第226話 第五章「水場の値段」後編

 会議は井戸の前へ移った。

 現物を見るためである。

 青脈井は、地面へ開いた穴ではなかった。

 直径十リュムの石輪。

 内側へ青い鉱砂を焼き付けた濾過壁。

 底から数百本の白い根紐が伸び、マドラの背の水嚢近くまで届く。雨と霧を吸い、根を通して石輪へ集める。

 人が使う水。

 森が使う水。

 マドラの皮膚を冷やす水。

 三つが同じ井戸へ入る。

「運べる」とロロ。

 井戸守が睨む。

「何を言った」

「石輪と根紐は分解式。八十人いれば、鞍台ごと別の背へ移せる」

「井戸を動かす?」

「ここが動いてるのに、井戸だけ動かないと思う方が変だろ」

「百十九年、この場所にある」

「星位では毎日違う」

「マドラの背の、この場所だ」

「なら所有契約の座標は何だ」とセレナ。

 彼女は古い羊皮紙を開く。

『北環三百十二、東環九十六。青脈井および周囲五十リュムをティルカ管理領とする』

「座標が書いてある」とハル。

「百十九年前の星位です」とエリア。「現在、同じ座標は雲の中。青脈井はそこから四千リュム以上移動」

「契約は無効か」とベグ。

「即断しません」とセレナ。「契約当事者が座標を何のために書いたか。井戸本体を指したのか、当時の固定観測所へ対する位置だったのか。後世の更新慣行も必要です」

「長い」とハダン。

「水は待ちません。だから法的所有の確定前に、救命利用を止めない仮処分を提案します」

「王国法か」

「提案です。権限ではない」

 カイルが石輪へ手を置く。

「水の値段を見せてくれ」

 井戸守が木札を出す。

 登録住民 一日二杯まで共同税内。

 追加一杯 二ルク。

 旅人 一杯三ルク。

 家畜 体格別。

 背獣冷却 共同費。

「高い?」とハル。

「王都の水よりは」とエリア。

「王都、水に値段あった?」

「家の使用料へ入っています」

「知らなかった」

「払ったことがないでしょう」

「水道あると忘れる」

「忘れた人が無料と言いがちだ」とロロ。

 ハルは三ルクを出そうとする。

 金貨。

 エリアが手を押さえる。

「それは三百ルク」

「まだ桁、難しい」

「ずいぶん長くかかっています」

「気長に覚える」

「何の話?」とガンガ。

「こっちの事情」

 カイルが自分の財布を探す。

 ない。

「また持ってない」とハル。

「王室勘定を使わない方針だ」

「借金」

「後で返す」

「父さんみたいな言い方やめて」

 カイルの笑いが止まる。

「悪い」

「いや、こっち」

「返す日を言う。王都帰還後三日以内。返せない場合は理由と新しい日を連絡」

「細かい」

「君の母上基準だ」

「なら貸す」

 ハルは小銭を選び直す。

 二人で一杯。

 水は冷たい。

 少し苦い。

「青苦砂」と井戸守。「虫除けにもなる」

「何の虫」とセレナ。

「根を食う小虫。昔からいる」

「国境石の下の白い粒と関係は」

「見ていない」

「後で試料を」

「水の話へ虫を混ぜるな」とアビナ。

「水と生態を分けた結果が現在かもしれません」

「仮説です」

「だから調べます」

 ベグが井戸水を掌へ取り、匂いを嗅ぐ。

「薄い」

「何が」とハル。

「青苦砂」

「鉱物が?」

「雨期なら舌が痺れる。今日は苦みが弱い」

 井戸守が反発する。

「濾過壁は先月補修した」

「砂の量は」

「規定どおり」

「水が多い?」

「水位は平年より二割低い」

「なら濃くなるはず」とセレナ。

 井戸守が黙る。

 エリアが石輪の内側へ測定糸を下ろす。

「現在水位、六・三リュム」

「朝は七・一」とアビナ。

「八時間で〇・八」

「住民利用では減りすぎる」とベグ。

「ラウガが夜間に抜いた」と青い兵士。

「ティルカが記録を偽った」と黄緑の兵士。

 言葉は、事実より先に敵を見つける。

「誰も近づくな」とセレナ。

 証羽を井戸上へ配置する。

「水面、根紐、流入、流出を記録。採水は一回。両国立会い」

「井戸へ証拠札を入れるな」と井戸守。

「水面へ触れません」

「黒い羽が不吉だ」

「色は証拠能力に影響しません」

「気分には」

「その部分は記録外です」

 ガンガが石輪へ裸足を当てる。

「下で、拍が速い」

「マドラ?」

「マドラと、もっと小さいもの」

「心拍で水量は分かる?」とハル。

「分からない」

「正直」

「お前の病気が移った」

「証拠――」

「もういい」と全員。

 ノクスだけが「ノゥ」と鳴いた。

 夕方、仮の水利用規則が決まった。

 一、所属を問わず、一人一日二杯。

 二、救命、治療、乳幼児を先。

 三、家畜と背獣の必要量を樹医と井戸守が共同算定。

 四、追加費用は後日。今は水を止めない。

 五、所有権の判断へ使わない。

「五番が重要」とアビナ。

「一番が重要」とベグ。

「重要度も争う?」とハル。

「順番は法的解釈へ影響する」とセレナ。

「じゃ全部一番」

「番号の意味がなくなります」

「言葉って面倒」

「面倒だから、勝手に使う者へ渡さないのです」

 仮規則の下へ、署名欄が並ぶ。

 アビナ。

 ベグ。

 井戸守。

 樹医。

 カイルは仲裁立会い。

 セレナは記録保全。

 ネムは署名しない。

「反対か」とハダン。

 ネムは耳栓を外し、太鼓へ二拍。

 短、長。

「聞いた。賛成ではない」とハル。

「反対でもない」とネムが掠れ声で言う。

「では何だ」

『水を取りに来られない者へ、どう届ける』

 五項目にない。

 ガンガが書き足そうとする。

 ネムが手を止める。

「何で」

『私の意見を、お前が署名するな』

「書くだけだ」

『誰が届けるか、まだ決めていない』

「なら空白か」

『空白』

 ハダンが杖を鳴らす。

「空白が多すぎる」

「石で埋める?」とハル。

「お前は黙れ」

 水を配り始めた直後だった。

 井戸の底から、音が消えた。

 水車が止まる。

 根紐の先で、何かが一斉に抜けるような振動。

 エリアの測定糸が、急に二リュム落ちた。

「水位!」

 石輪の中で、水面が下がる。

 渦はない。

 穴も見えない。

 水が、井戸の底から逃げているのではない。

 根紐が吸い上げなくなった。

「濾過根が外れた?」とロロ。

「全部同時には」と井戸守。

 マドラの身体が震える。

 一拍。

 二拍。

 巨獣の背の毛が、南から北へ逆立つ。

 ガンガが顔を上げる。

「群れが水を探す」

「今ある」とハル。

「足りない。匂いが変わった」

 十二頭の心拍が速くなる。

 中央のマドラが前脚を伸ばす。

 外縁のシドも、傷を抱えたまま速度を上げる。

 根橋が張る。

 家々の灯りが横へ流れる。

「加速率!」とエリア。

「一・三、まだ上がる!」とロロ。

「どこへ」とカイル。

 ガンガは裸足を地面へ押しつけた。

 耳ではなく、全身で聞く。

「北東」

 エリアが地図を見る。

 北東には、両国の大きな居住区。

 学校。

 病舎。

 食料庫。

 水を蓄えた千の家。

「水場を避けて、人の水へ向かっている」とセレナ。

「止める」とアビナ。

「どうやって」とベグ。

「国境杭で進路を――」

「もう杭は打たせない!」とロロ。

 マドラが走る。

 井戸の水面は、さらに一リュム下がる。

 人間が水の所有者を決めるより先に、国土を背負う獣たちが、別の水を選び始めた。