第209話 第九章「本物の裏切り顔」前編
作戦には、時計が必要である。
何をするか。
誰がするか。
どこまで失敗したらやめるか。
この三つだけでは、人は勇敢さを競い始める。
あと一歩。
もう一拍。
自分だけなら。
歴史上、多くの全滅は、退却命令がなかったために起きたのではない。
退却命令を出す時刻が、誰にも決められていなかったために起きた。
英雄は最後まで残る。
生存者は、最後の少し前に帰る。
怪盗にも同じことが言える。
盗む品より先に、帰る時刻を決めなければならない。
風盗試験室の扉は、内側から開いた。
ミラが開けたのではない。
脈査官が、廊下の警報を確認するために半身を出した。
ノクスがその足元を抜ける。
二本尾が、白い手袋へ触れた。
脈査官は驚いて手を上げる。
扉がもう半分開く。
ハルが隙間へ右足を入れた。
「閉めるな!」
「侵入者!」
「知ってる!」
秤杖が脇腹へ来る。
カイルの小盾。
杖先だけを上へ弾く。
「王盾使用、局所」とセレナ。
「今も記録するのか!」
「後で『全身を燃やした』と誤解されないためです!」
「景気が悪いが助かる!」
ハルは扉を押す。
左肩は使わない。
腰を入れる。
右腕。
両脚。
扉は重い。
エリアの路図が、力を入れる角度を足元へ描く。
「右へ半歩。押すのでなく、回転へ乗せて」
「扉も動く壁!」
「運ばないで!」
「何を!」
「自分を!」
ハルが笑う。
怒っていても、笑える。
笑えることと、許したことは別である。
扉が開く。
中へ飛び込む。
七枚の白帆。
銀の鏡。
床へ片膝をついたミラ。
「助けに来た」とハル。
ミラは顔を上げる。
「契約上は」
「知らない」
「拒否した?」
「した」
「なら何で」
「助ける人に入れた」
「値段」
「今それ言う?」
「言わないと」
「借りになる?」
ミラは答えない。
ハルは試験固定帯へ手をかける。
「触る」
「受領」
「その言葉も今は嫌い」
「分かった」
ミラが言い直す。
ハルの手が一瞬止まる。
止まっただけ。
帯を外す。
ミラの義足接合部は赤い。
右膝が震えている。
「痛み」
「接合部三、右膝二、腰二」
「歩ける?」
「短距離」
「走る?」
「風で」
「七まで」
「七まで」
脈見鏡の縁が青い。
今の答えに迷いはない。
収庫監が試験室の反対側へ下がる。
「拘束せよ」
白手袋の職員が四人。
セレナが前へ出る。
「この試験は契約範囲を越えていませんか」
「七単位で停止した」
「対象者が拒否した八を追加しようとした記録があります」
「安全確認」
「拒否後に実施していれば強制です」
「実施していない」
「では停止を」
「侵入者がいる」
「侵入者への対処と、試験対象の身体拘束を分けてください」
「同一事件だ」
「あなたが一括しただけです」
言葉が足を止める。
セレナは敵を説得していない。
職員たちへ、自分が何をしているのか分けさせている。
一人が秤杖を下ろす。
「試験対象の固定は解除済み」とその職員。
「監督官!」と収庫監。
「記録上です」
「侵入者へ協力するのか」
「記録を訂正しました」
制度の中で働く者は、制度を壊すより先に、正確に書くことで抵抗することがある。
小さい。
遅い。
それでも歴史は、そういう一行から曲がる。
「退路!」とエリア。
淡緑の線が試験室の天井へ走る。
今は天井。
八秒後には壁。
ミラが帆刃を投げる。
刃側ではない。
湾曲帆が天井の換気輪へ掛かる。
「全員、同じ速度へ!」
彼女が床の回転から勢いを少し盗る。
「蓄勢一!」
試験室の床が一拍遅くなる。
ハルたちは自分から回転方向へ走る。
扉が壁になる。
壁が床になる。
カイルは靴下のまま滑る。
「靴!」とハル。
「留置室だ!」
「取りに戻る?」
「物は待てる!」
「学習継続!」
「足裏は待てない!」
ミラの風鈴が一つ鳴る。
彼女は笑っている。
ハルは笑わない。
彼らは通信鐘室へ戻った。
職員十二人のうち、七人が残っていた。
五人は家族登録の暫定写しを受け、点検路から避難を始めている。
外では、参加を選んだ船の限界値が次々と送られてくる。
『《錆びた昼寝》、主帆五・八。左補助三・一。修理痕二か所』
『旧艦七番、無人。帆骨四・二。人員なし、破損時切り離し可』
『ゼロスター仮設一、六・二。二、五・八。三、六・四――』
「数字が飯より多い」とハル。
「今食うな」とロロ。
「食べてない」
「なら話を増やすな!」
床へ立体路図。
台風を三十六の風区画へ分ける。
船は四十一本まで減った。
撤退二。
帆裂け一。
通信不良二。
エリアが各帆の限界へ到達する時刻を描く。
「同じ量は入れない。同じ瞬間へ着かせる」
「何秒」とミラ。
「現状、最長七秒差」
「使えない」
「分かっています」
「言い方」とハル。
「事実」とミラ。
「エリアは分かってる」
「だから短く言った」
「短いのが全部正しいわけじゃない」
ミラは彼を見る。
正面からではない。
少し斜め。
「怒ってる?」
「今聞く?」
「後にする?」
「作戦説明で消すつもりなら、今」
通信鐘室が静かになる。
ロロの四本の補助腕だけが動き続ける。
職員たちは別の机へ下がる。
ジルの声も、鐘の向こうで待つ。
エリアが口を開く。
「私から」
「ミラから」とハル。
「私も決めた」
「知ってる。あとで聞く」
彼はミラを見る。
「裏切った?」
「敵へ渡ったのは演技」
「契約書」
「餌。黒い所がない偽契約」
「俺が書いた拒否権」
「本物の原本に残ってる。セレナの証拠箱、ゼロスター、船団の三部」
「敵へ渡した方には」
「敵側へ移ったら拒否無効、と書いた」
「俺が嫌がったこと」
「餌にした」
「何のため」
「敵に、私が全員の帰路を売れると思わせるため。風盗の上限を七と思わせるため。私を試験室へ入れて、台風機関の蓄勢管へ触らせるため」
「俺の反応は」
ミラは、値段を言わない。
「使った」
「知らない方が本物だから?」
「そう」
「信用してたから?」
「違う」
ハルの目が少し上がる。
ミラは続ける。
「『信用してたから任せた』って言えば、私たちがしたことを褒め言葉へ変えられる。違う。私は、あんたが本当に傷つくと知って、その顔を使った」
風鈴が鳴らない。
「必要だった、とも今は言わない。別の方法を最後まで探した。見つからなかった。だから、あんたへ聞かずに選んだ」
「俺が拒否権を書いたから?」
「救助へ移れる。計画を捨てられる。私を助けなくても違約にならない。そこは本物」
「助けに来るって思った?」
「分からなかった」
「来ると思ってたなら、それも使った」
「来ない可能性を残した」
「同じじゃない」
「同じにしない」
ミラは言葉を一つずつ置く。
「私は、あんたの本物の怒りを使った。作戦が成功しても、それは消えない。金で払えないなら、払ったことにしない」
「謝る?」
「ごめん」
「短い」
「長くすると説明へ逃げる」
「じゃ説明なし?」
「説明はする。謝罪の代わりにしない」
ハルは羅針盤の蓋へ触れる。
一度。
二度。
三度目は鳴らさない。
「今、許さない」
「分かった」
「作戦には参加する」
「何で」
「俺が決めたから」
「信用?」
「違う。条件を全部聞いて、今の俺が選ぶ」
「条件を出す」
「黒い所なし」
「なし」
エリアが立体路図の一部を閉じる。
「私も」
「あとでって言った」
「作戦条件に関わる責任だけ今言う」
ハルは待つ。
「私は、あなたの拒否権があるから、本人抜きでも選択が残ると考えた。誤りです。拒否できることは、知らされない役を割り当てていい理由にならない」
「うん」
「今後、本人へ共有できない役は、最初から役割欄へ置かない」
「今後の話、決めるの早い」
「提案」
「保留」
「受け取ります」
「その言い方は」
「……分かった」
ハルは地図へ向き直る。
怒りは残る。
残ったまま、仕事をする。
人間関係は、壊れたら全ての機能が止まる機械ではない。
会話できる。
協力できる。
笑えない。
同時に起こる。