第220話 第二章「鼓動を聞く少年」後編

 両国の追手が近づいた。

 地面の上へ先に怒りが来る。

 次に槍の金具音。

 最後に人の声。

「石を返せ!」

「ラウガ側へ!」

「ティルカの元位置へ!」

「元位置は昨日だ!」

「昨日の法は今日も法だ!」

「今日の土地へ昨日の線を押しつけるな!」

 ガンガが国境石の前へ立つ。

「全員、止まれ」

 声は大きくない。

 それでも、兵士たちの足が半歩だけ遅くなった。

 ガンガは胸を二度叩く。

 地面を一度。

 白い角の根元から、薄い緑の星痕が頬へ走る。

 鐘棍ドゥルガの鐘が、布に包まれたまま低く震えた。

 生物の心拍を束ねる咆哮〈ハート・ハウル〉

 声ではない。

 近くの生命が、自分の胸の拍を地面越しに互いへ感じる。

 速い怒り。

 細い恐怖。

 走ってきた息。

 百を越える拍が、一つの大きな波へ寄る。

 兵士たちが同時に息を吐く。

 槍先が下がる。

「今、何した」とハル。

「同じ拍を聞かせた」

「同じ気持ちにした?」

「違う。気持ちが違っても、生きている拍は――」

 誰かが叫んだ。

「石を奪われた!」

 怒りが、一人から群れへ走る。

 下がった槍が一斉に上がった。

 恐怖も伝わる。

 後列の馬に似た六脚獣が嘶く。

 その恐怖が前列の兵へ戻る。

 兵の速い拍が、さらに獣へ伝わる。

「切れ!」とハダン。

 ガンガが術を止める。

 星痕が消える。

 だが、伝わった恐怖は消えない。

「便利」とハル。

「失敗を見て言うな」

「便利だから失敗がでかい」

「分かっている」

「なら使う前に言え」

「言えば待ったか」

「止めるかも」

「だから言わなかった?」

 ガンガは答えない。

「それ、最近よく見る」とハル。

「何を」

「成功のために知らせないやつ」

 エリアの指が、地図針へ触れる。

 ガンガは彼女を見る。

 何も知らない。

 ハルは続けなかった。

 別の事件を、目の前の相手へ武器として投げるのは違う。

「次は先に言って」とだけ言う。

「次があると思うのか」

「今の見て、ないと思う?」

 兵士たちの六脚獣が暴れた。

 一頭が根橋の欄干へ脚をかけ、荷車を引いたまま外側へ傾く。

 荷車には、水桶。

 桶の横に、小さな子ども。

「落ちる!」

 ハルが走る。

 ガンガも走る。

 二人が同じ方向へ、同じ時に踏み出した。

「先に飛ぶな!」

「お前が言うか!」

「俺は言われてるから言える!」

「理屈が倒れている!」

「荷車も!」

 ガンガが地面へ左足を打つ。

「右後脚、二拍後に踏む!」

「誰の!」

「下の巨獣!」

「今度は早い!」

 地面が持ち上がる。

 荷車が跳ねる。

 ハルは上がる力を使って欄干へ飛び、子どもの腰帯をつかむ。

「触る!」

 子どもは泣きながら頷く。

 ガンガは荷車の軸を片腕で持ち上げ、六脚獣の首をもう一方で支える。

 その背後。

 根橋の下から、小さな音。

 トン。

 間。

 ト、トン。

 ネムの太鼓だった。

 ハルには聞こえた。

 ガンガは、荷車と兵と獣の大きな拍へ集中している。

「ガンガ!」

「今、持っている!」

「下!」

 根橋の支え索が切れかけている。

 ネムは橋の裏側へ回り、一本を結び直そうとしていた。

 細い身体。

 弱い足音。

 百の怒りを聞いたガンガが、すぐ近くの一人を見ていない。

 ハルは子どもを兵士へ渡し、腰索を欄干へ巻く。

「ネム、触る!」

 ネムは首を横へ振る。

「自分で上がれる?」

 頷く。

「じゃ索だけ投げる!」

 投げる。

 ネムは六本ではない普通の指で、速く正確な結びを作る。

 自分で上がる。

 ガンガが荷車を戻し、ようやく振り向いた。

「ネム」

 ネムは太鼓を一度。

 休符。

「なぜ下へ」

『橋が切れる』

「言え」

 ネムの灰色の目が細くなる。

『打った』

「聞こえなかった」

『聞かなかった』

 ガンガの胸が、大きく上下する。

「俺は全員を――」

 ネムは太鼓を鳴らさない。

 その無音が、言葉より長い。

 ガンガは自分の胸へ手を置く。

 叩かない。

 追跡は、そこで二十分止まった。

 理由は事情聴取ではない。

 ガンガが吐いたからである。

「王候補が弱い」と青い兵士。

 ガンガは返事をしない。

 木の根へ片膝をつき、口元を洗う。

 額の角の根に汗。

 胸骨中央の白い傷が、呼吸ごとに上下する。

「密集した拍を聞きすぎた」とハダン。

「何人分」とハル。

「人だけなら三百。獣を入れれば数える意味がない」

「能力を使った代償?」

「聞くこと自体が能力だ。目を開けて景色を見るのと同じだが、こいつは景色を閉じるのが下手だ」

「靴を履けば」とロロ。

 ガンガの顔が険しくなる。

「足を塞ぐ」

「だからだ。振動を減らせる」

「聞けなくなる」

「今は聞きすぎて吐いた!」

「聞かない間に何かが起きる」

「聞いててもネムを落とした」とハル。

 言った後、空気が止まる。

 ガンガは怒鳴らない。

 完全に声を消す。

 その方が危険だと、付き合いの浅いハルにも分かった。

「言い方は悪かった」とハル。「でも、聞き続ければ全部聞けるわけじゃない」

「お前に何が分かる」

「迷子だから。全部の道を見ようとすると、今いる場所が分からなくなる」

「一緒にするな」

「しない。似た失敗を置いただけ」

 ネムが木陰へ六つの椀を並べた。

 中へ、それぞれ違う物を入れる。

 小石。

 水。

 砂。

 眠っている六脚獣。

 布へ包んだ種。

 空。

 蓋をする。

「何だ」とガンガ。

 ネムは地面を指す。

「聞け?」

 頷く。

 ガンガは裸足を置く。

 小石は転がる。

 水は揺れる。

 砂は細かく沈む。

 六脚獣は速い心拍。

「四つ」

 ネムは五本指を出した。

「布の種は生きていない」

 ネムは首を横へ振る。

 布を開く。

 種の間に、小さな白い幼虫が一匹いた。

 ガンガの眉が動く。

「聞こえなかった」

 ネムは、空の椀を開ける。

 底へ一枚の紙。

『聞こえないものを空と決めた』

「空だった」

 ネムは紙を裏返す。

『今は』

「何が言いたい」

『聞こえない。分からない。ない。三つ』

「災害の前に、全部分ける時間はない」

 ハダンが塩粒を七つ数えながら言う。

「なら、時間のない時に何を捨てるか、平時に決めておけ」

「俺は誰も捨てない」

「その言葉が一番多くを捨てる」

「なぜ」

「腕二本で全員を抱くと言えば、最初に落ちた者へ気づかん」

 ガンガの拳が土へ沈む。

 ネムは六つの椀を片づける。

 最後に空の椀だけを残した。

 ハルが覗く。

「本当に空」

 ネムが長短二拍。

「聞いた。賛成ではない」

「空への?」

 ネムは紙へ書く。

『今、見た範囲では』

「セレナみたい」

「私はそこまで慎重ではありません」とセレナ。

「張り合う所?」

 ガンガは水を飲み、初めて薄い革布を足裏へ巻いた。

 靴ではない。

 振動を全部消さない。

 少しだけ減らす。

「嫌なら外せる」とロロ。

「外す」

「今じゃねえ!」

「後で」

「じゃ成立!」

 ガンガは立った。

 聞こえる力を失ってはいない。

 聞こえない時間を、自分で作っただけだった。

 国境石は、ひとまずその場へ横倒しにされた。

 立てれば、どちら側かが生まれる。

 倒せば中立になるわけではないが、少なくとも今すぐ縄を結ぶ面はない。

 セレナが石の元位置、移動経路、ガンガの行為、両国の追跡を記録する。

「罪状」とガンガ。

「事実です」

「同じではないのか」

「事実から法的評価を分けます。あなたが石を運んだことは確認。国境を盗んだかは未確定。救難行為は別記録」

「長い」

「必要です」

「ハルと似ている」

「どこが!」

「止まらず言う」

「俺はもっと短い!」

「正確さが減る」とエリア。

「味方いない?」

 ノクスがガンガの足元へ来た。

 鼻を、裸足へ近づける。

 ガンガの身体が固まる。

「夜渡り」

「ノクス」とハル。

「古い竜の――」

 ノクスが角のある少年の足へ噛みついた。

「名前で呼べって」

「今のは、お前の翻訳か」

「本人の歯」

 ガンガは噛まれた足を引かない。

 ノクスは少しして離れ、二本尾を別方向へ向けた。

「何を嗅いだ」とガンガ。

「翻訳しない」

「分からないままか」

「本人が話せないからって、俺が全部決める方が嫌だろ」

 ガンガはネムを見る。

「嫌だ」

 ネムが掠れ声で言う。

 短い一言。

 ガンガの返事はない。

 代わりにハダンが、国境石の底へ杖を差し込んだ。

 長い毛。

 樹脂。

 細かな白い粒。

「これは何」とセレナ。

「卵殻に見える」とエリア。

「採取します」

「先に森を見ろ」とネム。

 全員が彼を見る。

 長く喋ったため、ネムは喉を押さえた。

 ハルが水筒を出す。

「飲む?」

 ネムは値段を聞かない。

 ただし受け取る前に、指で自分を指し、水筒を指し、ハルを見る。

「ネムが飲む。俺の。返さなくていい」

 頷く。

 一口だけ飲む。

 ネムは地面へ膝をついた。

 耳の骨板を外す。

 胸太鼓を土へ伏せる。

 トン。

 巨獣の心拍が、太鼓の皮を内側から押す。

 トン。

 次の拍が速い。

 さらに次。

 十二頭のうち、三頭だけが合わない。

 一頭は急ぎ、一頭は遅れ、一頭は不規則に身体を震わせている。

 ネムは白い粒を指す。

 毛が一方向へ逆立った斜面を指す。

 遠くの森を指す。

 森は風と逆へ波打っていた。

「森が」とハル。

 ネムは細い声で言う。

「病気で、走ってる」

 その瞬間。

 地面が、四拍ぶん速くなった。