第219話 第二章「鼓動を聞く少年」前編
王の始まりには、いくつもの説がある。
最も強かった者。
最も多く持っていた者。
神の言葉を聞いた者。
翠獣環では、地面の異変を誰より早く聞いた者が、最初の王になったと言われる。
巨大な獣が走り出す前、その心臓は一拍だけ速くなる。
その一拍を聞いた者が避難を命じ、人々を救った。
次の季節も命じた。
その次の季節には、何も聞こえなくても命じた。
能力は信頼になり、信頼は権限になり、権限はやがて血筋になる。
歴史はしばしば、「よく聞こえる」と「決めてよい」を同じ言葉へ縫い合わせる。
「速い!」
「石を持っている人間へ言う感想ではありません!」
エリアの声が後ろから飛ぶ。
国境石を担いだガンガは、走る森の斜面を下っていた。
斜面といっても、山ではない。
国土を背負う巨獣の肩である。
肩甲骨が持ち上がるたび、地面は二十リュム高くなる。下がるたび、木々が前へ倒れ、根橋が弓のようにしなる。
ガンガは裸足で、地面が上がる前に踏み切った。
見てからでは遅い。
聞いている。
足裏で。
ハルは見てから走る。
だから、別の速さを使う。
倒れる前の木を踏む。
伸びきる前の根橋へ飛ぶ。
ガンガが国境石の重さで沈ませた足跡を、次の足場にする。
「待て!」
「争いは待たない!」
「お前も待ってない!」
「だから先へ行く!」
「会話が前進してない!」
「身体はしている!」
「言葉の進路と足の進路を分けるな!」
「お前は走りながらよく喋るな!」
「そっちは走りながら石持つな!」
ガンガが笑った。
低い声が木の葉を揺らす。
「細いのに、息が続く」
「褒めるなら止まれ!」
「止まったら褒める理由がなくなる」
「条件付きの褒め言葉、安い!」
前方で、二頭の巨獣の背が離れた。
根橋が宙へ引かれる。
橋板が一枚ずつ外れ、中央に十リュムの空白。
下は雲。
雲のさらに下に、別の背国の町が小さく見える。
ガンガは速度を落とさない。
右足で地面を踏む。
自分の胸を二度。
地面を一度。
ドン、ドン。
ドン。
巨獣の次の足運びが、ハルの足裏へ届いた。
「三拍後」とガンガ。
「何が!」
「近づく!」
「何と何が!」
「地面と地面だ!」
「最初からそう言え!」
「地面は地面だ!」
「今は二つある!」
二頭が走りながら寄る。
三拍目。
離れていた背と背が、根橋の下で一瞬だけ並んだ。
ガンガが跳ぶ。
国境石ごと。
石の影が、雲へ大きな穴を作る。
「無理!」
ハルは叫び、同じ場所へ踏み込んだ。
「無理なら止まれ!」とエリア。
「今言う!?」
「言うだけです! 路図、二秒!」
淡緑の線が空白へ伸びる。
完全な橋ではない。
ガンガが踏んだ根橋の揺れを測り、次に戻る位置を示すだけ。
ハルは一、二、三と数えた。
三の途中で跳んだ。
「数える意味!」
「気持ち!」
「物理へ使って!」
手が、向こうの根へ届く。
左肩へ力を入れない。
右手でつかみ、腰索を投げ、脚を振る。
身体が根の下へ回る。
肩、二。
「二!」
「聞いています!」
エリアの路図が、根の横へ足場を一本描く。
ハルは蹴り上がる。
向こうの背へ転がった時、ガンガはもう三十リュム先だった。
「速いじゃないか!」
「石置け!」
「置く!」
「今!」
「場所を選ぶ!」
「国境石の場所を一人で選ぶな!」
「争わない場所だ!」
「そういう場所があったら最初から争ってない!」
ガンガの足が止まった。
急に。
ハルは背中へぶつかりかけ、横へ飛ぶ。
「止まるなら言え!」
「言葉より先に聞こえた」
「何が」
ガンガは国境石を下ろした。
今度は、本当に。
石の底が土へ触れる。
ただし埋めない。
太い腕が、倒れないよう支えたまま。
「下だ」
ハルも地面へ耳を近づける。
何も分からない。
遠い雷。
根が擦れる音。
巨獣の大きな心拍。
「どれ」
「多すぎる」
「聞こえるのに?」
「聞こえるからだ」
ガンガは目を閉じた。
裸足の指が土へ沈む。
獣の心拍を読む足裏技〈グラウンド・リスン〉。
誓星術ではない。
翠獣環では、幼い子どもも地面へ掌を当て、親獣が眠っているか、怒っているか、脱皮前かを学ぶ。
都市の子が信号の色を覚えるように。
船の子が風の匂いを覚えるように。
ただしガンガは、生活技能の範囲を越えて聞く。
「十二の大拍。人、百七十……違う。兵が追ってきた。怒りが強い。家畜、四百より多い。小さい拍が――」
言葉が止まる。
ガンガの右眉が寄った。
「混じる」
「何と」
「怒りと恐怖。誰のものか」
「心臓に名前は書いてない?」
「歩調と一緒なら分かる」
「止まってる人は」
「前に聞いた拍なら」
「初めての人」
「近ければ」
「遠くて、弱かったら」
ガンガは目を開ける。
「聞きに行く」
「それ、今まで何人にやった」
「何が」
「聞こえたから、その人の気持ちまで分かったことにするの」
低い声が消えた。
ガンガは、自分の胸を叩かない。
「お前は言葉を信じるのか」
「言葉も間違う」
「心臓は嘘をつかない」
「怖い時に速くなる。でも、何が怖いかは言わない」
「身体は先に知る」
「本人が後で決めることもある」
「遅い」
「勝手よりは」
「間に合わない」
「聞いたつもりで外したら、もっと間に合わない」
二人の間で、国境石が静かに立っている。
青い井輪。
黄緑の葉角。
両方の紋が、相手へ背を向ける形で彫られていた。
「お前、誰」とハル。
「ガンガ・オルバ」
「さっき呼ばれてた」
「なら知っている」
「名前だけ。何する人」
ガンガは少し迷う。
「聞く者だ」
「今聞かれてるのに、答え短い」
「獣王候補」と後ろからハダンの声。
老女は根橋を歩いてきた。
走らない。
右膝をかばい、杖を先に置く。
その横をネムが進む。
音を拾う骨板が風へ細かく震えていた。
「王?」とハル。
「候補だ」とガンガ。
「まだ王じゃない」
「祭を越えていない」
「じゃ国境石を動かす権限ない」
「王でもない」とハダン。
「王でも?」
「石を持ち上げる腕はあっても、国境を決める腕はない」
「今いいこと言った?」
「昔からある」
「誰が最初」
「覚えていない」
「じゃ今ハダンの言葉」
「歴史を盗むな」
「石を盗んだ人へ言って」
「盗んでいない」とガンガ。
「持って走った」
「争いから遠ざけた」
「所有者の許可なし」
「二国が所有を争っている。誰へ聞く」
「両方」
「両方が反対した」
「じゃ置け」
「置く場所を争う」
「持ってても争ってる!」
ガンガが国境石を見る。
ハルを見る。
「なら、石が悪い」
「石に責任を渡すな!」
「責任は持てない。石だからな」
「分かって言ってるだろ!」
「言葉は面白い」
「さっき身体を信じてた!」
「身体は面白くないとは言っていない」
ガンガがまた笑う。
ハルは腹が立った。
少しだけ好きになりそうで、さらに腹が立った。
ネムが太鼓を一度鳴らす。
休符のような一拍。
ガンガの笑いが止まる。
「ネム」と彼。「遅かった」
ネムは答えない。
「俺のきょうだいだ」とガンガがハルへ言う。
ネムは胸の札へ書く。
『ネム』
「さっき聞いた」とハル。
ネムは次を書く。
『きょうだいは職業ではない』
「同意」とハル。
ガンガは眉を寄せる。
「紹介しただけだ」
『名前を後にした』
「先に言うべきだった」とエリア。
淡緑の路図を閉じながら、最後の根橋を渡ってくる。
彼女は息を整えてから続けた。
「ネム。私はエリア。路図を描きます。あなたの記録方法を見せてもらえますか」
ネムは骨板の一枚を外す。
裏に、細い刻み。
長短の拍。
大きさ。
間。
名前ではなく、聞いた時刻と場所だけ。
「誰の心拍」とハル。
ネムは首を横へ振る。
「分からない?」
『許可なしに名前を付けない』
ガンガが言う。
「聞けば分かる拍もある」
ネムの太鼓。
短、長。
「何」とハル。
「聞いた、賛成ではない」とエリア。
「もう覚えた?」
「記号は地図より素直です」
ネムが少し笑う。
声ではなく、左の口角だけ。
追手の振動が届くまで、わずかな間があった。
ハダンはその間を休憩と呼び、ガンガは調査と呼び、ハルは質問時間と呼んだ。
「全部同じ?」とハル。
「違う」と三人。
「息ぴったり」
「揃えるな」とガンガ。
彼は国境石の横へ座り、大皿の干し根を六つの小皿へ分けた。
人数は七人いる。
「一皿足りない」とハル。
「ノクスは食べる量が違う」
「俺?」
「お前は走った分、二つ」
「均等じゃない」
「必要が同じでない」
ガンガは自分の皿を最も大きくし、隠さない。
「自分だけ多い」
「体が大きい」
「王候補だからじゃなく?」
「王候補でも腹は減る」
「王になったらもっと?」
「会議が増えて動かないから減る」
「現実的」
ネムの皿は小さい。
ただし干し根ではなく、喉へ刺激の少ない発酵粥が入っている。
ガンガが用意したものだった。
ネムは受け取る前に、皿とガンガを交互に見る。
「何だ」
『頼んでいない』
「喉にいい」
『知ってる』
「食べないのか」
『選ぶ』
ネムは粥を半分だけ別皿へ移し、残りへ酸乳酪を足す。
ガンガの眉が動く。
「混ぜると効きが薄い」
『私の喉』
「そうだな」
言い直すまでに、一拍。
ハルは干し根を噛む。
「王候補って、何するの」
「祭りを越える」
「祭り以外」
「群れの移動を決める。水場を分ける。争いを止める。病気の群れを切り離す」
「切り離された方は」
「別の道へ行く」
「戻れる?」
ガンガは答えるのが遅い。
「病気が治れば」
「治らなかったら」
「……その群れで暮らす」
「王が決める?」
「聞き手と樹医と、群れの代表が」
「最後は」
「王」
「重い」
「石よりか」とガンガ。
「石は下ろせる」
ガンガの手が、国境石へ触れる。
「王も下りられる」
「下りた後、決めたことは残る」
ハダンが塩粒を七つ数えながら言った。
「王を怖がらせるな。候補が減る」
「増えた方がいい?」とハル。
「多すぎれば決まらん。少なすぎれば選べん」
「何人」
「七群から一人ずつ」
「全員、心拍聞ける?」
「違う。匂いを読む者、風を読む者、獣医、道を覚える者」
「じゃガンガの能力が王の条件じゃない」
「条件の一つだ」とハダン。「聞けることより、聞いた後に決めることを試す」
「試験で間違えたら」
「落ちる」
「王になってから間違えたら」
ハダンの塩を数える指が止まる。
「人が死ぬ」
簡潔だった。
美談を足さない。
ガンガは、干し根を食べない。
「だから全部聞く」と彼。
「全部って、できる?」
「する」
「できるか聞いた」
「しなければ王になれない」
「答えが役職に変わった」
ネムが太鼓へ休符を打つ。
ガンガは彼を見る。
『聞くことと、代表することを分けろ』
「分けている」
『今、私の粥を決めた』
「それは王の仕事ではない」
『家族なら決めていい?』
ガンガは、今度こそ答えない。
ハルは助け舟を出さない。
助け舟は、溺れている者が乗りたい時に出すものだ。
言葉に詰まった相手から、考える時間を奪うための船ではない。
代わりに、ネムへ聞く。
「太鼓の拍、覚えたい。教えてもらえる?」
ネムは心拍珠を三つ置く。
短。
長。
休符。
「一つ目は」
『聞いた』
「二つ目」
『賛成ではない』
「休符」
『答えない』
「反対じゃなく?」
『答えない』
「理由も」
『答えない』
「強い」
ネムの左口角が少し上がる。
ガンガは、干し根を一つ食べた。
「お前は、知らないことを怖がらないな」とハルへ言う。
「怖いよ」
「聞く」
「知らないまま決める方が怖い」
「聞いても、答えない者がいる」
「答えないって答えを、勝手に埋めなきゃいい」
「災害で時間がなければ」
「いつまで待つか先に決める」
ハダンが鼻で笑う。
「都市の子が、群れの評議を一口で直したか」
「直してない。今思った」
「なら覚えておけ。思いつきは、失敗するまで美しい」
「ハダン、いいこと言う回数多くない?」
「長く生きた」
「同じ年になったら俺も?」
「お前は口数が七倍になる」
「世界が耐えない」とエリア。
「即答!」
地面の下から、金具の揃った振動が近づいた。
休憩も、調査も、質問時間も終わる。
ハダンは残った塩を袋へ戻す。
「追手だ」
ガンガが立つ。
胸を二度。
地面を一度。
今度は、聞く前に言った。
「術を使うかもしれない」
「条件は」とエリア。
「兵が武器を上げた時。近くの者だけ」
「止める合図」とハル。
「ハダンが鐘棍を叩く」
「私を使うな」とハダン。
「頼む」
「今のは許す」
完全ではない。
それでも、知らせず成功を取りに行く一歩前で、ガンガは初めて条件を口にした。