第213話 第十一章「契約外の帰還」前編
金庫の中には、金がある。
そう考える者は、金庫を作る側の想像力を高く見すぎている。
王の金庫には、王が失いたくない物がある。
商人の金庫には、商人が他人へ見せたくない数字がある。
役所の金庫には、役所が「保管している」と言い続けるための記録がある。
金より重いのは、権利である。
金は使えば減る。
権利は、誰が持っていると書くかによって、他人の生活を減らせる。
永遠に回る徴税要塞の金庫には、三百年分の「誰の物か」が入っていた。
そして、その大部分は、持ち主本人へ一度も見せられていなかった。
円扉が開いた時、ミラは最初に宝石を見なかった。
宝石はなかった。
見えたのは棚である。
円形の壁へ、何千段。
薄い台帳。
量札の束。
樹脂筒。
封印箱。
金庫全体が一つの巨大な回転書架になっていた。
床はない。
中央に細い空洞。
棚が外周を回り、必要な記録だけが作業台の前へ来る。
「足場」とセレナ。
「今作る」
ミラは帆刃を円扉の内側へ掛ける。
湾曲帆が残った風を受け、三人の身体を中央軸へ寄せる。
パルは六本指で入口索を握る。
「揺れる」
「怖い?」とミラ。
「聞く値段」
「無料」
「じゃ答えない」
「高くする?」
「怖い。でも行く」
「受領」
パルが眉を寄せる。
「その言葉、ハル嫌い」
「私の言葉」
「今だけ?」
ミラは答えず、作業台へ飛ぶ。
義足が着く。
接合部、三。
右膝、三。
腰、二。
風鈴は全て聞こえる。
「時間」とセレナ。
「八十八秒」
「計画は九十」
「入口で二秒使った」
「正確」
「値段が付くから」
「何の」
「失敗に」
セレナは黒い証羽を出す。
「対象を限定します。不当留置一覧に一致する量札原簿。共同保管物の封印箱。要塞職員の家族登録を人質化している連結記録。その他の私的記録は閲覧しない」
「父の署名」と外通信のハル。
声が索を伝ってくる。
「銀器補修記録の該当頁だけ現状複写。本人性は未確認」とセレナ。
「見つかったら、字をそのまま。名前を足さないで」
「承知」
「あと」
「何です」
「もし父さんじゃなさそうでも、隠さないで」
「当然です」
「当然じゃない人もいる」
通信の向こうで、一瞬静かになる。
エリアがいる。
「聞こえています」と彼女。
「言った」
「分かっています」
「今はそれで」
ミラは時間輪を見る。
「八十秒。痴話喧嘩は外で」
「違う!」と二人同時。
「心拍鏡があれば測れた」
「ない!」
「残念」
「ミラ、仕事!」
「してる」
言葉の速さで、少しだけ恐怖を薄める。
作業台の照合盤へ、パルが首の布を外して見せた。
焼印。
かすれた数字。
旧運送組合の積荷分類。
照合盤が青く光る。
『灰風便・無名小口・生体六』
パルの顔が動かない。
「六」と彼女。
「六人?」とミラ。
「六番?」
「断定しないで」とセレナ。
盤の下から、薄い樹脂頁が出る。
『生体小口六』
『年齢推定 五』
『右手指数 六』
『受取先 欠落』
『運送費未払い』
『所有権 輸送業者へ暫定移管』
人の特徴が、荷物の識別へ使われている。
六本指。
年齢。
首の印。
名前はない。
「これ、私?」とパル。
「一致する特徴はある」とセレナ。「本人だと確定するには、当時の移送経路、負傷記録、他の五件との比較が必要です」
「他の五人、いる?」
「同じ束に記録がある可能性」
「見る」
「時間」
「見る」
ミラは残りを数える。
六十八秒。
欠片。
量札原簿。
家族登録。
父の補修頁。
全部は取れない。
「パル」とミラ。
「何」
「見るなら、他を捨てる」
「どれ」
「私が決めない」
「欠片は」
「共同保管物」
「台帳」
「自由港の人が待ってる」
「家族」
「職員が逃げられない理由」
「父」
「ハルが待ってる」
「私の記録」
「パルが待ってる」
どれも人である。
紙の形をしているだけ。
パルは樹脂頁を両手で持つ。
六本目の短い指が震える。
「全部の名前、ない?」
「まだ分からない」とセレナ。
「ないなら、持って帰っても名前にならない」
「調べれば」
「調べる。でも今、全部持たない」
パルは自分に該当する可能性のある頁だけを複写台へ置く。
「私のだけ、写す。原本は残す。他の五人の束番号、写す。後で、本人か家族か、調べる」
「持っていかなくていいの?」とミラ。
「取ったら、私が持つ側になる」
「一時保管」
「みんな、一時って言う」
パルは自分で決める。
「写し。原本は、誰にも消させない印」
「証拠封印を付けます」とセレナ。
黒い証羽が原本の位置、傷、文字を記録する。
「時間、五十九秒」
量札原簿は、棚の十一段目だった。
自由港ヴェイン。
旧港区。
無登録居住船。
救難費未払い。
所有記録保留。
一冊ではない。
四十七冊。
「全部は無理」とミラ。
「返還請求一覧と照合済みの十二冊」とセレナ。
「他は」
「位置を記録。封印。第三者立会いを要求」
「要塞が消す」
「今の要塞が再稼働できれば」
「再稼働させるの?」
「人を避難させ、原本を保全するために必要な最低限」
「盗みに来て、直して帰る?」
「証拠を燃やす怪盗は、犯人側です」
「景気悪い怪盗」
「評価は任意です」
十二冊を布箱へ。
四十七冊のうち、十二冊だけ。
少なすぎるように見える。
盗みに来た者が、目の前の悪事を全部さらわないのは臆病にも見える。
しかし記録は、宝石と違う。
宝石を一つ余計に持ち出しても、秘密を読まれる者は増えない。
台帳を一冊余計に開けば、事件と関係のない誰かの病歴、借金、家族、逃げた日、偽名を選んだ理由まで、勝者の手へ渡る。
権力から記録を奪う者は、自分が次の権力になる可能性を同時に引き受ける。
「十二冊の選び方」とパル。
「返還請求が既にあり、本人または本人が選んだ代理の照合印があるもの」とセレナ。
「声出せない人は」
「今回の持ち出し対象から外れる可能性があります。だから残りを消させない」
「持たないと、助けないは違う?」
「はい。位置を封印し、第三者が来るまで動かせなくする」
「第三者、正しい?」
「分かりません」
セレナは迷わず言う。
「正しい者を一人探す制度ではなく、間違いを一人で確定できない手続きを作ります」
「遅い」とミラ。
「速い奪還は、速い再没収にもなります」
「じゃ、怪盗は何をする」
「扉を開ける」
「中へ入らない?」
「入る範囲を決める」
ミラは四十七冊を見上げる。
全部を盗めれば、怪盗としては派手である。
十二冊しか持たないのは、地味で、説明が長く、褒められにくい。
「景気悪い」と彼女。
「評価は任意です」
「さっき聞いた」
「必要なので繰り返しました」
「繰り返し禁止」
「悪事が繰り返される限りは」
パルが十二冊目の角へ、自分の結びを付ける。
「これは、持つためじゃない。誰が持って出たか、あとで分かるため」
「責任札」とミラ。
「値段札じゃない」
「似てる」
「違うから付ける」
十二冊を、入口索へ分散する。
誰か一人の腰へは集めない。
返す記録を運ぶ段階から、持つ者を一人にしない。
ミラは持たない。
風盗を使う身体へ重量を足さない。
パルが持つには重すぎる。
セレナの腰へ分散。
入口索へ吊るす。
「家族連結」とミラ。
照合盤へ、通信鐘室の番号札を入れる。
樹脂筒が出る。
『勤務保証連結簿』
職員が退職、逃亡、規則違反をした場合、家族の居住登録を停止。
記録上は「保証終了」。
追放とは書かない。
住めなくなるだけ。
「複写」とセレナ。
「原本は」
「持ち出せば、要塞側が連結を否定する可能性。現状封印と同時複写」
「一つの記録を二つにして、嘘をつけなくする」
「完全ではありません」
「完全じゃなくてもやる」
「はい」
残り四十三秒。
王獣鈴の欠片は、最上段にあった。
封印箱三重。
一つ目、税務要塞。
二つ目、旧王国。
三つ目、来歴不明。
「私たちの封印と違う」とセレナ。
「押収時に外された」とミラ。
「共同保管封印の破壊痕を記録」
「開ける?」とパル。
「箱ごと」とミラ。
「重い」
「扉へ送る」
帆刃を細く開き、箱の勢いを少しだけ盗る。
重さは変わらない。
動き出す時の勢いだけを小さくする。
押す。
箱が中央空洞をゆっくり滑る。
「残り三十四秒」
「補修記録」とハルの声。
「忘れてない」とミラ。
銀器補修簿。
十九年前。
棚は、円扉から最も遠い側へ回っている。
「待てば来る」とセレナ。
「待つ時間、二十一秒」
「離脱まで残り三十二」
「取ったら十一」
「戻れる?」とパル。
「予定では」
「予定、今まで何回壊れた」
「数えてない」
「ミラなのに?」
「数えると高い」
外通信。
「置いてきていい」とハル。
ミラが返す。
「見たいんだろ」
「見たい。でも、帰るのが先」
「十九年待った」
「俺は十五」
「父親が」
「父さんか分からない」
「じゃ」
「分からない物のために、三人を待たせたくない」
ハルの声は震えていない。
震えないように、短い。
「位置だけ記録。後で合法に要求する」と彼。
「合法に?」
「セレナが好き」
「私は法そのものではありません」とセレナ。
「今はお願い」
「該当棚の位置、回転周期、頁番号を記録します」
ミラは棚を見送る。
その時。
補修簿の端が、回転の衝撃で半分開く。
一枚の薄紙が外へ出た。
偶然。
風がない金庫内で、紙は落ちない。
棚と同じ速度で浮く。
ミラの目の前を通る。
『外来修理者 凪――ギノ・ 』
姓は裂けている。
圧痕。
強い。
弱い。
最後に強い。
「見えた」とミラ。
「何が」とハル。
「名の一部。凪に見える一字。次が裂け。末尾ギノ。署名圧三。姓は確定不能」
通信の向こうで、息。
「写せる?」
「近い」
「時間」とセレナ。
「二十二秒」
「一枚だけ」
セレナが証羽を向ける。
見たまま。
黒い線。
裂けた部分は黒く塗りつぶさない。
空白として残す。
「複写完了。父親本人との同一性は未確認」
「うん」
「戻ります」
「うん」
ハルの二度目は、少し幼い。