第223話 第四章「逆へ歩く石」前編
建物の歴史は、屋根から語られやすい。
王宮なら尖塔。
寺院なら鐘。
学院なら門。
人は見上げる物へ意味を与える。
しかし、建物を立たせているのは、たいてい見えない下側である。
基礎。
杭。
地盤。
誰かの労働。
その下に何があるかを忘れた時、文明は「土台」という言葉で、踏んでいる相手を物へ変える。
翠獣環で国境石の下にあったのは、地盤ではなかった。
毛だった。
「石が逆へ歩いたんじゃない」
ロロは言った。
「歩いた方が面白い」とハル。
「事件はお前を楽しませるために壊れねえ」
「壊れてる?」
「壊されてる」
「何が違う」
「修理代の請求先」
朝の工房は、元は穀物乾燥小屋だった。
マドラの背中、共同炊事場の隣。
床は土だが、その下で巨獣の呼吸がゆっくり上下する。壁へ工具を掛けると、長い物から少しずつ右へ揺れる。
ロロは揺れを嫌わない。
止まった床で眠れないジルほどではないが、機械が動いている場所の方が安心する。音があれば故障を聞ける。完全な静けさは、機械が死んだ時にも来る。
ただし、生き物の音は多すぎた。
心拍。
肺。
筋。
根が擦れる音。
毛の中を小獣が走る音。
村の水車。
人の足。
「ノイズだらけだ」とロロ。
「全部、心臓の周りの音だ」とガンガ。
「機械なら悪い設計」
「獣は機械ではない」
「知ってる。説明書がねえ」
「生きている物に説明書を求めるな」
「壊した後で『自然です』って逃げる奴が言う言葉だ」
「お前は何でも直せると思っている」
「直せねえ物があるから、先に構造見るんだよ」
「見るだけで聞かない」
「音も見るって言う」
「言葉が壊れている」
「修理代は?」
「誰へ請求する」
「今のはお前」
ガンガは細い椅子へ座っていた。
正確には、座ろうとして椅子が悲鳴を上げたため、床へ腰を下ろしている。
その前に国境石の底部金具。
石そのものは外の広場へ横倒しにし、両国の見張りとセレナの証羽が囲んでいる。取り外せる鞍金具だけを、全員立会いで工房へ運んだ。
金具は半円形。
幅広い革帯と、硬化樹脂を塗った毛束受け。
地盤へ刺す尖りはない。
「こいつは杭じゃねえ」とロロ。
「昨日も言った」とハル。
「今は証明する」
四本の補助腕が動く。
一番目が金具を固定。
二番目が摩耗粉を採取。
三番目が灰緑の長毛を伸ばす。
四番目が、ノクスの前脚を金具から外す。
「証拠食うな!」
「ナァ」
「金属は食えねえ!」
「ノクス、味見じゃない」とハル。
「翻訳するな」
「触りたかった?」
ノクスはハルの耳を噛んだ。
「違うらしい」
「何も分かってねえ!」
ピコが梁から降りる。
真鍮と黒鉄の小さな機械鳥。
くちばしで金具を三度叩く。
カン。
カン。
コン。
「材質、三層」とロロ。「外は青銅。中に星鉄の薄板。内側は骨粉樹脂」
「骨」とガンガ。
「誰のかは分からねえ」
「調べるな」
「理由」
「この鞍は、背獣と人が最初に国境を結んだ時の物だ。骨は誓いに参加した獣のものかもしれない」
「だから調べない?」
「死者を部品へ分けるな」
「もう部品になってる」
「言い方を直せ」
「構造を知らずに直せって方が無理だ」
「直すな」
「壊れてる」
「国境が?」
「鞍が」
二人の言葉は、同じ場所を歩かない。
ロロは、ガンガが機械を偽物の心臓と呼ぶのを嫌う。
ガンガは、ロロが生体を構造へ分けるのを嫌う。
嫌う理由が、どちらにもある。
ロロにとって、構造を説明しない者は、壊れた時の責任を修理工へ押しつける。
ガンガにとって、生き物を部品と呼ぶ者は、使えなくなった時に交換する。
「骨の種類までは調べない」とセレナ。
工房の入口から言う。
「骨の種類は当件の中心に必要ありません。表面の摩耗、樹脂の年代差、毛の付着方向を記録します」
「誰と話してる?」とハル。
「独り言です」
「珍しい」
「記録上の整理」
セレナは左眼の単眼鏡を調整する。
「摩耗線は二方向。新しい擦過は南東から北西。古い擦過は北から南。ガンガが運んだ際の傷は側面のみ」
「つまり」とハル。
「ガンガが持つ前から、石は複数方向へ動いています」
「無罪?」とガンガ。
「国境石を無断で運んだ事実は残ります」
「別か」
「別です」
「便利な言葉だ」
「分けなければ、救助した人間は何をしても許され、罪を犯した人間は助けなくてよいことになります」
「長い」とガンガ。
「必要」とハル。
セレナがハルを見る。
「成長しました」
「今日二回目」
「前回と別の項目です」
ロロは摩耗粉を歯へ軽く当てた。
「やめろ」とガンガ。
「食ってねえ。振動」
「歯も身体だ」
「俺のだ」
「壊すな」
「心配?」
「道具が減る」
「人を道具って言った!」
「お前が先に言った」
「俺は自分で言うのはいい!」
「勝手だ」
「その言葉、国境石持った奴から聞きたくねえ!」
ネムが工房の隅で太鼓を一度鳴らした。
短い笑いに似ていた。
灰毛の背獣シドは、群れの南西を走っていた。
中央のマドラが北東へ進む間、シドは外側を大きく回り、見かけ上は逆方向へ移動する。
人間の隊列でも、曲がる時には外側が速く、内側が遅い。
ただし十二の地面が別々に歩く隊列を、都市の測量術は想定していなかった。
「シドへ行く」とロロ。
「何のため」とアビナ境務官。
「鞍の相手を確かめる。毛の色、受け痕、樹脂の残り」
「国境石を戻す位置の調査か」
「戻すとは言ってねえ」
「ならティルカの技官を同行させる」
「ラウガもだ」とベグ。
「人数増やすと背が沈む」
「国境調査へ片国だけは認められない」
「両国一人ずつ。俺、ガンガ、ネム。ハルは――」
「行く」
「聞いてねえ」
「先に言った」
「最近それで何でも通ると思ってる?」とエリア。
「身体条件。肩一、気分三、行く理由は石の位置とシドの傷確認」
「気分は測定対象外です」
「三って言ったから強い」
「撤退条件」
「肩三、根橋切断、シドが走行四割増し、誰かが嫌と言ったら相談」
「最後だけ曖昧」
「嫌の理由を聞く」
「聞いてから止まる?」
「危険なら先に止まる」
エリアは少し考え、頷く。
「私はマドラ側から個体間距離を測ります。路図は緊急時のみ。踵一」
「一緒に来ない?」
「地図の基準が二人とも動いたら比較できない」
「一人?」
「セレナとカイルがいます」
「俺もいます」とカイル。
「今、二番目に入れられた」
「証拠が先」とセレナ。
「王家の歴史が泣く」
「後世へ書いてください」
「後世、かわいそう」とハル。
同じ冗談は、何度でも使えばよいものではない。
ただし仲間内の冗談は、繰り返すことで生活になることもある。
問題は、言っている本人たちが先に飽きるかどうかだった。
「もうその話、景気が悪い」とカイル。
「本人が飽きた」とロロ。「終了」
シドへ渡る道は、地上になかった。
根橋が外れている。
歩く駅は別の個体へ接続中。
代わりに使うのは、毛下滑車だった。
幅二リュムの木製そり。
前後に櫛状の脚。
長い索を、マドラとシドの背毛へ掛ける。二頭が近づく時に索を巻き、離れる時の張力で滑る。
「生きた地面の間を、洗濯物みたいに渡る」とハル。
「洗濯物は自分で索を切らない」とロロ。
「切れるの?」
「切れる」
「先に言って」
「今言った」
「出発前に」
「今、出発前」
「乗った後!」
「乗る前に聞け」
「言い方がミラ」
「修理代を値段にする奴は似る」
そりには六人。
ロロ。
ハル。
ガンガ。
ネム。
ティルカの技官メーザ。
ラウガの樹医サム。
メーザは青い測量鎖を首へ巻き、何でも長さで答える。
サムは黄緑の薬籠を背負い、何でも匂いで答える。
「両国一人ずつと言った」とロロ。
「そうだ」とメーザ。
「どっちも口が二人分」
「技術説明には必要」
「樹の声を数字へするから長いんだ」とサム。
「匂いを説明と呼ぶな」
「長さは自然を切る」
「匂いは証拠を混ぜる」
「仲良い?」とハル。
「悪い」と二人。
「同じ答え」
「国境を越えた共通見解だな」とガンガ。
ロロが滑車を解放する。
「行くぞ! 手を索の内側へ入れるな! 立つな! ノクスは――」
黒い夜獣が、いつの間にかハルの配達鞄へ入っている。
「人数外」とハル。
「重量は入る!」
「四・八キロ」
「台帳みたいに言うな!」
索が張る。
そりが飛んだ。
地面と地面の間へ。
下から雲が吹き上がる。
マドラの背の森が遠ざかり、シドの灰緑の崖が近づく。
櫛脚が索へ火花を出す。
「速い!」
「速度、三十八!」とメーザ。
「数字だと余計速い!」
「感想では減速しない!」
「減速!」とロロ。
「今の感想?」
「命令!」
補助腕が制動縄を引く。
シドが一歩遅れる。
二頭の距離が予定より広がる。
索が鳴く。
ガンガが裸足でそり床を踏む。
「シド、右へ避ける!」
「何を!」
「下の雲に硬い流れ!」
「揺れ、四拍!」
ガンガは胸を叩かない。
地面へ直接触れていないため、万獣鼓動は使えない。
聞けるのは索を通る振動だけ。
ネムがそり床へ太鼓を伏せる。
異なる二つの大拍が、薄い皮を押す。
長。
短。
長。
短。
ネムが指を二本立てる。
「二頭の間隔、次で縮む」とガンガ。
「ネムが言った?」とハル。
「俺も聞いた」
ネムの太鼓。
短、長。
「聞いた。賛成ではない」とハル。
「覚えたのか」
「エリアが言ってた」
ネムは札へ書く。
『縮む。ガンガの説明は遅い』
「俺が読めないと思って書いているな」とガンガ。
『読むのが遅いだけ』
「きょうだい仲、いい?」とハル。
「悪くない」とガンガ。
ネムは休符を打つ。
「聞いた。賛成ではない」
「便利に使うな」とガンガ。
シドが跳ぶ。
灰緑の背が下へ消える。
一拍後、上へ戻る。
そりは空中で大きく弧を描き、シドの毛へ櫛脚を突き立てた。
「生体へ直接刺すなって!」とハル。
「先が丸い! 毛束を掴むだけ!」
「刺さって見える!」
「見た目へ修理代出るか!」
着地。
六人と一匹が、灰毛の斜面へ滑る。
ガンガが国境石より先に、そりを片腕で止めた。
「重い」とロロ。
「お前たちがな」
「自分を数えろ!」