第215話 第十二章「二枚目の航路札」前編

盗んだ物を返すのは、盗むより難しい。

 盗む時、行き先は一つでよい。

 自分の手元。

 返す時、行き先は持ち主の数だけある。

 持ち主が死んでいる。

 名を変えている。

 家族へ見せたくない。

 共同で持ちたい。

 記録されたくない。

 返された物が、過去の傷まで連れてくる。

 正しい場所へ戻すという言葉は美しい。

 だが人の生活に、最初から「正しい場所」と書かれた棚はない。

 そのため自由港ヴェインは、台風金庫から戻った十二冊の原簿を、港役所の金庫へ入れなかった。

 金庫を奪った後、別の金庫を作るほど、歴史に忠実ではなかったのである。

「第一冊、共同保管」

「誰と誰の共同」とパル。

「返還請求者代表二名、居住船代表二名、港記録係一名、外部星律官一名」とセレナ。

「外部、ずっといる?」

「期限付きです」

「期限切れたら」

「別の外部者を選ぶか、選ばないかを再協議」

「港の偉い人が一人で開ける?」

「できません。鍵は五つ。三つ以上と、対象記録の本人または本人が選んだ立会人が必要」

「本人、登録ない」

「登録ではなく、記録内容との関連を本人の言葉、身体特徴、生活証言、複数資料から確認します」

「心拍鏡は」

「使いません」

「よし」

 自由港の共同倉庫。

 倉庫と言っても、元は三隻の小型船を横へつないだ建物である。

 一隻目は記録閲覧。

 二隻目は相談。

 三隻目は、何も決めず帰れる待合室。

 待合室には出口が二つ。

 正面の港路。

 裏の小艇桟橋。

 相談した事実を誰にも見られず帰りたい者のためである。

 量札原簿十二冊は、三隻へ分けない。

 分ければ、ある人の記録だけ別の船へ隔離される。

 原本は中央の揺れの少ない箱へ。

 複写だけを閲覧室へ。

「複写に間違いがあったら」とハル。

「訂正要求を原本へ貼る」とセレナ。「原本の字は消さない。間違いだった事実も残す」

「悪い記録、残す?」

「被害を受けた本人が封印を望む場合、公開は止めます。存在の有無、内容、検索、継承は別に扱う」

「全部一緒じゃない」

「一緒にすると、記録する善意が支配になります」

「今の、誰かに教わった?」

「事件からです」

「未来の人みたいな言い方」とロロ。

「現在の暫定規則です」

「暫定って付ければ何でも賢く聞こえる」とハル。

「暫定迷子」とカイル。

「それはいつも」

「恒久迷子」

「悪化した!」

 カイルは靴を履いている。

 留置室へ戻った救難班が回収した。

 片方の底へ白い荷重印が残り、歩くたび一歩だけ重い。

「直さないの」とハル。

「証拠保全中」

「王子、片足引きずってる」

「肋骨ではないと分かって便利だ」

「冗談二」とエリア。

「もう尺度へ入れるな」

 エリアの両踵は冷却靴。

 歩行は短距離。

 路図の連続展開は休止中。

 ハルの左肩は再固定されている。

 医師の診断では、悪化ではなく強い筋疲労と軽い炎症。七日間、艇外作業禁止。日常動作は二日後から段階的に。

 ミラは右膝へ硬い固定帯。

 義足の接合部は新しい布へ交換。

 三日間、風盗は蓄勢二まで。

 誰も事件が片づいたから急に治るわけではない。

 時間は、傷を治す。

 物語の都合ほど早くはない。

 パルの記録は、閲覧室の一番奥へ置かれた。

 彼女自身が選んだ。

 樹脂複写。

『灰風便・無名小口・生体六』

 首の焼印と一致する可能性。

 右手指数六。

 年齢推定五。

 本人性、未確定。

「名前、付け足さない」とパル。

「パルという現在名を関連情報へ書くことはできます」とセレナ。

「原本の空欄に?」

「いいえ。別紙へ」

「別なら」

「公開範囲」

「私と、私が選ぶ人」

「選び直し」

「いつでも」

「他の五件」

 パルは少し考える。

「束番号だけ、調べる人へ見せる。名前が見つかっても、勝手に私へ教えない」

「知りたくない?」とハル。

「今は、知らない」

「怖い?」

「怖い。あと、高い」

「何が」

「知った後にすること」

 五人が生きていれば、会うのか。

 死んでいれば、弔うのか。

 家族と呼ぶのか。

 同じ船に積まれただけの他人なのか。

 知識には、後払いの値段がある。

「今は払わない」とパル。「でも、記録を捨てない」

「保留」とハル。

「私の」

「返す」

「利息」

「今の一回」

「成立」

 パルは六本指で、複写袋へ自分の結びを一つ作った。

 王獣鈴の欠片は、三重封印へ戻された。

 セレナ。

 カイル。

 自由港側代理。

 自由港側には、一人を置かない。

 ジルと、パルと、原簿返還会の三者結び。

「子どもを代理へ入れるのは」と港役人が言った。

「私、何歳なら自分の記録持てる」とパル。

「規定では十五」

「じゃ十五まで、誰の物」

「後見」

「選んでない」

「保護のため」

「先に聞け」

 港役人は、学院にいるマオを知らない。

 同じ言葉が、違う場所で必要になる。

「では」と彼。「本人代表として、発言権。封印鍵は成人の共同――」

「鍵、持ちたい」

「紛失の危険」

「大人もなくす」

「責任能力」

「なくしたら、私が困る。だから持つ」

 ジルが錆声で言う。

「鍵を六つに分けろ」

「五つの規定です」

「今作り直せ」

「すぐには」

「暫定」

 ハルが口を挟む。

「暫定、便利」

「あなたは黙って」とセレナ。

「外部星律官一が権力使った」

「会議進行です」

 結局、鍵は六つになった。

 パルの鍵だけ、鍵穴へ入らない。

 単独では開けられない印鍵。

 六本目の短い指で押すと、他の鍵を使った時刻が記録される。

「開けられない鍵」とハル。

「見張る鍵」とパル。

「それ鍵?」

「今作った」

 ミラが笑う。

「契約へ入れる」

「値段」

「保存食三瓶」

「五」

「四」

「蓋付き」

「成立」

 署名なしで使える救難路〈フリー・ライン〉は、港の一番古い係留船に作られた。

 建物ではない。

 最初は窓口一つ。

 看板には、三行。

『救命は署名より先』

『名前を言えなくても利用可』

『救助後の食事・治療・帰路は共同費』

 四行目は空白。

「何を書く」とジル。

「救助する側の費用」とミラ。

「もう共同費」

「足りなくなった時」

「救命を止める?」

「止めない。別の収入を作る」

「どこから盗る」とハル。

「港の高級入港枠へ、救難分担金」

「税」

「違う」

「名前変えただけ」

「使途を公開。上限あり。払えない船は労働か物資。救命利用と支払を結ばない」

「税」

「うるさい」

「徴税要塞から帰って税作る?」

「税が悪いんじゃない。数に入れない人を作るのが悪い」

 ハルが止まる。

 第一章で、誰かが語ったような言葉。

「それ、ミラの考え?」

「今作った」

「歴史みたい」

「歴史は誰かが今作った後」

 ジルが四行目へ書く。

『費用不足でも救命を止めない。翌月の全港会議で赤字を公開する』

「格好悪い」とミラ。

「赤字は隠すと腐る」

「取り立てる?」

「相談する」

「遅い」

「人の生活は船ほど速く曲がらねえ」

「だから港は嫌い」

「残るんだろ」

 ミラは看板を見る。

 救命だけは無署名。

 自分が九歳の時に、この一文があれば。

 左脚を失った後、救助費が債務にならなければ。

 過去は変わらない。

 だから現在の窓口を作る。

 復讐より遅く、制度より小さい。

 それでも次の九歳へ届く可能性がある。

「残る」とミラ。

 ゼロスター号へではない。

 自由港へ。

「窓口、最初の三か月。収支と利用記録を公開。署名しない利用者の名は残さない。人数と必要物資だけ」

「三か月後」とジル。

「続けるか、変えるか、閉じるか。利用者側を会議へ入れる」

「パル」とジル。

「私だけにしない」とパル。

「何で」とミラ。

「子ども一人入れて、子どもに聞いたことにするから」

 ミラの風鈴が一度鳴る。

「その通り」

 その夜、窓口は最初の利用者を迎えた。

 制度が完成した後ではない。

 看板の墨さえ乾く前である。

 小さな運送艇が、係留索を半分切ったまま滑り込んだ。

 操舵していた若者の左前腕には、索焼け。掌から肘まで皮膚が赤く裂け、指が二本うまく動かない。

「氏名」と、旧港役所から手伝いに来た記録係が反射で言う。

 若者の身体が止まる。

「登録、ない」

「では仮登録を」

「先」とパル。

 記録係が振り向く。

「何を」

「治す」

 ミラは看板の一行目を指す。

『救命は署名より先』

「名は後。言わないなら、なくても治す」

「費用」と若者。

 声が震えている。

 傷より、その後を怖がっている声。

「共同費」とミラ。

「あとで払う?」

「救助利用とは結ばない」

「働けば」

「働く契約は、治った後で別に決める。断っても治療費の借りにはしない」

「本当に?」

 ミラの風鈴が鳴らない。

 九歳の自分なら、同じ問いを何度でもした。

 親切の声は、契約書より柔らかい。柔らかい鎖ほど、首へ回った時に気づきにくい。

「本当」と彼女。

「保証」

 若者は、ミラと同じ言葉を求める。

 セレナが窓口の仮規則を出す。

「救助後に債務へ変換しない。共同費不足を本人へ請求しない。規則変更は過去利用へ遡らない。三者署名済みです」

「名前を書かなくても?」

「はい」

「じゃ、治して」

 本人が言う。

 治療係が前腕へ触れる前に、場所を告げる。

 若者が頷く。

 水。

 冷却布。

 固定板。

 鎮痛薬。

 温かい魚粥。

 記録係は紙へ書く。

『利用者一』

 パルが止める。

「一って名前みたい」

「統計が必要です」

「人に付けない」

 相談の末、紙にはこう残る。

『本日利用 一件』

『索焼け処置 一式』

『食事 一食』

『氏名 尋ねず』

『帰路 本人が東桟橋を選択』

 名前はない。

 費用はある。

 無署名とは、使った物資まで存在しないことにする制度ではない。

 人を追跡せず、必要な費用は共同体の正面へ残す制度である。

「赤字」とミラ。

 窓口初日。

 収入零。

 支出、治療具と一食。

「もう?」とハル。

「一人助けたから」

「赤字、悪い?」

「隠したら悪い」

 ミラは帳簿の最初の行を、赤いインクで書く。

 若者は食べ終え、名を言わずに帰る。

 桟橋の途中で一度だけ振り返る。

「ありがとう」

 ミラの肩が、ほんの少し硬くなる。

「対価は」と言いかける。

 やめる。

「どういたしまして」

 その言葉にも、法的効果はない。

 窓口は一件目から赤字になった。

 だからこそ、看板の四行目は、飾りではなくなった。