第218話 第一章「国境が走る」後編

 ゼロスター号は、最も大きな巨獣の背へ降りた。

 降りた、という言葉は正確ではない。

 相手が走っているため、船も走る速度へ合わせ、根橋の上へ横滑りし、三本の係留索を毛根ではなく鞍柱へ結んだ。

 ロロが一つずつ確認する。

「生体へ直接結ぶな。皮膚を締めるな。毛束は索じゃねえ。動いてる床へ『固定』って言葉使うな」

「注文が多い」と青い兵士。

「生きてる物の上で注文が少ない奴は、壊した後に黙る」

 地面は、柔らかかった。

 土の下に厚い根。

 根の下に白緑の毛。

 さらに下から、ゆっくりした熱が上がってくる。

 ハルが片膝をつくと、遠い雷のような音が掌へ届いた。

 ドン。

 間。

 ドン。

「心臓?」

「一頭の拍ではありません」

 声は背後からした。

 振り向くと、耳の周りへ薄い骨板を扇状に付けた少年が立っていた。

 深緑の巻き髪。

 青灰色の短衣。

 胸には細い太鼓。

 少年は喉を押さえ、声を出さず、指先で地面を二度叩いた。

 短い。

 長い。

 ハルには意味が分からない。

 エリアがしゃがむ。

「二頭?」

 少年は首を横へ振る。

 三本指。

 次に、手を開く。

「三と、もっと?」

 頷く。

 青い兵士が言った。

「オルバ群の無口な弟だ。王候補の――」

 少年の太鼓が、乾いた一拍を返す。

 兵士が口を止めた。

 少年は胸の札へ、自分で文字を書く。

『ネム』

「ネム」とハル。「俺はハル」

 ネムは頷いた。

「喋らなくていい。太鼓、分からなかったら聞く」

 もう一拍。

 今度は少し軽い。

「それ、賛成?」

 ネムは首を横へ振り、地面へ指を二度当てた。

「聞いた。賛成ではない、だそうです」

 低い女の声。

 灰褐色の外套を着た老女が、三叉の杖をついて近づいてくる。白髪。白濁した左眼。額には削れた角飾り。

「勝手に訳すな、ハダン」とネムが掠れた声で言った。

 短い。

 痛そうな声だった。

「訳さねばこの外来者は三日考える」

「一日」とハル。

「自信を持つな」

「初対面で厳しい」

「地面が甘い時に人まで甘ければ、全員沈む」

 ハダンは杖で土を叩く。

 地面の拍が変わった。

 遠くで、怒号。

 二つの村の間に、黒い石が立っている。

 高さはハルの胸。

 幅は二人で抱えるほど。

 片面に青い井輪の紋。

 反対に黄緑の葉角紋。

 国境石だった。

 石の左では、青い兵が縄を張る。

 右では、樹皮鎧の兵が縄を切る。

 その後ろに家々。

 畑。

 水路。

 墓地。

 一本の線が、昨日までは村の外にあった。

 今朝は、共同炊事場を横切っている。

「国境が移った」と青い兵士。

「盗まれた」と黄緑の兵士。

「どっちが?」とハル。

「我々の土地が!」

 二人が同時に答えた。

「両方?」

「片方です」とセレナ。「ただし、片方がどちらかを双方が争っている」

「説明すると余計に両方っぽい」

 エリアは地図を開く。

「昨日の境界座標は」

「北三百二十、東八十」と青い兵士。

「今は」

「北百九十、東百四十」と黄緑の兵士。

「石そのものを誰かが運んだ可能性」

「夜警が見ていた」

「何人」

「ティルカ四、ラウガ四」

「互いを?」

「見張っていた」

「石を?」

 八人の夜警が黙った。

 人は敵を見張る時、しばしば守るべき物を見なくなる。

 ロロが国境石の下へ補助腕を入れる。

「触れるぞ。現場保全官」

「最小限。位置、向き、接触部を先に記録」

 セレナの黒い証羽が六枚、石の周囲へ浮く。

 ロロは石の下へ鏡片を滑らせる。

「土がねえ」

「何がある」とハル。

「毛」

 鏡に、長い白緑の毛が映る。

 黒い樹脂。

 平たい金具。

「地面の下に毛?」

「地面が毛の上だ」

「同じじゃない?」

「逆だ。床の上に絨毯があるのと、絨毯の下に床があるのを同じって言うか?」

「どっちも踏む」

「お前の家、直したくねえ」

 ロロは樹脂を一滴、採取板へ取る。

「新しい。まだ柔らかい。石の底、こすれてる。地盤へ埋めた杭じゃない。鞍だ」

「国境石に鞍?」

「乗ってんだよ。この石」

「何に」

 答えより先に、地面が盛り上がった。

 国境石の向こう。

 人垣が割れる。

 大きな影が、石へ手をかけた。

 一人の少年だった。

 少年という語が、体格へ負けている。

 ハルより頭二つ高い。

 肩は扉ほど広い。

 濃緑の髪をたてがみのように束ね、額には白い一本角。裸足。腕と頬へ黒緑の獣文様。背中には、人の身長より長い鐘付きの棍。

 彼は国境石を両腕で抱えた。

「待て」とセレナ。

「現場です!」とロロ。

「持ち上げるな!」と両国の兵。

 少年は持ち上げた。

 土ではなく毛が、石の下から長く伸びる。

 鞍状の金具が樹脂の音を立てて外れた。

 石の重さで、少年の足が土へ沈む。

 それでも立つ。

「争う場所があるから争う」

 低い声が、胸ではなく地面から聞こえたように響く。

「なら、場所を下ろす」

「持ち上げてる!」とハル。

 少年がハルを見る。

「下ろすために持つ」

「持って逃げる人が言うと、方向の詐欺だ!」

「逃げるのではない」

 少年は国境石を肩へ担ぐ。

「争いより先へ走る」

「それを逃げるって言う!」

 彼が踏み出す。

 ドン、と地面の心臓が一つ増えた。

 裸足が土を蹴る。

 国境石を担いだ大男が、走る森の上を走り出した。

「ガンガ!」

 ハダンの怒声。

 ネムの太鼓。

 短、短、長。

 ノクスの二本尾が、同じ方向を指す。

「ハル」とエリア。

「肩、二。腰索あり。戻る条件、三を越えたら言う!」

「まだ聞いていません!」

「先に言った!」

「行くなとは言っていない!」

「じゃ!」

「経路を待って!」

 淡緑の線が、巨獣の背から次の背へ伸びる。

 国境石を担いだ少年は、その線より先へ行く。

 ハルは赤いマフラーを締めた。

「一、二、三!」

 国境が走る。

 その後を、迷子が追った。