第221話 第三章「一夜で隣国」前編

地図は、現実を描くものだと思われている。

 正確には、現実が地図の完成を待ってくれる場所でだけ、そう呼べる。

 城壁は十年動かない。

 街路は一晩で裏返らない。

 山は、測量士が昼食を取る間くらい同じ場所にいる。

 その静けさを、人は大地の性質だと思う。

 実際には、地図を作る者へ大地が与えている猶予にすぎない。

 翠獣環ヴァルカには、その猶予がなかった。

「昨日の地図が、嘘をついている」

 エリアは言った。

「地図、喋る?」とハル。

「比喩です」

「地図に比喩使うんだ」

「あなたへ分かりやすくしただけ」

「俺のために地図が嘘つきにされた」

「地図は傷つきません」

「描いた人は?」

 エリアは黙った。

 昨日の地図を描いた人は、エリアである。

 朝。

 走る森は、三時間だけ速度を落としていた。

 止まってはいない。

 十二頭の国土獣は、雲の浅瀬を長い円弧で進んでいる。外縁の小さな個体が遅れ、中央の大きな個体が先へ出る。背と背を結ぶ根橋は、縮み、伸び、時々外れる。

 エリアは、夜明けから同じ場所を三度測った。

 井戸。

 共同炊事場。

 墓地の門。

 青旗の見張り塔。

 黄緑旗の苗床。

 互いの距離は変わらない。

 井戸から墓地まで百七十二リュム。

 墓地から苗床まで九十一。

 炊事場から見張り塔まで六十三。

 昨日も同じ。

 ところが、星位を基準にすると、全部が東へ二百四十リュム移動している。

 国境石だけは、西へ百三十。

「全部動いた。石だけ逆へ動いた」とハル。

「その説明では、石が自力で歩いたことになります」

「ガンガが持った」

「彼が動かす前の夜間測定でも、逆方向です」

「じゃ、石が歩いた」

「却下」

「早い」

「脚がありません」

「ガンガの脚を借りた」

「夜には借りていません」

「石の無実が固い」

「石だけに?」

「今の、エリアから来た?」

「忘れて」

 エリアは昨日の地図へ今日の薄紙を重ねた。

 線がずれる。

 家々は一塊のまま動く。

 井戸も墓も森も、一つの板へ載ったように。

 国境石だけが外へ滑る。

 問題は、足元が一枚の板ではないことだった。

 地面には継ぎ目がある。

 太い根の橋。

 土の色の変化。

 毛の流れ。

 住民はそれを道や畑の区画だと思っている。

 外から来たエリアには、最初、地形の模様にしか見えなかった。

「固定点が要る」と彼女。

「固定していい?」とハル。

「測定上の基準です。物理的に杭を打つのではない」

「最近、固定って言葉が怖い」

「成長しました」

「褒められた?」

「警戒対象を増やした点は」

 エリアは三本の地図針を取り出す。

 一つを井戸の石輪へ。

 一つを墓地門の金具へ。

 一つを大樹の根元へ。

 刺さない。

 紐で結ぶ。

「持ち主へ確認」と彼女。

 井戸の前に立つ女性が腕を組んだ。

 四十代半ば。

 青い鱗革の長衣。

 髪を短く刈り、額へ細い銀の井輪を付けている。

「井戸はティルカの管理財です。測量札を付けるなら使用目的、期間、撤去条件を」

「アビナ・トール境務官」とカイルが小声で教える。

「知ってる?」

「昨夜、相互紹介に四十分使った」

「俺、途中で寝た」

「知っている。相手国の国名を枕に書いた」

「忘れない工夫」

「外交では眠らない工夫をしろ」

 エリアはアビナへ向き直る。

「目的は移動量測定。日の入りまで。井輪へ傷を付けず、位置記録後に撤去。測定結果は両国へ同時公開します」

「両国へ同時?」

「片方へ先に渡せば、時間差が武器になります」

「公爵家の地図権を主張しない?」

「ここはルーメンではありません」

「王太子もいる」

「観察者です」とカイル。「少なくとも、王命の印は船の封印箱に入れた」

「出せば使える」

「出さないことを、出せないふりにはしない。使えるが、使わない」

 アビナはカイルの右籠手を見る。

「王族は妙な言い回しをする」

「法官の近くにいると感染する」

「感染源の特定には証拠が必要です」とセレナ。

「ほら」

 アビナは井戸への測量札を許可した。

 墓地門では、黄緑の樹皮鎧を着た男が待っている。

 ベグ・サイ。

 森背国ラウガの樹守代表。

 背はカイルより低いが、腕が太い。右手の薬指と小指の先がなく、残った指で苗木の根を撫でる癖があった。

「墓地は共有地だ」と彼。

「ティルカの登録では」とアビナ。

「死者へ税を取るのか」

「墓地管理費は生者へ」

「昨日までラウガの道から入れた」

「今朝はティルカ側だ」

「だから共有と言っている」

「共有なら、誰が崩れた石を直す」

「直した者」

「記録がない」

「死者が領収書を書くか」

「二人とも」とエリア。「札を付けてよいですか」

「どちらの許可で」と二人。

「墓へ来る人の許可で」

 門の内側に、老女が一人いた。

 青い布と黄緑の布を半分ずつ縫った肩掛け。

 膝の上に花籠。

「わたしは、許すよ」と彼女。

「墓地の代表か」とアビナ。

「夫と娘と、喧嘩した姉が入ってる。三票かい?」

「死者は投票できない」

「なら、わたし一票」

「所属は」

「昨日はラウガ。今朝はティルカ。昼には知らない」

 老女は笑った。

「国が足元へ来るのは、訪ねる手間が省けていいねえ」

「問題を軽く扱わないでください」とアビナ。

「重くすると墓が沈む」

 エリアは墓地門へ札を結ぶ。

「お名前を記録してよいですか」

「イナ。姓は二つあるから、今日は要らない」

「二つ?」とハル。

「結婚前と後」

「普通じゃない?」

「国が違う。どっちを書いても、どっちかの役人が気にする」

「じゃイナ」

「そっちは」

「ハル」

「姓は」

「一つ。父さんがどこにいるかは二つの世界で不明」

「多いねえ」

「不明は増やさなくていい」

 大樹の根元では、許可を取る相手が分からなかった。

 ティルカは「座標上の所有」を主張する。

 ラウガは「育てた森」を主張する。

 ハダンは「木へ聞け」と言う。

「木、返事する?」とハル。

「お前より遅い」とハダン。

「待てるかな」

「十五分から始めろ」

 結局、木へ直接結ばず、落ちた枝へ札を付けた。

 固定点を作るために、誰の許可が要るか。

 その問いだけで、地図はすでに政治になっていた。

 測量の途中、ハルは荷物を頼まれた。

 歩く駅の係員から、発熱した子どもへ薬包一つ。

「住所」とハル。

「西根橋を渡って、青い屋根を三つ越え、赤い実の木の隣」

「番地」

「何だそれ」

「家の数字」

「家は動く」

「じゃ人の数字」

「人も動く」

「動かない目印」

 係員は考えた。

「母親が怒っている家」

「多くない?」

「今日は薬を待ってるから一番怒ってる」

「気持ちで配達するの?」

「お前、配達人だろ」

「元手伝い」

「なら走れ」

 ハルは走った。

 西根橋を渡る。

 青い屋根を三つ越える。

 赤い実の木。

 家がない。

 代わりに、羊に似た小獣の群れが草を食べている。

「住所が消えた!」

 エリアが遠くから叫ぶ。

「違います! 西根橋の接続先が変わった!」

「同じ!」

「原因が違う!」

 根橋は、二頭の巨獣の間に架かっている。

 片方が列の外へ出たため、橋の向こう側が朝とは別の背になっていた。

 道は同じ。

 行き先が変わる。

 ハルは橋を戻り、今度は赤い実の木を目印にせず、家の煙の匂いを追った。

 病気の子どもの母親は、確かに一番怒っていた。

「遅い!」

「住所が動いた!」

「言い訳も動くのか!」

「薬は止まってた!」

「なら早く出せ!」

 薬を渡す。

 母親は代金を払おうとした。

「係員へ」

「運び賃」

「いらない」

「無料の道は、次もあるか分からない」

 ハルは止まる。

 ミラなら、値段を聞く。

 ロロなら、修理代を取る。

「じゃ、帰り道を教えて」

「来た道」

「行き先変わる」

 母親は初めて笑った。

「煙が薄い方へ行け。皆が朝飯を終えた方だ」

「成立」

「何が」

「知り合いの口癖」

 帰り道、ハルは二度迷った。

 地図を見た。

 地図は正しかった。

 描いた時には。

 薬を届けた家には、住所札が三枚あった。

 一枚目はティルカ式。

 青い数字で、北根区十二。

 二枚目はラウガ式。

 樹皮へ、赤実木から三枝と刻む。

 三枚目は子どもの字だった。

『朝、煙が二本。昼、犬が寝る。夜、母が怒る』

「最後、住所なの?」とハル。

「一番変わらない」と母親。

「怒りが?」

「お前が遅れれば」

「俺基準になった」

 エリアは三枚を借り、地図の余白へ写す。

「数字は星位へ依存。樹木は伐採や移植で変わる。生活の徴候は人へ依存」

「どれが正確」とハル。

「用途ごとです。税なら数字。森の案内なら枝。薬の配達なら煙」

「全部書く?」

「全部を一列へ並べると読めません」

 彼女は家の記号を三層へ分けた。

 公的登録。

 相対地形。

 生活目印。

「地図が厚くなる」

「現実を薄くしない」

 そこへ、隣家の老人が杖を振った。

「うちは犬が死んだ。前の地図では犬の家だ」

 エリアの筆が止まる。

「更新されていない?」

「役所へ死んだ犬の届けを出すのか」

「住所目印なら必要です」

「犬の死を、住所変更と書くのか」

「……生活記録と住所更新を分けます」

「紙が増える」とハル。

「必要です」

「犬の名前は」

「バル」

「地図に?」

「本人が望むなら、旧目印として」

 老人はしばらく考えた。

「一年だけ残せ。その後は消せ」

「なぜ一年」

「私が道を間違えなくなるまでだ」

 地図は死者を永遠に保存するためだけのものではない。

 忘れる速度を、持ち主が選ぶためにも使える。

 エリアは『旧・バルが寝た家』と薄墨で書き、消去予定日を添えた。

「地図に期限」とハル。

「線にも必要かもしれません」

「国境にも?」

「今は飛躍です」

「でも書いた顔」

「顔に動詞を――」

 子どもが割り込む。

「お姉ちゃんの顔、地図に入れる?」

「入れません」

「笑う場所」

「入りません」

「ハルが変なこと言うと出る」

「統計が取れてる」とハル。

「取らないでください」

 エリアは三つ編みの中から地図針を一本抜き、子どもへ渡した。

「代わりに、今日つながっている根橋を描いて」

「明日違うよ」

「だから、今日の日付を付ける」

「明日は消す?」

「残して比べる」

「間違いも?」

「はい」

 子どもは嬉しそうに、橋を一本多く描いた。

「それ、ない」とハル。

「夢で渡った」

「事実と分けて」とエリア。

「夢の地図?」

「余白へ」

 彼女は却下しなかった。

 地図の余白は、嘘を書く場所ではない。

 まだ現実の使い道を持たないものを、現実と混ぜずに置く場所である。

 薬を届けた家には、地図がなかった。

 代わりに、壁へ細い縄が十二本掛かっていた。

 白。

 赤。

 茶。

 青。

「何の縄」とハル。

「行き先」と母親。

「地図?」

「暮らし」

 白い縄には、乾いた乳草。

 赤には、焼けた木片。

 茶には、土の塊。

 青には、小さな貝殻。

「白を持って外へ出ると、乳草の干し場へ。赤は共同窯。茶は墓。青は井戸」

「縄を道へ張る?」

「違う。匂いを覚える」

「じゃ縄、いらなくない?」

「子どもへ教える時に要る。年寄りが忘れた時にも」

 寝台の子どもが、毛布の中から言った。

「青、昨日は右」

「今日は左」と母親。

「井戸が動いた?」

「家と一緒に動いた。風が変わった」

 エリアが戸口で止まっている。

 病家へ勝手に入らない。

「入ってもよいですか」

「靴を脱げば」

 エリアは一瞬、ロングブーツを見る。

 路祖礼では、出発前に踵を鳴らす。

 測量では、靴底が地面の傾きを測る。

 それでも脱ぐ。

 床は温かい。

 下から巨獣の心拍が来る。

「この縄の記録法を、地図へ使わせてもらえますか」

「使うだけ?」

「改良するかもしれません」

「改悪なら戻せ」

「戻せる形で残します」

 エリアは白紙へ、道を描かない。

 井戸の匂い。

 窯の煙。

 墓地の土。

 干し場の乳草。

 方角ではなく、生活の目印を四つ置く。

「地図じゃない」とハル。

「地図です」

「線ない」

「線を引けば、今の接続を固定してしまう。目印だけ置き、今日の道を住民が結ぶ」

「毎日、描く?」

「毎日、結ぶ」

 子どもが寝台から手を伸ばし、青い貝殻と赤い木片の間へ短い糸を置く。

「今日は井戸から窯が近い」

「なぜ」とエリア。

「パン焼く日。皆、近道を踏んだから」

「道ができる?」

「毛が寝る」

 エリアは戸口の外を見る。

 人が歩いた場所だけ、長毛が同じ向きへ倒れている。

 地図は、先に道を命じるものではない。

 歩いた人の選択が、後から道になる場合もある。

「あなたの地図、正しい?」と子ども。

 エリアは、いつものように即答しない。

「描いた時点では、できるだけ」

「明日は」

「訂正します」

「毎日間違うの?」

「毎日、世界が変わるの」

「負け?」

 エリアの顎が少し上がる。

 ハルは笑わない。

「昨日の地図を守るために、今日を間違いと呼ぶ方が負けです」

 子どもは考え、薬を飲む。

「じゃ明日も来て」

「地図を?」

「薬。苦いから、怒る人が要る」

「それはお母様が」

「二人いると早い」

 母親が大きく笑う。

 エリアは右手で口元を隠した。

 帰り際、彼女はブーツを履き、踵を二度鳴らす。

 床の下から返る拍は、一つではなかった。