第214話 第十一章「契約外の帰還」後編
残り十八秒。
三人が円扉へ向かう。
入口索に量札原簿十二冊。
家族連結簿の複写。
パルの記録。
王獣鈴の箱。
台風が再加速を始める。
金庫棚が一度、逆へ揺れる。
パルの足が作業台から離れる。
「パル!」
ミラは右手を伸ばす。
届かない。
帆刃を投げる。
湾曲帆がパルの腰索へ絡む。
勢いを盗る。
「蓄勢一!」
自分の義足へ入れる。
右膝、四。
「縮小!」とセレナ。
「今!」
「契約条件!」
「パルを止める!」
「止めた後、使用中断!」
「分かった!」
ミラはパルを作業台へ戻す。
風術を切る。
右膝が崩れる。
セレナが左側から支える。
「触れます」
「分かった」
「言い換えが雑」
「今は値引き」
「謝罪ではありません」
「知ってる」
残り十一秒。
円扉の外へ、単独脱出艇が待っている。
小さい。
三人と箱で限界。
「乗る!」
パル。
セレナ。
箱。
ミラ。
量札箱を船尾へ固定。
ミラが操舵輪を握る。
扉が要塞外壁へ隠れ始める。
「離脱!」
小艇が飛び出す。
一秒。
台風の返流が来る。
全帆へ預けた勢いが空へ戻る時、完全に元の場所へ戻るわけではない。
道の遅れ。
熱損失。
切れた帆。
余った勢いが一つの塊になり、金庫の外周を叩いた。
白い衝撃。
単独艇の左翼が折れる。
「翼損傷!」とセレナ。
「見れば!」
「記録!」
「今は直せない!」
小艇が回る。
操舵不能。
要塞外壁と金庫の間へ吸われる。
ミラは帆刃を開く。
右膝四。
風術中断条件。
使えば五へ行く。
「使わない」と彼女。
「代替」とセレナ。
「ない」
「救助索」とパル。
円扉の外、ハルが握っていたはずの索。
今は見えない。
要塞の回転壁が間に入った。
通信も切れる。
単独艇が黒い外壁へ近づく。
「衝突まで八秒」とセレナ。
「箱を捨てる?」とパル。
「捨てない」
「人命優先」
「箱が当たれば私たちも死ぬ。外へ投げる」
「記録は」
「索へまとめる」
ミラは原簿箱と王獣鈴箱を一つの救難索へ結ぶ。
「三で投げる。私たちは反対へ」
「勢い保存」とセレナ。
「授業は後」
「事実確認」
「一、二――」
外壁から深紅の火が伸びた。
カイルの盾。
巨大ではない。
小艇の船首がぶつかる場所だけ。
「三!」
箱を投げる。
小艇が反対へずれる。
深紅の盾へ斜めに触れ、衝撃を滑らせる。
機体は壊れる。
三人は外へ投げ出される。
ミラの腰索へ、白い綱が飛んでくる。
ハル。
自分の身体を要塞外壁へ腰で固定し、右手だけで投げた。
左手は添えない。
「つかめ!」
ミラがつかむ。
パルはセレナの索。
セレナは証拠箱と自分を一本ずつ。
「契約にない!」とミラ。
「知ってる!」
「戻る義務ない!」
「俺の役、救助路保持!」
「単独艇が壊れたら撤退!」
「だから救助!」
「私を置けば、外の船は帰れる!」
「置くかは俺が決める!」
「勝手!」
「ミラに言われたくない!」
ハルが索を引く。
左肩を使わない。
腰索を要塞の回転へ巻き、動く壁に引かせる。
ミラの身体が外壁へ寄る。
別方向から、淡緑の道。
エリアが要塞外へ短い路図を描いている。
「右へ二歩!」
「誰の!」とハル。
「ミラの!」
「片脚分?」
「今聞く!?」
訓練と同じ言葉。
今度は笑えない。
それでも身体は覚えている。
ハルが索を二歩右へずらす。
ミラの義足が壁の継ぎ目を避ける。
カイルの盾が次の衝撃を受ける。
ロロの補助腕が点検口から伸び、パルを先に引き入れる。
「六本あるからって両手でつかむな!」
「便利?」
「便利!」
「じゃ使う!」
「本人が決めたならいい!」
セレナ。
原簿箱。
王獣鈴箱。
最後にミラ。
点検口へ入る。
右膝が床へ着く。
風鈴が乱れて鳴る。
「痛み」とセレナ。
「右膝四、接合部四、腰三」
「中断」
「してる」
「確認」
ハルが点検口の外から戻る。
左肩、三。
本人より先にエリアが見る。
「肩」
「三」
「固定」
「帰ってから」
「今」
「まだ職員が」
通信鐘室の避難者。
試験室の職員。
収庫監さえ、台風機関室に残っている。
「全員で帰る」とハル。
言った直後、要塞全体が一度だけ、回転とは違う方向へ揺れた。
床が傾いたのではない。
床を床として支えていた歯が、一列抜けた。
遠くで金属が落ちる。
続いて、赤い非常灯。
『外壁支持輪、第三列離脱。台風返流、機関室へ逆流』
無機質な放送が、壊れかけた声で繰り返す。
「全員って、何人」とパル。
セレナが点検区画の名簿を開く。
「通信鐘室七。試験室三。避難室四。機関室、確認済み二、不明一」
「職員十七」とロロ。「こっち八。証拠箱四。船の余剰席、足りねえ」
「席ではなく、路を増やす」とエリア。
淡緑の地図が三本、回転壁へ走る。
「短路は機関室を通る。熱と落下危険。中路は職員避難室へ。幅はあるが、二十七秒後に壁。長路は外壁整備索。風圧が高い」
「誰をどこへ」とハル。
「決めません。身体条件を聞く」
「時間」
「短く聞く」
イーサが職員たちを連れてくる。
白手袋を外した者。
まだ付けている者。
胸札を裏返した者。
「歩ける人」とエリア。
十一本の手。
「走れない人」
三本。
「高熱が難しい人」
五本。
「外壁へ出るのが怖い人」
最初は誰も上げない。
ハルが言う。
「怖いは、行けないと同じじゃない。言ったら外されるって意味でもない」
手が二本。
少しして、イーサも上げる。
「三人。中路。走れない三人も中路。残りは、短路か長路を本人選択」
「収庫監は」とカイル。
「機関室」とイーサ。「最大徴収輪を戻していません」
「助けるの」とミラ。
声は平らだが、風鈴が一つ遅れる。
彼女の左脚を奪った船長も、最後には「規則を守った」と言った。
「助ける」とハル。
「私たちを売ろうとした」
「裁くのと、生きて連れて出るのを分ける」
「生きてたら、また取り立てる」
「その時止める」
「面倒」
「死なせれば簡単?」
「……安すぎる」
ミラは壁へ手をつき、立とうとする。
右膝が落ちる。
パルが横へ来る。
「触る?」
「どこ」
「腰帯。私とロロの台車へ乗せる」
「乗らない」
「歩く?」
「短距離」
「今の距離、長い」
「値段」
「保存食一」
「高い」
「じゃ無料」
「もっと嫌」
「半分」
「食べかけ?」
「一瓶を二人」
「成立」
パルは、ミラが頷いてから腰帯へ触れる。
ロロの工具台車へ座らせる。
王獣鈴箱ではない。
量札原簿でもない。
人が先。
「俺の工具を椅子に!」
「物は待てる」とハル。
「工具は後で仕事する!」
「ミラも!」
「比較が雑!」
ロロは怒鳴りながら、工具箱を自分の四本腕へ分けて持つ。
その時、通信鐘の向こうからジル。
『外の船は、離脱路を作る。中へ戻る義務は契約にねえ。戻る奴だけ言え』
「俺」とハル。
「理由」とジル。
「救助路を保持すると自分で選んだ」
「私は地図を閉じていない」とエリア。
「罪滅ぼしか」とジル。
「違います。罪滅ぼしを理由にすると、相手へ許す役を押し付ける。今は道を描く仕事」
「俺は盾を置く」とカイル。「王命ではなく、共同保管者の救命判断」
「俺は機関を止める」とロロ。「止めねえと、助けた後で全員焼ける」
セレナ。
「私は、救助された者と押収記録を別々に保全します。容疑者を助けたことは免責ではなく、証拠を持ち出したことは有罪確定ではありません」
『長え』
「必要です」
ノクスは工具台車へ飛び乗り、ミラの膝ではなく、前方へ二本尾を向ける。
「ノクスは」とカイル。
「翻訳しない」とハル。
それぞれが戻った理由は、秘密契約の追加条項ではない。
同じ理由ですらない。
だから、一人の気が変わっても全員の選択が崩れない。
中路組を先に送る。
イーサが先導する。
胸札を裏返したままでは、扉の勤務認証が通らない。
彼女は一度だけ止まり、胸札を表へ戻す。
「番号を使うの」とハル。
「扉を開ける間だけ。出た後、名札へ変える」
「利用される?」
「今は私が利用します」
白い扉が開く。
避難室七。
中には、年配職員オウドと、残ることを選んだ三人。
帳簿を抱えている。
「戻ったのか」とオウド。
「戻れるとは言わなかった」とハル。
「弱い約束」
「まだ破ってない」
オウドは帳簿を見下ろす。
「これを持って出れば、私は盗人だ」
「置くか、持つか、写すか」とセレナ。「今選べます」
「燃える」
「位置と外見は記録済み。原本を持つ理由も、置く理由もあります」
「正解は」
「ありません」
「星律官が言うのか」
「法は、正解があるふりをして人へ責任を押し付ける時があります」
オウドは帳簿を一冊だけ持つ。
「返還請求の名がある頁だけ。残りは棚へ」
「選択を記録」
「名前で」
「オウドとして」
全員が中路へ入る。
壁になるまで十九秒。
走れない者を中央。
走れる者が左右。
エリアは道を一本にせず、三列へ分ける。
「あと七!」
最後の職員が扉を越える。
廊下が九十度回る。
壁だった面へ、全員の靴が着く。
誰も落ちない。
短路組は機関室へ向かった。
熱が白い。
空気が焼け、視界の端が揺れる。
最大徴収輪は赤いまま半回転で止まり、台風から戻った勢いを機関内部へ押し込んでいる。
収庫監は輪の前にいた。
片手を操作盤へ置き、もう片方で封鎖レバーを握っている。
「停止しろ!」とハル。
「資産奪取者を逃がさない」
「職員も残ってる!」
「勤務者は要塞資産を守る義務」
「人を資産に入れるな!」
「保証対象だ」
「死んだ後の金を、生きてる今の代わりにするな!」
収庫監が封鎖レバーを引く。
カイルの小盾が、レバーと手の間へ入る。
「王命か」と収庫監。
「違う」
「では権限がない」
「盾を置くのに、あなたの許可はいらない」
「暴力」
「そうだ。だから後で審査を受ける。今は人が死ぬ」
操作盤が破裂する。
白い蒸気。
収庫監の身体が後ろへ飛び、手すりへ頭を打つ。
意識が落ちる。
「生体!」とセレナ。
「脈あり!」
「運ぶ」とハル。
「重い!」とロロ。
「役職が?」
「身体だ!」
カイルが上体。
ハルが腰帯。
左肩は使わず、右手と脚で持ち上げる。
「救助は、許したことじゃない」とハルは意識のない相手へ言う。
返事はない。
「聞こえない」とミラ。
「俺が忘れないため」
ロロが最大徴収輪の下へ潜る。
「赤管、閉める! 青管は戻す! 白は触るな!」
「違い!」とパル。
「赤を閉めれば熱停止! 青を急に閉めると帆へ返流! 白は要塞の重力、閉めたら全員が好きな方向へ落ちる!」
「最後、面白い」
「死ぬ面白さだ!」
ミラは台車から、機関の音を聞く。
風盗は使わない。
風鈴で、逆流の方向だけを告げる。
「青二、三拍後に跳ねる。右へ逃がして」
「確かか!」
「高音二。蓄勢じゃなく管鳴り」
「信じる?」とハル。
「音は」とミラ。「私より嘘が下手」
ロロが右弁を開く。
三拍後、青い勢いが管を走り、空の補助帆へ抜ける。
機関室の熱が一段下がる。
「止まった!」
「帰る!」
長路へ出る。
外壁整備索。
風圧は高い。
だが、外には三十五枚の帆が作った帰路がある。
契約上、戻る義務のない船が、一本ずつ索を投げてくる。
救助索は、報酬欄にない。
それでも結び目は、手へ届いた。
「契約外」とミラ。
「何回言う」
「値段が分からない」
「助けられた値段?」
「帰ってきた理由」
ハル。
エリア。
カイル。
ロロ。
ノクス。
職員たち。
誰にも、彼女を助ける追加報酬はない。
「借りにする」とミラ。
「嫌」とハル。
「返す」
「何で」
「借りだから」
「借りじゃないって言ったら」
「親切は後から値段が付く」
「俺は付けない」
「後で気が変わる」
「変わったら、その時言う。でも今の助けへ後から値段を付けない」
「契約?」
「違う」
「なら保証がない」
「ない」
ミラは息を詰める。
保証のない親切は怖い。
値段が見えない。
鎖になるかもしれない。
「どう処理すればいい」と彼女。
「処理しない」とパル。
「残る」
「残していい」
「気持ち悪い」
「水、半額にする?」
「今それ?」
「痛み言ったから」
「四。四。三」
「半額」
パルが水瓶を出す。
ミラは受け取る。
値段のある水。
値段のない帰還。
二つは同じにしなくていい。
「借りではなく」とセレナ。「謝意を表す方法があります」
「法的効果」
「通常ありません」
「危険」
「だから自由です」
ミラは水を一口飲む。
風鈴が一つ鳴る。
ハルを見る。
正面から近づかない。
その場で言う。
「ありがとう」
「うん」
「それだけ?」
「何か請求する?」
「しない」
「じゃ、それだけ」
ハルは許したとは言わない。
ミラも、感謝で許しを買おうとしない。
点検路の外では、台風が再び回っている。
だが金庫の扉は一度開いた。
記録は外へ出た。
何より、帰る義務のない人々が、自分の理由で戻ってきた。
契約書の外にも、道があった。