第222話 第三章「一夜で隣国」後編

 昼。

 エリアは三つの測量札を回収した。

 井戸札は、星位基準で東へ二百八十。

 墓地札も二百八十。

 大樹の枝札も二百八十。

 相対位置は同じ。

「一枚の背」と彼女。

「何が」とロロ。

「井戸、墓、村、森。全部、同じ個体の背にある」

「地面だろ」

「地面を一枚として扱っていた。でも継ぎ目の向こうは別の個体。国境石は外縁の別個体へ載っていた可能性がある」

「可能性じゃなく、底の鞍金具が毛流に合ってる。こっちの背獣じゃねえ」

 ロロは採取した長毛を地面の毛と並べる。

 色が違う。

 太さも。

 国境石の下の毛は、灰緑。

 今いる巨獣の毛は白緑。

「石は別の背に乗ってた」とハル。

「ええ。人間が一つの大地と思った群れは、複数の生物。個体同士が位置を変えれば、石だけ逆へ動いて見える」

「じゃ地図を十二枚にする?」

「まず個体を識別する」

「名前」とガンガ。

 彼は地面へ座っていた。

 国境石を運んだ罰として、両国の兵に囲まれている。拘束はされていない。拘束具を付けようとした兵の心拍が速くなり、ガンガが「怖いなら触るな」と言ったため、話が止まった。

「十二頭には名前がある」と彼。

「教えて」とエリア。

「地図へ閉じ込めるのか」

「区別しなければ、動きを一枚の誤差へ潰す」

「名を付ければ所有したと思う者もいる」

「なら、あなたたちが呼ぶ名を借ります。地図の所有者欄には書かない」

「地図に所有者欄があるのか」

「通常は」

「嫌いだ」

「私も、今少し嫌いになりました」

 ガンガがエリアを見る。

 彼女は地図の右下を指す。

『作成者 エリア・ルーンベルグ』

『測量権 ルーンベルグ公爵家』

 二行目へ線を引く。

『測量協力 現地共同』

「訂正は、線を消さないのか」とガンガ。

「間違えた跡も残します」

「弱く見える」

「完璧に見せる方が危険です」

 ガンガは、自分の胸を二度、地面を一度叩いた。

「中央の老獣がマドラ。今いる背。外を回る灰毛がシド。国境石はシドに乗っていた」

「シドは今どこ」

 ガンガが裸足を土へ押す。

「南西。群れと逆へ回っている」

「なぜ」

「聞けば分かる」

「分かるのは拍だけでしょう」とハル。

「また来た」

「ずっといた」

「配達で消えた」

「帰れた」

「地図で?」

「煙で」

 エリアの右眉が上がる。

「地図も見た」

「何回迷った」

「二」

「正直さを評価します」

「最近、セレナが増えた?」

「感染源の――」

「証拠はない」と全員。

 セレナが単眼鏡の縁を押した。

「雑な模倣です」

 エリアは十二頭の位置を、星位ではなく互いの距離で描き始めた。

 マドラ。

 シド。

 小柄な双子のルムとラナ。

 尾の長いペル。

 名前は、所有ではない。

 ただし呼び方は、見落とさないための道具にもなる。

 地図へ十二の輪ができる。

 そこへ家々、井戸、墓、森を重ねる。

「国境線は」とアビナ。

「まだ描けません」

「地図にないなら、ラウガ側は侵入していないことになるのか」

「逆です。分からない線を描かないだけ」

「空白はラウガに有利だ」とベグ。

「線を描けばティルカに有利かもしれない。だから証拠が揃う前に、地図を判決へしません」

「地図は判決ではない」とアビナ。

「では、空白を恐れる必要もありません」

 アビナは口を閉じる。

 エリアは地図針を一本、抜いた。

 午後、彼女は失敗した。

 避難用の固定線を描いたのである。

 走る森の速度が上がり始めたため、住民を安全な中央広場へ誘導する必要があった。

 エリアは広場から四本の路図を伸ばした。

 北村。

 苗床。

 井戸。

 墓地。

「緑の線に沿って!」

 住民たちは歩く。

 路図は、測った時点の地形へ正確に重なる。

 正確だった。

 そのため危険になった。

 マドラの背が左へ沈む。

 北村と広場を結ぶ根橋が、別の背獣ルムへ接続し直される。

 淡緑の線は橋板の上に残る。

 線を信じた家族が、そのままルム側へ渡る。

 ルムは群れの外へ離れ始めていた。

「止まって!」

 エリアの声。

 風で届かない。

 路図は道を示す。

 道が安全だと保証する声までは運ばない。

 彼女が線を切ろうとする。

 遅い。

 ハルが橋へ走る。

「道から出て!」

「安全路だろ!」と父親。

「今は違う!」

「地図にある!」

「地図が古い!」

「今描いた!」

「地面の方が早い!」

 ハルは子どもを抱かない。

 手を差し出す。

「走れる?」

「走れる!」

「じゃ俺の後ろ!」

 父親は荷箱を持つ。

 母親は乳児を抱く。

「荷箱、置ける?」

「薬だ!」

「持つ!」

 ハルが右肩へ担ぐ。

 左は使わない。

 橋が外れるまで六拍。

「エリア、今の道!」

「描き直す!」

「俺に合わせないで!」

 彼女の手が止まる。

 以前の彼女なら、ハルの走路を先回りして一本の最短線へしたかもしれない。

「家族へ聞く! 戻る、ルムへ渡る、橋下の待避籠! 三つ!」

 父親が叫ぶ。

「戻る!」

 母親。

「赤ん坊を揺らさない道!」

「待避籠が最小振動! ただし十五分分離!」

「籠!」

「子ども」とハル。

「お母さんと!」

「全員、籠!」

 エリアは橋下の吊り籠へ路図を描く。

 一本ではない。

 父親の荷物線。

 母親の歩幅。

 子どもの低い手すり。

 家族が籠へ入る。

 根橋が外れる。

 吊り籠はマドラ側へ残る。

 ルムは離れていく。

 緑の旧路図だけが、空中で切れた。

 エリアは自分の描いた線を見つめる。

「痛み」とハル。

「踵二。呼吸一」

「地図は」

「失敗」

「家族は助かった」

「線を信じたから危険へ入った」

「描き直したから出た」

「最初から地図へ合わせて動かすべきではなかった」

「じゃ次」

「地図側を動かす」

 彼女は旧路図を消す。

 消える前の線を、証羽が記録する。

 失敗は、なかったことにしない。

 夕刻。

 森全体が北へ傾いた。

 予告は、鳥だった。

 樹冠にいた青い羽獣が一斉に南へ飛ぶ。

 次に水桶の表面が北側へ盛り上がる。

 最後に、巨獣マドラの心拍が一拍飛んだ。

「伏せろ!」とガンガ。

 大地が立つ。

 村が滑った。

 家は基礎ごと毛根鞍へ固定されている。

 倒れない。

 だが、家と家の間の荷車、人、家畜、祭壇、乾燥棚が斜面を走る。

「全員、中央へ!」とアビナ。

「苗床を踏むな!」とベグ。

「人が先!」

「苗が死ねば冬に人が死ぬ!」

「今死ぬ人を!」

「後で死ぬ人も人だ!」

 二つの正しさが、坂の上で衝突する。

 エリアは地図を開く。

「路図、最大三十秒。踵二から開始。三で一度切る」

 自分から言う。

「何を守る」とカイル。

「人の退路。苗床は物理固定。墓地は門だけ。家畜は開放路」

「全部じゃない」とハル。

「全部を一本へ入れない」

 淡緑の線が、動く地面へ次々と生まれる。

 住民へ。

 荷車へ。

 家畜へ。

 異なる速度。

 異なる終点。

 ガンガは胸を叩かない。

 術で一拍へ揃えれば、走る群れの恐怖も揃う。

 代わりに鐘棍の布を外す。

 ゴン。

 一度。

「聞け!」

 命令ではない。

「マドラは左前脚を置く! 三拍後、傾きが戻る! 走れる者は二拍で止まれ! 走れぬ者を先へ!」

 身体の情報を言葉へする。

 ネムは太鼓で別の拍を打つ。

 トン、トン。

 間。

 トン。

 傾きの戻りではなく、橋の振動。

「根橋が切れる!」とロロ。

 四本の補助腕が、滑る工具箱をつかみながら橋の留め具へ飛ぶ。

「ピコ、留め金三!」

 機械鳥が「ピ、コ」と鳴き、くちばしから三本の金具を落とす。

「二本!」

「ピ!」

「三って言ったのに二本か!」

「一本ノクス!」

 ノクスが金具をくわえて走っている。

「返せ!」

「ノゥ!」

「それ、絶対否定!」

 ハルは滑ってくる共同炊事台へ飛び乗る。

 石窯が熱い。

 鍋が跳ねる。

「火、消す!」

 カイルの盾で空気を切り、炎を窯の内側へ押し戻す。

「王盾、鍋にも使う?」

「守る人数に料理人を含む!」

「鍋は?」

「夕食に含む!」

「命?」

「景気だ!」

 共同台が墓地門へ向かう。

 イナ老女が門の前にいる。

 花籠を抱え、動かない。

「イナ!」

「墓が」

「墓は走らない!」

「今日は国が走ってるよ!」

 ハルが右手を伸ばす。

「触る!」

「若い男が言うと軽いねえ!」

「今それ!」

「許す!」

 腰帯をつかむ。

 引く。

 左肩、三。

「三!」

「代わる!」

 エリアの路図が、ハルの足元からイナの歩幅へ移る。

 ハルは左腕を外し、腰索へ荷重を渡す。

 ガンガが炊事台を横から受け止める。

「重い!」

「石より?」とハル。

「鍋がある!」

「景気!」とカイル。

「何の話だ!」

 三拍。

 マドラの左前脚が雲の棚へ着く。

 傾きが戻る。

 村は止まらない。

 慣性で、北へ滑り続ける。

 毛の下で根が伸びる。

 土の表面が、巨大な絨毯のように数十リュムずれる。

 青い旗の見張り塔が、黄緑の縄線を越えた。

 共同炊事場。

 イナの家。

 井戸の半分。

 昨日までティルカ領とされた村が、ラウガ側へ入る。

 誰も石を運んでいない。

 誰も侵攻していない。

 地面が動いた。

「止まった」とハル。

「国は」とイナ。

 二国の旗が、同じ家の屋根へ向いている。

 アビナが地図を見る。

 ベグも。

「ここはティルカだ」と一人。

「ラウガだ」ともう一人。

 エリアは地図の国境欄を空白にした。

「今夜は」と彼女。

「住民が先です」

 一夜で隣国になった村に、夜が来る。

 家は同じ。

 食卓も。

 墓も。

 変わったのは、誰が明日の朝、税と命令を持って扉を叩くかだった。