第227話 第六章「毛流の地図」前編

地図と憲章は、よく似ている。

 どちらも、線の内側へ入ったものを見えるようにする。

 どちらも、線の外側へ落ちたものを、存在しないように見せる。

 地図の余白には町がないのではない。

 測った者が、まだ描いていない。

 憲章の署名欄に名がない者は、人ではないのではない。

 制度が、その人の参加方法をまだ持っていない。

 しかし紙は黙っている。

 黙った紙を見た人間は、空白へ自分に都合のよい意味を入れる。

 エリアは地図を破った。

「高い紙!」

 ロロの叫びが、朝の天幕を揺らした。

「私の紙です」

「値段の問題じゃねえ! いや値段の問題でもある! 両方だ!」

「必要な分割です」

「切れ目が雑!」

「定規を当てています」

「地図を十二枚にするなら先に言え! 裏へ補強布貼った!」

「それは聞いていません」

「昨日の夜やった!」

「私の地図へ無断で?」

「折り目が裂けそうだった!」

「先に聞いて」

 その一言で、ロロの補助腕が止まる。

 エリア自身も止まった。

 軽い言葉ではなかった。

 九日前、作戦成功のために情報を与えなかった。

 拒否権があるから選択は残ると考え、選ぶための情報を先に消した。

 ロロは、その事情を知っている。

「……悪い」と彼。

「私も、紙を切る前に補強の有無を確認すべきでした」

「紙は喋らねえ」

「ロロは喋ります」

「喋りすぎって言われる」

「必要なことまで減らさないで」

 ロロは鼻をこする。

「切り口、俺が焼き止める。一枚一ルク」

「十二枚で十二」

「補強布代は別」

「無断作業分は払いません」

「七」

「三」

「五」

「成立」とハル。

「お前は交渉に参加してねえ!」

「決まった顔してた」

「顔に動詞が出てる?」

「ロロは補助腕」

 四本が、確かに二本ずつ握手していた。

「裏切り者!」

 ピコが梁で「ピコ」と鳴く。

「お前もか!」

 エリアは地図を十二枚へ分けた。

 国土獣一頭につき一枚。

 マドラ。

 シド。

 ルム。

 ラナ。

 ペル。

 ガンガが教えた名前を、本人の発音どおり記す。

 所有者欄は空白。

 代わりに、背へ暮らす人々が呼ぶ別名を余白へ並べる。

 同じ獣を、ティルカの井戸守は「水母」と呼ぶ。

 ラウガの樹守は「根背」と呼ぶ。

 オルバ群は心拍の音を文字にしない。

 一つの名へ統一しない。

「地図が増えた」とハル。

「現実が最初から十二でした」

「昨日まで一枚だった」

「私が一枚にしていた」

「間違い?」

「用途不足」

「言い換えた」

「間違いです」

 エリアは自分で訂正する。

「ただし、全体を見る一枚も要る。十二枚を重ねる透明枠を作る」

「結局一枚?」

「一枚へ固定しません。重ね、外し、順番を変える」

「地図も群れ?」

 ガンガの声。

 天幕の入口に立っている。

 頭痛は一まで下がった。

 食事と睡眠を取り、術は使っていない。

 肩へノクスが乗っていた。

「いつから仲良くなった」とハル。

「来た」

「ガンガが呼んだ?」

「呼んでいない」

「ノクス、本人が選んだ?」

「ノゥ」

「肯定っぽい」

「翻訳しない」とハルは自分で言い直す。

 ノクスはガンガの首筋へ耳を当てる。

 低く安定した心音が気に入ったらしい。

 ガンガは動かない。

 古代竜の気配を本能的に恐れているが、肩から降ろそうともしない。

「重い?」とハル。

「軽い」

「俺の肩だと爪が刺さる」

「お前の肩が細い」

「また細い」

「速い」

「補った?」

「事実を増やした」

 エリアは十二枚の地図を見せる。

「地形ではなく、個体ごとの動きを描く。協力して」

「何を聞く」

「聞かない。見る」

 ガンガの眉が動く。

「心拍は」

「必要です。ただし地図の答えとしてではなく、観測の一つ」

「信用しない?」

「信用することと、単独で決定させることを分ける」

 セレナが外から言う。

「それは私の――」

「所有権を主張しないで」とハル。

「言っていません」

「顔に動詞」

「私の顔を読まないでください」

 単眼鏡の縁を一度押していた。

 エリアが新しい地図へ使ったのは、道ではなかった。

 毛。

 国土獣の長毛は、風に従うだけではない。

 走行方向。

 筋肉の縮み。

 皮膚温。

 換毛。

 雨。

 背中の状態を、地表へ細い線として出す。

 住民は毛流を読む。

 毛先が北へ寝れば、次の一歩で肩が上がる。

 根元だけが逆立てば、冷たい雲へ入る。

 渦になれば、その下で皮膚が痒い。

「地図記号にする」とエリア。

「毛を?」とハル。

「毛流、足跡、根橋の伸び、井戸水位、心拍。座標より先に状態を描く」

「地図が病気の記録になる」

「健康な時も」

「毎日描き直す?」

「必要なら毎時」

「寝ない?」

「交代制」

「エリアが全部やる顔」

「顔に――」

「出てる」

 彼女は右眉を上げる。

「交代制です」

「誰と」

「現地の地図手。ネム。ロロ。測定できる住民」

「俺」

「あなたは匂いと段差」

「地図手?」

「観測員」

「格下げ?」

「適材」

「慰めが雑」

「褒めています」

 エリアは最初の観測会を、村の子どもたちと始めた。

 理由は単純である。

 大人は国境を見た。

 子どもは地面を見た。

 家から学校までの道が毎日変わるため、彼らはどの根橋が今日はどの背へつながるか、どの毛の坂が滑るか、どの木の下へ六脚獣が糞をするかを覚えている。

「この線、昨日はこっち」と十歳の少女。

「なぜ」とエリア。

「マドラがくしゃみした」

「くしゃみ?」

「森が三つ揺れた」

「時刻」

「朝飯前」

「何を食べる前」

「青粥」

「家ごとに違うでしょう」

「鐘の二つ前」

「最初からそれを」

「青粥の方が分かる」

 別の少年が言う。

「ここの毛は、昨日から逆」

「風向きは」

「南」

「毛は北東」

「夜は東」

「根元と先端で違う?」

「うん。下から誰か走ってるみたい」

 エリアは歩幅を大きくする。

 未知の構造を見つけた時の癖。

 ハルが横で笑う。

「何」

「楽しそう」

「異常を見つけて楽しんでいません」

「地図の作り方が増えたのを」

「それは」

 右手で口元を隠す。

「正確です」

 少女がエリアの三つ編みを見上げる。

「それも地図?」

「地図針を入れています」

「毛流は」

「髪です」

「風と逆」

「編んでいるから」

「病気?」

 ハルが吹き出す。

「違います!」

「地図側を毎日更新するんだろ」

「私の髪を地図へしないで!」

「名前、三つ編み環」

「却下」

「暫定」

「永久却下」

「固定した」

「そこだけは動かしません」

 子どもたちが笑う。

 公爵令嬢を笑うことに、最初は少し怯えていた。

 エリアが本気で地図を取り返そうとハルを追い、長い三つ編みが風と逆へ跳ねるのを見て、怯えは消えた。

 人は、立派な人物へ愛着を持つのではない。

 立派さからはみ出した動きを、何度か見た時に、その人を覚える。

 最初の地図は、十分で役に立たなくなった。

 雨が降ったからである。

 翠獣環の雨は、空からだけ来ない。

 国土獣が雲の腹へ入ると、森の葉から、毛の先から、根橋の裏から、一斉に水が落ちる。

 紙の矢印が滲んだ。

 木札の墨が流れた。

 地図を読むために立ち止まった者から濡れた。

「失敗」とエリア。

「紙が?」とハル。

「使い方が」

「雨、地図へ配慮ないね」

「世界へ配慮を求めません」

「地図へ屋根は」

「見る場所が限定される」

 彼女は紙を畳み、村の共同炊事場へ移った。

 そこには、朝の観測会へ来なかった者がいた。

 目の悪い縄編み職人。

 字を読まない牧畜民。

 雨音で人の声を聞き分けにくい老人。

 両手を荷物へ使う水運び。

「地図を見てください」と言えば、その四人を最初から外へ置く。

「道を確認したい」とエリアは言い換えた。

 縄編み職人が、濡れた手を出す。

「紙なら見えん」

「触る形にします」

「今日だけか」

「使えるなら続ける」

「使えなければ」

「作り直す」

「偉い地図師は、使う側が間違えたと言う」

「私は昨日、地面が間違えたと考えかけました」

「では同じ穴だ」

「穴から出るところです」

 ロロが十二枚の地図の縁へ、太さの違う紐を通した。

「一本は国土獣の外縁。二本撚りは根橋。三本は避難路。結び玉は水場」

「色は」とハル。

「目が見えねえ人に聞くな!」

「他の人には要る」

「色も付ける! 情報を一種類へすんな!」

 縄編み職人が指先で結びをたどる。

「この橋、古い」

「何で分かる」とロロ。

「結びが都市式だ。ここの根橋は、雨季に右へ撚る」

「右?」

「根が水を吸うと、左撚りは締まりすぎる」

 ロロの補助腕が一斉に止まった。

「それ、誰も図面へ書いてねえ」

「暮らしていれば知る」

「知ってるなら書け!」

「字が読めんと言った」

「俺が聞く!」

「先に値段を」

「ここにもミラがいる!」

 牧畜民は、地図へ乾いた草を挟んだ。

「何」とエリア。

「この匂いなら六脚獣が避ける。通学路へ置けば、群れと子どもがぶつからん」

「道標?」

「獣には壁。人には匂い」

「同じ物が違う意味」

 エリアは紙へ『草』と書きかけ、止めた。

 字が読めない者へ、字だけで残せばまた落ちる。

 草そのものを小袋へ入れ、地図枠へ結ぶ。

 老人は雨音の中で、触知板を掌へ当てた。

「警報は鐘か」

「予定では」とエリア。

「雨の日、聞こえん」

「光を」

「夜、目を閉じている」

「振動」

「寝台へ届けば」

 ネムが小太鼓を出す。

 一拍。

 板の左端が震える。

 二拍。

 右端。

 休符。

 何も起きない。

 老人が笑った。

「何も起きんのも、分かるようにしろ」

「何も起きない合図?」とハル。

「警報を聞いて、今は動かない者がいる。返事がないのか、動かないと返したのか、違う」

 ネムが長短を打つ。

 聞いた。

 賛成ではない。

 エリアは触知板の端へ、返答用の五つの溝を作るようロロへ頼んだ。

「五つ?」

「まだ数は決めません。聞いた、動く、動かない、助けが要る、答えられない」

「今、増えた」

「使う人へ聞いて減らす」

「最初から完成させない?」

「完成してから渡せば、使う人は訂正できません」

 彼女は、自分の目を布で覆った。

「何してる」とハル。

「試します」

「踵」

「痛み一。肺一。五分なら歩ける」

「自分で言った」

「毎回驚かないで」

 触知縄だけを頼りに、共同炊事場から井戸方向へ歩く。

 三歩目で、違う根橋へ入った。

「そっちは家畜道」と牧畜民。

「結びが同じです」

「人には同じ。獣は匂いで分ける」

「私には分からない」

「なら地図が足りん」

 エリアは布を外す。

「はい」

 言い訳をしない。

 地図へ匂い袋を足す。

 手袋でも分かる結びへ変える。

 水運びのため、両手を使わず腰へ掛けられる小型板を作る。

 最後に、子どもへ渡す。

「間違えたら」と少女。

「印を付けて戻して」

「怒らない?」

「地図が?」

「お姉さん」

 エリアは一瞬、答えを考えた。

「悔しがります」

「怒る?」

「自分へ」

「面倒」

「正確です」

 少女は新しい触知地図を腰へ掛け、雨の中へ走った。

 五分後、結びを一つほどいて戻ってきた。

「ここ、橋なかった」

「いつから」

「今」

 エリアは笑わず、すぐ結び直した。

 地図側が、暮らしへ追いつくために。

 昼食は、毛流観測点で取った。

 低い木の根へ六つの小皿。

 ガンガが分ける。

 ハルへ二山。

 エリアへ一山半。

 ロロへ一山。

 ネムへ一山。

 自分へ三山。

「均等じゃない」とハル。

「必要量だ」

「俺、エリアより多い」

「走った」

「ロロは」

「座って工具を使った」

「工具も食べる」とロロ。

「油を」

「食事じゃねえ」

「ノクスは」とハル。

 ガンガは燻した根菜の端を小さく切る。

 ノクスが匂いを嗅ぎ、そっぽを向く。

「魚じゃない」とハル。

「知っている」とガンガ。

「何で出した」

「選ぶか聞いた」

「言葉ないのに」

「鼻がある」

「俺よりノクスの選択、上手く聞く?」

「お前は喋るから多い」

「喋る人の方が簡単じゃない?」

「言葉が増えると、選択肢も増える」

「ガンガは心拍が多い方が聞きやすい?」

「大きい群れは一つの波になる。小さい一人は、周りの音へ隠れる」

 ネムが太鼓を一度。

「聞いた。賛成ではない」とハル。

 ネムは札へ書く。

『隠れるのでなく、ガンガが波へまとめる』

 ガンガは根菜を噛む。

「違うか」

『半分』

「どこが」

『聞こえる音を、先に群れと思う』

「群れだから聞こえる」

『聞こえない者は群れでない?』

「そうは言っていない」

『後から探す』

 ガンガの手が止まる。

 ハルは口を挟まない。

 言葉を急いで埋めれば、ネムの休符をまた誰かが使う。

 しばらくして、ガンガが言う。

「どう聞く」

 ネムは太鼓を伏せる。

 自分で一拍。

 次に、打たない。

 空いた時間。

『鳴らない分を、ないと数えない』

「待てば災害が来る」とガンガ。

『待つ長さを決める』

「誰が」

 ネムはガンガを見る。

『一人でなく』

 答えは完成していない。

 完成していないから、次の季節へ持ち越せる。

 誰もその先を言わない。

 食後、子どもたちは地図を持って散った。

 一人一枚ではない。

 一人一つの感覚を担当する。

 目で毛流を見る者。

 鼻で樹脂の匂いを比べる者。

 裸足で温度を測る者。

 根橋の鳴る回数を数える者。

 小動物の糞を拾う者。

「最後だけ嫌」と少女。

「重要です」とエリア。

「公爵令嬢が拾って」

「交代制です」

「先に」

 エリアは一秒だけ止まり、薄い手袋をはめた。

「拾います」

 ハルが笑う。

「何」

「ためらった」

「衛生手順を確認しました」

「顔に名詞が出た」

「動詞より悪化しています」

 白い尾の根走りが、木陰から出た。

 六本脚。

 箒のように広がる尾。

 前歯で落ち種を割り、次の瞬間には別の背へ続く根を走る。

「かわいい」とハル。

「荷箱を齧る害獣」と市場の子。

「虫を食べる益獣」と別の子。

「どっち」

「両方」とエリア。

「便利な答え」

「行為が二つあります」

 根走りはティルカの青い荷箱へ潜り、口に樹脂片をくわえて出る。

 次にラウガの苗根籠へ入る。

 兵士は止めない。

 商人も。

 毎日の光景だからである。

「地図へ入れる?」とハル。

「個体を追うと線が多すぎる。通る場所を」

 エリアは子どもへ聞く。

「いつもどこを渡る」

「夜、店が閉まった後」

「国境検査は」

「動物は受けない」

「どちらの国の動物」

「根走りの国」

「あるの?」

「巣」

 子どもの答えは、政治学としては雑だった。

 生態としては正確だった。

 根走りは国籍でなく、餌と巣と安全な根を基準に移動する。

 エリアは地図へ灰色の細線を足した。

「何線」とロロ。

「巡回獣の常用路」

「貨物路と重なる」

「市場、苗床、井戸の外縁。全部」

「荷札は付かねえな」

「本人が荷物ではないから」

「運ぶ物はある」

 根走りの尾へ、白い粉が付いていた。

 ハルが近づく。

「触らない」とセレナ。

「まだいない」

「私はいます」

「いつから」

「あなたが『かわいい』と言った時から、接触を警戒しています」

 サムが長い葉を使い、尾の粉を受ける。

「樹脂屑。種殻。乾いた泥」

「白いのは」とエリア。

「細かすぎる。後で見る」

 その時点では、誰も卵殻と呼ばなかった。

 分からない物へ、先に名前を与えない。

 セレナがいなくても、その作法は少しずつ仲間へ移っていた。

 観測会が戻ると、五つの記録は一致しなかった。

 毛流を見る者は北東。

 匂いを嗅いだ者は西。

 温度は南斜面が高い。

 根橋の音は東へ増える。

 糞は市場周辺。

「ばらばら」とハル。

「失敗?」と子ども。

「違います」とエリア。「一つの原因で全部が起きていない可能性」

「一枚の矢印にできない」

「しない」

 ガンガが五つを見下ろす。

「群れの動きなら、一つの方向がある」

 ネムが板へ書く。

『一つへしたい?』

「読めない」

『読める形が一つとは限らない』

「地図は、見る者を迷わせないためにある」

 エリアが答える。

「迷っているのに、迷わない線を描く方が危険です」

「なら何を描く」

「一致しないこと」

 彼女は五種類の記号を重ねる。

 重なる場所。

 重ならない場所。

 国境石の鞍台周辺だけ、匂い、温度、根橋音、根走りの路が近づく。

 毛流だけが、反対へ伸びる。

「一つだけ逆」とハル。

「風へ逆らっている」

「地面が、何かを避けてる?」

「まだ仮説」

 エリアは赤い矢印を、細く描いた。

 太くしない。

 証拠が少ない仮説を、地図の線幅で強く見せないためだった。

 子どもが聞く。

「正しい線は太い?」

「確かめた範囲が広い線を太くします。正しさそのものではありません」

「間違ったら」

「細く残して、訂正を書く」

「消さない?」

「誰かが同じ間違いをした時、早く気づける」

 少女は自分の糞記号を見た。

「これも残す?」

「重要です」

「公爵令嬢の地図に?」

「公共地図に」

「じゃ名前書く」

 彼女は誇らしげに、記号の横へ自分の名を入れた。

 地図は権威ある者の視界だけで作られなくなった。

 その分、読みづらくなった。

 読みづらさは、見えなかった生活が入った重さでもある。