に」と子ども。

「今は規則」

「規則、ここにいない」

「そうなんだよ」

 怒りの相手が部屋にいない。

 だから人へ当たりやすい。

 ハルは膝をつく。

「名前、言いたくなければ言わなくていい。ここから出たい?」

 子どもは母親を見る。

 母親は胸札を握る。

「出れば、勤務離脱」

「残れば」とエリア。

 天井の赤灯を指す。

「資産保全姿勢では、次の回転で区画が封鎖されます。警備が侵入者へ風圧弾を使えば、ここは逃げ道がない」

「封鎖時間」とセレナ。

「三分」と職員。

「解除権限」

「収庫監」

「今、どこ」

「試験室か機関室」

「では、残る危険も説明済みです」とセレナ。

「出た後、家族登録は」と母親。

「保証できません」

「王太子が」と別の職員。

 カイルが首を振る。

「ここを王国領と認める命令は出せない。仮に出しても、今の俺は単独軍令権停止中だ」

「王子なのに」

「王子だから、できないことをできると言わない」

「なら助けにならない」

「そうだ」

 カイルは認める。

「だが、出るなら名前と家族登録を二か所へ同時記録できる。セレナの証羽と、自由港の共同保管会。要塞だけで消せないようにする」

「王国は守る?」

「審査を要求する。守ると断言はしない」

「弱い」

「嘘よりは」

 職員たちは迷う。

 脈見鏡があれば、その迷いを不正の証拠にしただろう。

 ここでは、迷う時間を選択の一部として待つ。

 封鎖まで二分半。

「急がせない?」とハル。

「時間は伝えます」とエリア。「でも沈黙を同意にも拒否にも扱わない」

「待って死んだら」

「それも私たちだけで決めない」

 子どもが机下から出る。

「私は出る」

 母親が腕を伸ばす。

「待って」

「聞いた」

「怖いの」

「ここも」

 母親の顔が崩れる。

 子どもに、自分の恐怖を判断させたくない。

 だが本人抜きで安全を決めることもできない。

「一緒に出る」と母親。

「登録」

「止まるかもしれない」

「ごはん」

「分からない」

「じゃ出た後、探す」

 子どもは簡単に言う。

 簡単だから正しいのではない。

 難しくして動けなくなる大人より、今は先へ進める。

 一人が出る。

 二人。

 残る者もいる。

「帳簿を守る」と年配の職員。

「命より?」とハル。

「この帳簿に、返してほしい人の名もある」

「持って出る」

「持ち出せば私が盗人になる」

「残ったら」

「封鎖扉の内側に避難室がある。私はそこへ」

 エリアが図面を確認する。

「避難室の耐風時間、二十分。外部解除口あり」

「本当に残る?」とハル。

「残る」

「分かった」

「説得しないのか」

「したい。でも、助けるって名前で連れていかない」

 職員は少し驚く。

「外部解除口の位置だけ教えて」とハル。「後で開けに来るかもしれない」

「戻る約束?」

「できるなら戻る。できなければ、外へ位置を送る。絶対は言わない」

「弱い約束」

「破らないように弱くした」

 職員は解除口の番号を教える。

 セレナが記録する。

 封鎖まで一分。

 出る者六。

 残る者四。

 子ども二。

 エリアは短い路図を三本描く。

「選んで。左は最短、段差二。中央は幅が広い。右は監視鏡の死角ですが、床が二回変わる」

「どれが安全」と母親。

「あなたが子どもを抱くなら中央。子どもが自分で走るなら左。右は追跡を避けたい場合」

「決めて」と母親。

「決めません」

「時間が」

「だから条件を短くします。抱く、歩く、隠れる」

 子どもが言う。

「歩く」

「左」と母親。

「決まり」とハル。

 全員が動く。

 カイルが最後尾。

 セレナが残る職員の避難室扉を確認。

 ノクスは子どもの足元を走り、不安を消す役を勝手に選ぶ。

 封鎖扉が落ちる。

 その直前、ハルは残る年配職員へ叫ぶ。

「名前!」

「何のため!」

「戻れなかった時、番号じゃなく伝える!」

 職員は一拍迷う。

「オウド!」

「オウド! 解除口七!」

 扉が閉じる。

 名前が、外へ残る。

 避難者を通信鐘室へ向かう路へ送り、ハルたちは再び中心軸へ入った。

「金庫へ行く時間、減った」とカイル。

「捨てた」とハル。

「本当に?」

「本当に」

「ミラが裏切っていなかったら」

「それでも、今の人を置いて金庫へ行ったことにはなる」

「裏切っていたら」

「ミラを助けるかは、別」

「怒りと救助を分けるのか」

「混ぜると、怒ってる人は助けなくていいことになる」

 カイルは冗談を言わない。

「難しいな」

「うん」

「お前が言うと珍しい」

「王子の冗談が少ないのも」

「怖いからだ」

「正直」

「今、鏡がない」

 エリアは二人の前を歩く。

 淡緑線が少しだけ揺れる。

 踵ではない。

 ハルへ隠した判断の重さ。

 彼はまだ聞かない。

 助ける人と、問い詰める相手を、今は分ける。

 点検路の先で、二つの道が分かれた。

 左。

 量札原簿庫。

 右。

 風盗試験室。

 エリアの記憶地図では、原簿庫の先に王獣鈴の欠片。

 今なら警備がミラの査定へ集まっている。

「目的物へは左」とセレナ。

「拒否した」とハル。

「撤回も可能です」

「しない」

「理由」とカイル。

「左へ行けば、ミラを置いていく」

「裏切ったと思っているんだろ」

「思ってる」

「ならなぜ」

「助ける人を選び直した」

「ミラを?」

「ミラも」

「も」

「試験してる職員。留置されてる人。外の船。俺たち」

 ハルは右を指す。

「物は待てる。人は、待たせた時間が痛くなる」

「記録を待つ人もいる」とセレナ。

「分かってる」

「それでも」

「今、右」

 セレナは証羽を畳む。

「選択を記録します。正当化はしません」

「ありがとう」

「感謝の記録は任意です」

「じゃ書かないで」

「記憶します」

 カイルが靴下のまま右へ進む。

「王族の脱獄姿として最低だ」

「靴、取りに戻る?」

「物は待てる」

「王子、学んだ」

「代わりに足裏が痛い」

 エリアは踵、三と申告する。

「道、短くする」と彼女。

「自分のため?」

「全員のため。私も含む」

「受領――じゃなく、分かった」

 淡緑の線が、右の点検路へ一本だけ伸びる。

 金庫から離れる道。

 怪盗計画から外れる道。

 ハル自身が選んだ道である。

 その先から、七度目の蓄勢音が響いた。

 そして一か所だけ、あり得ないほど冷たい風が、彼らの頬を撫でた。