第216話 第十二章「二枚目の航路札」後編
父と同じ筆圧の修理署名は、ハルの配達鞄に入った。
原本ではない。
セレナの現状複写。
『外来修理者 凪――ギノ・ 』
姓は欠けている。
名も完全ではない。
十九年前。
「父さん、今何歳」とエリア。
「消えた時、三十七。今なら……四十何だっけ」
「十五年ではなく、失踪からの年数を」
「計算苦手」
「四十四」
「なら十九年前は二十五」
「修理技術は」
「家の物、何でも直した。直した後、ねじが一個余る」
「それは技術?」
「動いた」
「危険な判定です」
ゼロスター号の船首。
夕方。
ハルは複写紙を光へ透かす。
「凪、って読める?」
「一画目と三画目は一致します。中央が欠けているので断定できません」
「字の圧は」
「似ています」
「父さんだと思う?」
エリアはすぐ答えない。
「思いたい気持ちはあります」
「気持ちじゃなく」
「証拠としては不足」
「うん」
「でも、調べない理由にもなりません」
「うん」
「隠しません」
ハルが紙を畳む。
「それ、今の話?」
「今の話と、作戦の話」
彼女は船縁へ手を置く。
完璧な謝罪文を用意していない。
「私があなたへ知らせず、あなたの反応を作戦へ使う判断に同意しました。あなたが先に聞いてと言った後です」
「うん」
「拒否権があるから、選択は残ると考えた。知らせない役を置いた時点で、その役について選べなくしていました」
「うん」
「ごめんなさい」
「ミラと同じくらい短い」
「長くすると、私も説明へ逃げます」
「説明は」
「求められたら全て話す。謝った代わりにはしない」
「似てる」
「不本意です」
ハルは少し笑う。
「今、全部前みたいにはならない」
「分かっています」
「地図、信用しないって意味じゃない」
「人と地図を分けてください」
「エリアを信用しないって意味でもない」
「では」
「同じ場所だけ、まだ痛い」
エリアの右手が、地図針へ行く。
外し、差し直す。
「痛みを、急いで消さない」
「消したい?」
「はい」
「正直」
「でも、私が楽になるために、あなたへ許させない」
「じゃ保留」
「あなたの言葉?」
「今は俺の」
「分かりました」
羅針盤の蓋が、一度鳴る。
怪盗契約の期限は、日没だった。
原本三部を並べる。
ゼロスター号。
空賊船団。
セレナ。
黒い部分を縫っていた糸を、全員の前で切る。
中には、実際の隠密条項。
『ミラ・ベルウェザーは敵側へ移ったように見せる』
『敵へ渡す契約は偽本とする』
『風盗上限七を真実として提示し、蓄勢先の分散だけを秘匿する』
『ハルには演技を知らせない可能性を残す』
最後の一行へ、ハルが新しい紙を重ねた。
『本人へ共有できない役を、本人の役割として割り当てない』
ミラが続ける。
『作戦成功は、秘匿による損害を免責しない』
エリア。
『拒否権は、情報を与えない理由にならない』
セレナ。
『秘匿が必要な場合、秘匿される者へ具体的な虚偽行動を要求しない。自然反応を利用する場合も、事後説明と関係損失の責任を別途扱う』
「長い」とハル。
「法文です」
「短くすると」とミラ。
「勝っても、なかったことにしない」とパル。
全員が彼女を見る。
「一番短い」とハル。
「採用」とミラ。
「法文としては」とセレナ。
「併記」とカイル。
「王子がまとめた」とロロ。
「権限ではない」
「今日は便利」
契約期限が切れる。
紙の効力は終わる。
それでも、書き足した言葉は残る。
別れた航路を結ぶ対札〈フォーク・タグ〉を作る夜、ミラは客員席へ座らなかった。
床へ座った。
星晶義足を外し、接合部へ薬を塗る。
客員席の上には、赤茶の革。
三枚の小さな風鈴。
一枚目は高い音。
二枚目は低い音。
三枚目は、縁が欠けて鳴り方が少し遅い。
「欠けてる」とハル。
「新品は高い」
「値段」
「一枚三ルク」
「全部で九」
「欠けたのは一・二」
「細かい」
「音の遅れが使える」
「何に」
「港側で新しい救難窓口が開いたら一枚目。赤字なら二枚目。規則を変えたら三枚目の結び方を変える」
「遠くで聞こえる?」
「聞こえない」
「じゃ分からない」
「次に会った時、革の伸びと結び目を見る」
「途中は」
「知らない」
「心配」
「私も」
「ミラが?」
「船が沈んでないか」
「人は」
「修理代へ含む」
「逃げた」
「半分」
ミラは革を二つに切る。
一枚をゼロスター号。
一枚を自由港。
船側の革へ、三つの穴。
港側へ、四つ。
「数違う」とパル。
「港側の四つ目は、利用者が作る穴」
「勝手に?」
「本人が」
「じゃ私じゃない」
「最初の利用者が」
「救助された人を、仕事させる?」
「嫌なら開けない」
「空白」
「空白」
パルが頷く。
ミラは船側の札を主帆内側へ結ぶ。
ティアの折れた目盛り札の隣。
一枚目は金属の控えめな音。
二枚目は三つの風鈴。
音が違う。
同じ仲間という音へ揃えない。
「客員席」とハル。
「空ける」
「ミラ専用じゃない」
「最初から」
「背もたれ、直したのに」
「次の奴が使う」
「義足置きは」
「残す」
「誰か誤解する」
「片脚の客が来るかも」
「二脚なら」
「荷物置き」
「脚ないなら」
「好きに座る」
客員席は誰かの記念碑ではない。
使える物を残す。
合わなければ外す。
前の人の傷を尊ぶため、次の人へ不便を強制しない。
ミラは客員席の下へ、小さな値札帳を置いた。
「忘れ物」とハル。
「置いていく」
「何に使う」
「次の客が、親切の値段を聞きたくなった時」
「聞かない人なら」
「紙飛行機」
「セレナ怒る」
「私物です」
「許可出た」
契約期限は切れた。
風鈴は鳴る。
魔法ではない。
効力でもない。
風が布を揺らし、金属が触れただけ。
それでも音は、期限の後へ残った。
学院から灰青の伝羽が届いた。
宛名は、ゼロスター号全員。
文章はティア。
追記はマオ。
『生徒評議会議長職を、一票差の不信任により退きました。
結果は受け入れます。
実地救難班を三名から開始します。
規則案は別紙。批評歓迎。ただし、遠隔から完成形を送らないこと。現場で本人と改訂します。』
追記。
『ティアは悔しいって言った。
私は、言わせたんじゃなく、聞いた。
次は、助ける側だけで会議しない。』
「負けた」とハル。
「職を」とエリア。
「話は続いてる」
「はい」
同じ時刻。
王立星航学院の小部屋で、ティアは返却した議長章を箱へ入れようとしていた。
机には、自分側の航路札。
折れた規則剣の七から十二。
窓が開く。
風が入る。
議長章が机を滑り、札の十一番へ触れた。
チン。
一度だけ。
遠い自由港で鳴った音ではない。
魔法通信でもない。
ティアは音を聞き、章を箱へ入れず、札の横へ置いた。
「残す?」とマオ。
「返却済みです」
「箱に入れない?」
「失った肩書きも、なかったことにはしない」
「次の班で使う?」
「使いません」
「じゃ何のため」
「失敗を、権力へ戻る理由だけにしないため」
マオは新しい目盛りを札へ刻む。
十三ではない。
小さな横線。
『班員以外の席』
ティアの別航路は、学院で続く。
出航の朝。
ミラは自由港の桟橋にいる。
ジル。
パル。
救難窓口の看板。
港側の赤茶革札。
ゼロスター号には、ハル、エリア、カイル、ロロ、ノクス、セレナ。
客員席は空いている。
空だから、ミラが消えたのではない。
彼女が別の場所で、窓口の赤字と、契約できない人の権利と、救命を無料にすると仕事まで無価値にされる矛盾へ向き合い続けるためである。
「契約終了」とミラ。
「友達終了?」とハル。
「友達、契約してない」
「じゃ続く?」
「値段」
「つけない」
「危険」
「知ってる」
「今度、秘密の役」
「断る」
「先に聞く」
「断るかは聞いてから」
「成功しても」
「なかったことにしない」
「許した?」
「まだ全部は」
「値切れない?」
「値段ない」
「面倒」
「困れば」
ミラは短く笑う。
「困ってる」
「じゃ続いてる」
「何が」
「話」
ハルは主帆を見上げる。
二枚の航路札。
ティアの目盛り片。
ミラの三風鈴。
離れた二人を船の飾りへしない。
船は進む。
二人も進む。
再会すれば、互いに知らなかった時間を持ち寄る。
王獣鈴の封印箱が、船尾で鳴った。
一度ではない。
七度。
コン。
コン。
コン。
コン。
コン。
コン。
コン。
音は鐘より低く、心拍より遠い。
箱の隙間から、翠色の光が漏れる。
「封印異常」とセレナ。
「開ける?」とハル。
「三者立会い」
カイル。
セレナ。
自由港側代理の結び札。
ミラ、ジル、パルが桟橋から立ち会う。
三重封印を一つずつ外す。
箱を開く。
黒銀の曲片。
七本の溝。
光が、溝から空へ出る。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ。
六つ。
七つ。
翠色の七重反響。
音が光になったのか。
光が音の形を借りたのか。
誰にも分からない。
七本の光は、自由港の上空で一本の古い航路へ重なる。
地図にない。
旧軍航路盤にもない。
空へ、巨大な足跡のような緑の光が現れる。
一歩。
雲の上。
二歩。
遠い浮島の向こう。
三歩目は、空そのものが沈む場所へ続いている。
「誰の足」とハル。
「人物と断定しないで」とセレナ。
「形の話」
「大きすぎる」とカイル。
「地図へ入らない」とエリア。
言いながら、目が明るい。
未知の道。
「追う?」とハル。
「身体条件」とエリア。
「肩、艇外作業禁止あと四日。航行可」
「船」とロロ。
「主帆、長距離前に二か所補強。半日」
「欠片」とセレナ。
「封印を戻し、反響周期を一度観測」
「カイル」
「王都へ位置報告。ただし経路の所有権は主張しない」
「ノクス」
黒い夜獣は船首へ立つ。
二本尾を緑の足跡へ向ける。
「本人、行く?」
「ナァ」
「賛成?」
「翻訳しないで」とエリア。
「じゃ本人が選ぶ」
ハルは桟橋を見る。
「ミラ」
「私は残る」
「分かってる。行っていい?」
「私の許可?」
「一緒に取った欠片だから」
「共同保管の条件を守るなら」
「帰る日」
「断言するな」
「更新を返す」
「会った時」
「途中は」
「知らない」
「心配する」
「高く買う」
ジルが銅笛を一度鳴らす。
「出航する船は、別れを長引かせるな」
「船乗りの規則?」とハル。
「私の機嫌」
「従う?」
「今だけ」とミラ。
ゼロスター号が桟橋を離れる。
主帆へ風。
一枚目の航路札が、硬い金属音を立てる。
二枚目が、三つの違う音を返す。
ティアは学院。
ミラは自由港。
船にいなくても、航路の外ではない。
ハルは緑の足跡を見る。
零星針を開かない。
「方向」と彼。
エリアが地図を広げる。
「まだ名前がありません」
「じゃ」
「最初の足跡まで。そこで測り直します」
「最短?」
「安全条件を満たす中で」
「誰が決める」
「全員で」
ハルは笑う。
「それなら、迷ってもいい」
「迷わないでください」
「今、いい話だった」
「方向は別です」
「言葉の意味が違う!」
「あなたが粗いのです!」
ゼロスター号は、人物名を知らない。
空域名も知らない。
緑の足跡が何を運び、何から逃げ、どこへ続くのかも知らない。
知っているのは、観測した光だけ。
だから、未来を答えとして先に書かない。
一歩目まで進み、測る。
誰かが怖いと言えば止まる。
道が違えば描き直す。
星のない空で、二枚の航路札が鳴った。
ゼロスター号は、翠色の古い足跡へ船首を向けた。