第225話 第五章「水場の値段」前編

水を所有するという発想は、乾いた土地で生まれる。

 雨の多い場所では、水は空から落ちる。

 川の多い場所では、水は勝手に通る。

 だが、一杯の水を得るため井戸を掘り、石を積み、縄を替え、濁りを取り、夜ごと見張る土地では、人は言う。

 これは自分たちの水だ、と。

 半分は正しい。

 掘った者の労働を、誰でも使えるという美しい言葉で消してはならない。

 もう半分は、喉が渇いた者の側にある。

 水は、所有者だけを潤すために流れ方を覚えたわけではない。

「王子に決めてもらう」

 アビナ・トール境務官が言った。

「断る」とカイル。

「まだ内容を言っていない」

「だから断る。内容を聞いてから断ると、条件交渉だと思われる」

「他国の王太子が、国境紛争の仲裁を拒むのか」

「仲裁はする。判決は出さない」

「同じでは」

「判決は、俺の言葉で終わる。仲裁は、あなたたちの次の言葉を作る」

「王族は妙な言い回しをする」とアビナ。

「昨日も聞いた」

「同じ評価だから繰り返した」

「悪事が繰り返される限りは」とセレナ。

 カイルが振り返る。

「それは君の台詞だろう」

「言葉へ所有権を主張しません」

「今日は国境の話なのに」

「所有権を増やさないでください」

 会議場は、マドラの背に張られた円形天幕だった。

 円形なのは、上座を作らないためだという。

 実際には入口の正面へ最も大きな椅子があり、ハダンが座っている。

「上座ある」とハル。

「年寄りの膝へ配慮した椅子だ」とハダン。

「一番大きい」

「尻も大きい」

「本人が言ったら反論できない」

 ガンガは椅子を使わず床へ座る。

 昨日、細い椅子を一脚壊しかけたためである。

 ネムは輪の中心ではなく、出口近く。

 耳栓は青灰。

 議題ごとに色を替えるという。

 ティルカ側。

 アビナ。

 井戸守三名。

 境界兵の代表。

 水運商人。

 ラウガ側。

 ベグ。

 樹医サム。

 苗床の代表。

 墓地へ通う住民。

 森道を使う牧畜民。

 全員を呼べば、全員を聞いたことになるわけではない。

 呼べる者は、会議へ来られる者である。

 乳児を抱く者。

 夜勤の者。

 兵に顔を見られたくない者。

 文字を読めない者。

 所属を答えたくない者。

 そういう人々は、円の外へ残る。

「議題」とハダン。「国境石の仮置き。シドの治療費。杭を撃った責任。井戸の利用。村の所属。五つ」

「多い」とハル。

「生きていると問題は増える」

「減らす?」

「混ぜるな。混ぜれば一つに見えるだけだ」

 セレナが少しだけ頷く。

「長老が増えた」とハル。

「元から多い」とカイル。

「俺の周り、正確な人が増殖してる」

「あなたが粗いから均衡します」とエリア。

「世界の調整弁?」

「不具合の発生源」

 ロロが天幕の端で請求書を書く。

「今のは俺の分野だ」

 最初の二時間で、何も決まらなかった。

 国境石の仮置き場所を決めるには、仮の国境が要る。

 シドの治療費を分担するには、どちらの杭がどれだけ傷を深くしたかが要る。

 責任を決めるには、発射命令を出した者と、停止命令を聞いた者の証言が要る。

 村の所属を決めるには、国境が要る。

 井戸の利用だけは、人が渇くため待たない。

「水から」とカイル。

「石が先だ」とアビナ。

「石の位置で水の所有が決まる」

「だから、水を先へ分ける」

「所有を無視するのか」

「所有、維持、利用、救命を一語へしない」

 カイルは円の中央へ四枚の板を置く。

『誰が作ったか』

『誰が維持するか』

『誰が使えるか』

『誰が止めてはならないか』

「最後は何」とベグ。

「火事、病気、渇死。緊急時に、水を閉じられない範囲」

「閉じれば盗難を防げる」と井戸守。

「閉じた結果、人が死ねば水は残る」

「だから何だ」

「水を守った話にはなる。人を守った話ではない」

 カイルの声から冗談が消えている。

 右籠手を左拳で叩かない。

 衝動ではなく、考えている。

「青脈井を掘ったのは」と彼。

「ティルカ」とアビナ。「百十九年前。岩盤ではなく、マドラの背の水嚢へ自然に開いた裂け目を、石輪と濾過根で保護した。井戸守の家系が四代、崩れを直した」

「費用記録」

 帳簿が出る。

 縄。

 石。

 濾過布。

 青苦砂。

 夜警の食費。

 細かい。

「ラウガの関与」とカイル。

 ベグが別の帳簿を出す。

「井戸の周囲へ森を育てた。根が雨を抱え、土を落とさず、水温を下げる。七十年前の乾季、ティルカが木を伐りすぎて井戸が半分枯れた。植え直したのはラウガ」

「費用」

「金では残していない。苗三千。労働二万日。死亡二」

「死亡?」

「根崩れ」

 アビナが言う。

「その二人へ補償したのはティルカだ」

「補償は仕事を買い取らない」

「買い取ったとは言っていない」

「国の記録では『完了』だ」

「会計上の完了」

「人の死へ会計の語を付けるな」

「記録しなければ、次は補償もない」

 双方が正しい。

 正しい言葉同士は、間違った言葉より仲が悪いことがある。

 ハルは四枚の板を見る。

「作った、は両方?」

「井戸そのものはティルカ」とアビナ。

「水が溜まる森はラウガ」とベグ。

「維持も両方」

「役割が違う」

「使う人は」

「登録住民」とアビナ。

「森道を通る群れ」とベグ。

「登録ない人」

「一日札を買う」

「金ない人」

「労働」

「病気で働けない人」

「救済申請」

「字を書けない人」

「代筆」

「代筆してくれる人がいない人」

「……例外審査」

「審査する人に会えない人」

「ハル」とエリア。

「何」

「終わりのない問いで相手を負かすのは、解決ではありません」

「負かしたいんじゃない」

「では、どこで制度が切れるかを記録して」

 ハルは板へ書く。

『申請へ来られない人』

「字、前より上手い」とロロ。

「こっちの文字、覚えた」

「『人』が荷物札みたい」

「配達の字だから」

「褒めてねえ」

 ネムが小さな札を一枚、四板の外へ置く。

『使わない者』

「水を使わない?」とカイル。

 ネムは首を横へ振る。

 次に書く。

『会議で話さない者』

 ハダンが眉を上げる。

「今は井戸の議題だ」

 ネムは休符だけを打つ。

「聞いた。賛成ではない」とハル。

「便利にするな」とガンガ。

「今は合ってる?」

 ネムは頷く。

「初めて公認」

 カイルは五枚目の板を置く。

『今、答えない者』

「何の権利」とアビナ。

「後で異議を言える余地」

「決定が遅れる」

 ハダンの声。

「乾季は待たない。地面が割れる時、全員の返事を待てば、返事をする口ごと埋まる」

「期限を決める」とカイル。

「期限内に話せぬ者は」

「同意と数えない」

「反対とも数えないなら、どう決める」

「今は仮の利用規則。水を止めない。費用と負担を後で調整」

「先に配れば、払わぬ者が増える」

「払えない者と払わない者を分ける」

「誰が」

「それを決める仕組みを、今から」

「遅い」

 ハダンの杖が土を叩く。

「王が一人、決めれば一拍だ」

 全員の目がガンガへ向く。

 ガンガは床へ裸足を置く。

 天幕の外。

 待つ人々。

 怒り。

 渇き。

 井戸守の緊張。

 森守の疲れ。

 多くの拍が聞こえる。

「ガンガ」とハダン。「第一鼓候補として答えろ。井戸はどちらのものだ」

 ガンガの胸が、一度大きく動く。

「聞いてから」

「もう聞いた」

「外の者を」

「何人」

「全員」

「全員が同時に揃うまで、喉は乾かぬのか」

「揃えるとは言っていない」

「決めぬことも決めたことだ」

「急いで小さい拍を消したことがある」

「遅れて大きい群れを失ったことがある」

 二人の過去が、現在の井戸へ向かい合う。

 ガンガはハダンを恨んでいない。

 ハダンも、ガンガを支配したいだけではない。

 彼女は知っている。

 災害は討論の美しさを待たない。

 彼は知っている。

 即断は、助かった人数で消された一人を作る。

「王になれば、迷わなくなる?」とハル。

 ガンガが彼を見る。

「ならない」

「じゃ、王の答えって何」

「迷っても決めることだ」とハダン。

「決めた後に、迷わなかった顔をしないこと」とカイル。

 ハダンが王太子を見る。

「お前は王か」

「まだ太子だ」

「候補ばかりだな」

「完成品の王は、たいてい歴史の中だけにいる」

「神の視点か」とハル。

「誰の視点だ」

「なんとなく」

 四枚の板を置いた後、カイルは会議を止めた。

「現物を見る前に、人を見よう」

「井戸へ行くのでは」とアビナ。

「井戸へ並んでいる人を」

 青脈井の配水列は、二つに分かれていた。

 ティルカ登録者。

 その他。

「その他、広い」とハル。

「一日札、ラウガの森番、移動群れ、旅人、未登録」と井戸守。

「五つを一つへ」

「料金が同じだ」

「事情は違う」

「水は同じ」

「払える?」

「そこは本人の問題だ」

 列の先頭には、乳児を抱いた女性がいた。

 ティルカの登録札を持つ。

 ただし昨日、家がラウガ側へ滑ったため、札へ赤い停止印を押されている。

「どちらへ並ぶ」とハル。

「朝から両方」と女性。

「水は」

「まだ」

「乳児は救命優先」とカイル。

「病気ではない」と井戸守。

「渇く前に飲ませる」

「全員がそう言う」

「なら年齢と状態で順を」

「登録が先だ」

「登録は水分量を示さない」

 カイルは女性へ聞く。

「一日に必要な量は」

「私一杯。子に一杯。布を洗う水が半杯」

「布は飲まない」と井戸守。

「洗わなければ皮膚がただれる」

「医療用か」とセレナ。

「病気になる前は医療じゃないのか」と女性。

 セレナの筆が止まる。

「予防衛生として別記します」

「別記すると水が出る?」

「規則を変える証拠になります」

「今は」

 カイルが自分の水札を差し出した。

「私の一杯を」

「王子の慈善?」とアビナ。

「個人分の譲渡」

「前例になる」

「なるよう記録する」

「王子だけが譲れる制度になる」

 女性が札を取らなかった。

「王子の水を飲んだ子と呼ばれる」

 カイルは手を引いた。

「失礼した」

「水は欲しい」

「では、私からでなく規則から出す」

 彼は四枚目の板へ書く。

『病気になる前に止めてはならない水』

「救命の範囲が広がりすぎる」と井戸守。

「狭すぎれば、病気になってから高くつく」とロロ。

「修理と人を同じにするな」

「壊れる前の保守を削ると、壊れた後に請求が来る。人の方が高い」

「値段で命を」

「値段を無視した制度が、金ない奴から止めるんだよ!」

 ロロの声がひっくり返る。

 自分の過去へ怒っている。

 列の三番目には、片脚の古い荷獣がいた。

 飼い主はラウガの森番。

「家畜は体格別」と井戸守。「この大きさなら五杯」

「三杯しか払えない」と飼い主。

「三杯分」

「二杯不足で倒れれば、荷を運べない」

「それは商売の損失」

「薬草を運ぶ」

「では診療所が払う」

「診療所はティルカへ納税していない」とアビナ。

「水の前で税が増える」とハル。

 ガンガが荷獣の前へしゃがむ。

 心拍を聞かない。

 目を見る。

 口の泡。

 脚の震え。

「五杯では足りない。七」

「王候補の判定か」と井戸守。

「獣医として」

「資格札は」

「ない」

「なら無効」

 サムが荷獣の歯茎を押す。

「七。脱水二。脚の痛みで呼吸が速い」

「樹医の資格は森用だ」

「荷獣は森を歩く」

「分類の話をするな!」とハル。

「お前が言うな」と全員。

 列の後ろで、ネムが太鼓を一度打った。

 井戸守は苛立つ。

「何だ」

 ネムは板へ書く。

『並べない者は』

「誰が並べない」とハル。

 ネムは遠くの斜面を指す。

 傷ついたシド。

 その背へ、水を取りに来ることはできない。

 井戸守は言う。

「背獣冷却は共同費だ」

『誰が申請』

「管理者」

『今、管理者は国境争い』

 アビナとベグが同時に口を閉じる。

「列へ来ない者は、存在しないようになる」とカイル。

「水を配るだけの話だ」と井戸守。

「だから見える。制度は窓口へ来た者だけを人にしやすい」

「では全員の家へ届けるのか」

「できない。だから、来られない者を申告する役と、申告がなくても見る役を分ける」

「役が増える」

「現実に必要な仕事を、ないことにしない」

 ハルは女性の赤い停止印を見る。

「登録が止まっても、喉は止まらない」

「名言みたいに言うな」とアビナ。

「標語なら短い」

「法は標語ではない」

「でも水場で読むのは長い法じゃない」

 カイルは四枚の板を、六枚へ増やした。

『本人が来られない時、誰が知らせるか』

『知らせる者がいない時、誰が見るか』

「増やしすぎだ」とハダン。

「減らすなら、どの人を列から消すか決めてください」

 ハダンは乳児、荷獣、遠いシドを見る。

 塩粒を一つ、板の上へ置いた。

「消さん。だが災害時は六枚読めん」

「平時に短い手順へします」

「誰が」

「一人ではなく」

「候補ばかりだな」とハダン。

「完成品は歴史の中だけです」

 今度、彼女は短く笑った。

 乳児へ最初の水が渡る。

 王子の水ではない。

 規則へ新しく開けた、予防の一杯だった。