第224話 第四章「逆へ歩く石」後編

 シドの背は、マドラと違った。

 森が低い。

 土が薄い。

 灰緑の長毛が地表へ多く出ている。

 人家はない。

 代わりに境界施設が並ぶ。

 見張り柱。

 税の札棚。

 検疫柵。

 そして、国境石を載せていた空の鞍台。

「ここ」とメーザ。

 測量鎖を伸ばす。

 半円の受け痕。

 硬化樹脂。

 抜けた毛。

 ロロが持参した金具を重ねる。

 合う。

「一致」とセレナの伝羽へ記録を送る。

 完全ではない。

 鞍金具は共通規格かもしれない。

 ロロは周囲を見る。

 受け痕の北側へ深い摩耗。

 南側へ浅い。

 石は長期間、走行方向へ引かれていた。

 さらに、鞍台そのものが毛根の上を少しずつ滑っている。

「地盤じゃない」と彼。

「鞍だ」とガンガ。

「今さら俺の言葉取るな」

「古くから鞍だ」

「じゃ最初に言え!」

「見れば分かると思った」

「それ、都市人が一番嫌うやつ!」

「都市人なのか」

「下面区は都市だ!」

「下にあるのに?」

「上だけが都市じゃねえ!」

 ロロの補助腕が全部上を向いた。

 怒りである。

 ガンガは少し驚き、次に真面目な顔で言う。

「悪かった」

 ロロの腕が二本だけ下がる。

「何に」

「下を、上の付属と思った」

 四本とも下がった。

「……謝罪は修理代にならねえ」

「何を払う」

「今は鞍台持て」

「成立」とハル。

「ミラの真似すんな」

 ガンガが鞍台を持ち上げる。

 下には、土ではなく毛根へ広く荷重を分ける編み帯。

 国境石の重さを一点へ刺さず、百以上の毛束へ逃がす構造。

「これを作った奴は、下が生きてるって知ってた」とロロ。

「今の役人は?」

「知識を名前だけで残した。『国境基礎』って帳簿に書いて、基礎だと思った」

「古い言葉が壊れた?」とハル。

「用途を忘れた」

「直せる?」

「言葉は俺の担当じゃねえ」

「構造は」

「直せるかもしれねえ。でも、直してどこへ置く」

 ハルは答えない。

 それは機械の問題ではない。

 メーザが空の鞍台へ青い旗を立てる。

「一致確認。国境石を原位置へ戻す」

 サムが旗を抜く。

「原位置ではない。シドは昨日から三百リュム移動した」

「鞍台が位置だ」

「獣の背は土地ではない」

「ラウガは昨日まで土地として課税した」

「ティルカも井戸を座標で所有した」

「今は石の話だ」

「石が載る獣の話だ」

 二人の言葉がまた衝突する。

 その時、空に二色の小艇が現れた。

 青い艇が三。

 黄緑の艇が三。

「調査員を迎えに来た」とメーザ。

「武装して?」とハル。

 小艇の船首に、太い杭射出器。

 地面を固定するための境界杭。

 都市で使えば、岩盤へ打つ。

 翠獣環で使えば、その下には毛と皮膚がある。

「撃つな!」とロロ。

 声より先に、青い艇が杭を放った。

 黄緑の艇も。

 二本。

 一本は空の鞍台の左。

 一本は右。

 鋼杭が土を貫く。

 根層を破る。

 灰緑の毛が爆ぜる。

 その下へ、深く入った。

 シドの心拍が止まる。

 一拍。

 次の拍が、爆発した。

 地面が跳ねる。

 森が横へ倒れる。

「刺さった!」とハル。

「見れば分かる!」とロロ。

「どこまで!」

「皮下!」とサム。「抜くな、返しがある!」

「じゃどうする!」

「切る!」

「何を!」

「杭の頭!」

 シドが吠えた。

 音は耳から入らない。

 足裏から骨へ来る。

 空が一度、下へ落ちた。

 巨獣は群れの進行方向と逆へ急旋回する。

 六隻の小艇が係留索へ引かれ、互いにぶつかる。

「索を切れ!」とロロ。

「国境装備を破壊するな!」と青艇。

「今、国境が装備を振り回してる!」

「獣を止めろ!」と黄緑艇。

「止めるな!」とガンガ。「痛みから逃げている!」

「このまま群れへ衝突する!」

「道を開けろ!」

 ガンガが胸を二度叩く。

 ハルが腕をつかむ。

「術?」

「シドへ逃げ道を伝える」

「周りの恐怖も伝わる」

「分かっている」

「先に何するか言って」

 ガンガは一拍、待つ。

「シド一頭へ、右が空いている拍を送る。人と他の獣は群れへ入れない」

「できる?」

「近い大拍だけ選ぶ」

「失敗したら」

「術を切る。ネムが別拍を打つ」

 ネムが頷く。

「じゃやる」とハル。

「許可か」

「役割確認」

 ガンガの角へ緑の星痕。

 万獣鼓動が広がる。

 今回は一つへ揃えない。

 シドの巨大な拍へ、ガンガ自身の胸を近づけるだけ。

 右。

 空き。

 右。

 空き。

 命令ではなく、情報の形をした反復。

 シドの頭部が右へ向く。

 その瞬間、青艇の兵士が杭の係留索を巻いた。

「逃がすな! 石の基点が失われる!」

 杭がさらに食い込む。

 シドの恐怖が、ガンガの胸へ逆流した。

 彼の顔から血の気が消える。

「切れ!」とネム。

 ガンガが術を止める。

 膝をつく。

「頭痛」とハル。

「四。吐き気三」

「休め!」

「シドが――」

「聞く人が倒れたら聞けない!」

 ロロは杭へ走る。

 四本の補助腕で頭部を挟む。

「返し杭。引けば裂く。頭を切って、皮下側を残す。後で樹医が分解」

「国境杭は星鉄だ!」とメーザ。

「知ってる!」

「通常鋸では――」

「普通の修理工に見えるか!」

「十四歳に見える!」

「年齢で切れ味決まるか!」

 再機〈リメイク〉の星痕が、ロロの左手から工具へ走る。

 壊れた物を元へ戻す能力ではない。

 残っている構造を読み、別の用途へ組み替える。

 杭の頭を切るため、青艇の係留輪を鋸の回転軸へ変える。

 敵の装備が、自分の杭を切る道具になる。

「費用!」とロロ。

「今か!」とハル。

「両国半分!」

「合意してない!」とメーザ。

「じゃ杭打った国が全額!」

「双方だ!」

「なら半分!」

「論理が乱暴だ!」

「杭よりは浅い!」

 星鉄が白く削れる。

 火花。

 シドが跳ぶ。

 ロロの身体が杭から離れかける。

「腰!」

 ハルが索を投げる。

「触る!」

「聞く前に投げてる!」

「つかむかはロロ!」

 補助腕の一本が索をつかむ。

「成立!」

「だから真似すんな!」

 一本目の杭頭が落ちる。

 係留索が外れ、青艇が空へ放り出される。

 カイルの深紅の盾が遠隔路図の先に展開する。

 艇を止めない。

 衝突角だけを変え、雲へ逃がす。

「守る対象、艇上八!」

「敵味方」と青艇の兵。

「今は落下者だ!」

 二本目。

 黄緑艇の兵が自分で巻き取りを止める。

「切ってくれ!」

 ロロが鋸を当てる。

 こちらは同意がある。

 同意があっても、星鉄の硬さは減らない。

 ピコが冷却油を落とす。

 ノクスが油瓶を追う。

「食うな!」

「ノゥ!」

「今回は油!」とハル。

「翻訳より止めろ!」

 杭頭が切れる。

 シドの背から六隻の拘束が外れる。

 巨獣は右へ飛ぶ。

 マドラ群との衝突を避ける。

 代わりに背面が大きく傾く。

 空の鞍台。

 調査道具。

 国境施設。

 全てが灰毛の斜面を滑る。

 ロロは杭の残りへしがみついた。

 手を離せば安全路へ飛べる。

 離さない。

「ロロ!」

「残りを固定する! 中で動いたら裂ける!」

「サムに任せろ!」

「固定具がねえ!」

「作れ!」

「今作ってる!」

 再機の光。

 国境石の鞍金具を分解。

 毛根へ重さを散らす編み帯を、杭の周囲へ巻く。

 人間の境界を支えていた道具が、境界に傷つけられた獣の包帯になる。

「ガンガ、持て!」

 ガンガは頭痛で片目を閉じたまま立つ。

 鞍台を押さえる。

「これは直すのか」

「治すまで壊れ方を増やさない!」

「同じではない?」

「違う! 治すのはサムとシドだ!」

 樹医サムが、初めてロロを見た。

「機械屋が言うか」

「俺が治したって言ったら、次も全部俺に任せるだろ!」

「賢い」

「修理工は責任の押し付け方に詳しい!」

 サムが傷口へ薬樹脂を入れる。

 杭の返しを皮下で一枚ずつ折る。

 メーザは測量鎖を包帯の幅へ使う。

「鎖、切るぞ」とロロ。

「ティルカ国有だ」

「シドの皮膚とどっちが高い!」

 メーザの口が止まる。

「切れ」

 ロロは鎖を切る。

 国有測量具が、巨獣の包帯になる。

 シドが速度を落とすまで、二時間かかった。

 止まらない。

 痛みのある生物へ、人間の調査が終わるまで静止を命じることはできない。

 ロロたちは毛下滑車を使わず、小型艇でマドラへ戻った。

 ガンガは船底へ寝ている。

 靴は履かない。

 代わりに耳栓をし、目を閉じ、他の心拍を減らす。

「痛み」とハル。

「頭三。吐き気二」

「減った」

「聞かなくても分かる」

「言葉で確認」

「お前はしつこい」

「最近、そうすることにした」

「誰のため」

「俺のも。相手のも」

 ガンガは目を開けない。

「ネムを聞き落とした」

「うん」

「聞こうとした」

「うん」

「違うのか」

「聞こうとしたことと、聞けたことは別」

「星律官の病気が移ったな」

「証拠ない」

「全員同じ冗談を使うな」

「ガンガも飽きた」

 ネムが太鼓を一度鳴らす。

 少し笑っている。

 マドラへ戻ると、国境石の周囲に両国の兵が集まっていた。

 シドの傷の報告は、伝羽で先に届いている。

 誰が先に杭を撃ったか。

 どちらの杭が深かったか。

 命令者は誰か。

 争いは、すでに次の責任線を引き始めている。

 セレナは、二本の杭を別々に証拠袋へ入れた。

「双方が撃った事実」と彼女。「同じ責任とは限りません。発射時刻、深さ、停止命令への反応を分けます」

「分ければ戦争が細かくなる」とハダン。

「混ぜれば、誰も自分の行為を見ません」

「決めるのが遅れる」

「急いで誤った責任を固定すれば、次の救難協力を壊します」

「救難中に評議をして死んだ群れを見た」

「即断で追放された者の記録もあります」

 ハダンの右手が杖へ強く乗る。

 セレナは、それ以上言わない。

 事実を知っていることと、今その傷を公に開く権利は別である。

 ロロは国境石を見る。

 石の底の鞍金具は外されている。

 立てられない。

 それでも両国の兵は、石の左右へ立つ。

「逆へ歩いた理由」とエリア。

 彼女は十二頭の動的地図を広げる。

「国境石が載っていたシドは、群れの外周を反時計回りに移動した。中央のマドラを基準にすれば、石だけが西へ動く。さらに換毛期の毛流で鞍台が北西へ滑った。ガンガが動かす前からです」

「盗難ではない」とハル。

「少なくとも、夜間の移動量の大半は人為的運搬では説明できません」

「大半?」

「ガンガが最後に運んだ分は人為です」

「そこ、残す?」とガンガ。

「残します」

「石の無実は」

「石には法的責任能力がありません」

「固いのに」

「硬度と責任を結ばないでください」

 ハルが笑う。

 エリアも、右手で口元を隠す。

 笑っている間にも、シドの傷から血と樹液に似た透明液が流れている。

 森を守ると主張した国。

 井戸を守ると主張した国。

 両方が、自分の国境を固定するために、国土そのものへ杭を打った。

 石は歩かなかった。

 歩いていたのは、石を載せた生き物だった。

 そして人間は、動く大地を止めようとして、初めてその皮膚を傷つけたのである。