第228話 第六章「毛流の地図」後編
午後、ロロは毛流測定器を作った。
「名前」とハル。
「毛向き測り一号」
「そのまま」
「道具の名前で言葉遊びするな」
「工具に食べ物の名前付けるのに」
「これは公共用。誰でも用途が分かる名前」
木枠へ十二本の細い糸。
糸先に軽い骨片。
毛の上へ置くと、風だけなら全て同じ方向へ倒れる。
ところが、マドラの北斜面では、根元近くの糸だけが逆へ向いた。
「風じゃない」とエリア。
「皮膚の下」とロロ。
彼は工具箱から、薄い熱板を出す。
「生体へ熱は入れねえ。表面温度だけ」
先にガンガへ説明する。
「害は」
「なし。押しつけない。五秒」
「俺へ聞くな。マドラへ――」
「マドラの反応をお前が見る。嫌がったら止める」
ガンガは頷く。
「先に言った」とハル。
「うるせえ」
熱板を毛の上へ滑らせる。
青。
緑。
黄色。
細い黄色の筋が、皮下で移動している。
「血管?」とハル。
「速さが違う」とガンガ。「心拍と合わない」
「根?」
「根はもっと遅い」
ネムが骨板を耳へ付け、地面へ指先を置く。
眉が上がる。
太鼓へ、細かな連打。
ト、トト、ト、ト。
「小さいものが動く」とガンガ。
「何匹」とセレナ。
「数えられない」とネム。
「数えられないことを記録します」
「多い、では」とハル。
「主観です」
「数えられないも主観?」
「観測限界です」
「正確な分からない」
「はい」
エリアは十二枚の地図へ、毛流を細い矢印で描く。
風向きは黒。
走行は青。
皮下の逆流は赤。
赤い線が、国境石を置いていたシドの鞍台から始まり、マドラ北斜面、ルムの根橋、井戸の濾過根近くへ続く。
「何かが、背から背へ渡っている」
「国境を越えて?」とハル。
「その何かに国境が見えれば」
「見えない」
「なら越えたのではなく、移動しただけ」
アビナとベグは、同時に嫌な顔をする。
敵国の侵入と言えない動きは、責任の置き場所を失わせる。
「証拠を掘る」とロロ。
「生体へ刃を入れない」とガンガ。
「入れねえ。抜け毛と表土だけ」
「範囲」
「国境石の鞍台、毛流が逆立つ三点、井戸周囲。各一リュム。深さ、指二本」
「嫌がったら」
「止める」
「俺が見落としたら」
ガンガは言った後、ネムを見る。
「ネムも見る」
ネムは頷かない。
太鼓へ、短、長。
「聞いた。賛成ではない」とハル。
『私は私の範囲を見る。ガンガの監査役だけではない』
「では、別の地点を」とエリア。
「俺と二人で」とガンガが言いかける。
止まる。
「ネムが選ぶ」
ネムはシドの鞍台を選んだ。
同じ日の午後。
自由港ヴェインでは、紙の線が人を外へ出していた。
救難路〈フリー・ライン〉の窓口は、開設から九日。
利用十一件。
収入三件。
支出、治療具、食事、係留索、寝具、船賃。
赤字。
ミラ・ベルウェザーは赤い帳簿を机へ置き、自由港憲章の第一回起草会を始めようとしていた。
「出席確認」と記録係。
大船団代表四。
小船代表六。
港役所二。
市場一。
救難窓口一。
「利用者側」とミラ。
「署名済みの利用者代理が一名」
「無署名利用者は」
「本人確認ができません」
「名前を取らない制度だから」
「なら参加資格を証明できない」
「救助記録の結び札」
「結びは本人以外も作れます」
「署名も真似できる」
「筆跡照合があります」
「結び目にもある」
「現行法は署名を採用します」
「だから憲章を作る」
ミラは苛立つほど、金額を細かく言う。
「この会議、一時間につき部屋代二十七・四ルク。今の問答で三・八。署名以外を認める条項を先に――」
「起草会参加者は、責任確認のため署名者に限る、と昨日あなたが決めました」
記録係が紙を示す。
ミラの字。
『参加者は、発言と決定へ責任を負うため、自筆署名を要する』
「責任を逃げる船長を入れないため」とミラ。
「規則どおりです」
「ジルは」
「署名を拒否」
「パルは」
「法定年齢および登録が未確認」
「どこ」
「外で待機」
ミラの風鈴ピアスが鳴らない。
会議室の扉を開ける。
廊下。
ジル・カスクが、壁へ杯を固定縄で結んでいる。
パルは机の下ではなく、廊下の長椅子の下へ入っていた。
「何で外」とミラ。
「紙へ聞け」とジル。
「署名すれば入れる」
「祖母の口約束を紙が食った話、忘れたか」
「今回は自分で書く」
「字が書けるようになった私だけ入れば、書けねえ昔の私を外へ置く」
「責任は」
「結びと声と証人で取る」
「法が認めない」
「憲章は何のためだ」
パルが長椅子の下から言う。
「私、署名練習した」
「なら」
「できるって言ったら、十一歳でも会議入れる?」
「年齢規則を」
「年齢分からない」
「本人の選択を――」
「選ぶ前に外」
ミラは紙を見る。
署名欄しかない。
空白はある。
署名できない者の席はない。
「規則を変える」と彼女。
「今すぐ?」と記録係。
「会議前に」
「変更権者は起草会」
「その起草会へ入れない」
「規則です」
「私が作った」
「だから従ってください」
正しい。
正しい規則が、作った本人を止める。
ミラは扉の内側と外側を見る。
「会議、保留」
「部屋代が」
「一時間二十七・四。全員へ公開。保留理由も」
「いつ再開」
「参加方法を作ってから」
「誰が作る」
ミラは答えかける。
自分が。
その言葉を飲む。
「中にいる者と、外にいる者」
「外にいる者、参加資格ない」と記録係。
「だから、会議じゃない場所で聞く」
「非公式」
「公式へ入れる前の話」
パルが長椅子の下から出る。
「先に値段」
「何の」
「聞いた後、勝手に私の意見って書かない値段」
ミラは、小数を言わない。
「決められない」
「じゃ、保留」
「成立」
「まだ」
港の話は、そこで終わらない。
答えが出ていないまま、別の場所で続く。
シドの鞍台下から、ネムが白い塊を見つけた。
最初は、樹脂の泡に見えた。
直径は指の爪ほど。
半透明。
百以上が、鞍帯の影へ固まっている。
表面に細い血管のような線。
ネムは触らない。
太鼓を一度、土へ伏せる。
中から、細い拍。
トト。
間。
トトト。
生きている。
「卵」と樹医サム。
「何の」とセレナ。
「棘眠虫に似る。だが大きい」
「触れる前に範囲記録」
証羽。
エリアの地図。
ロロの熱板。
ガンガの足裏。
四つが同じ場所へ集まる。
「石を好む?」とハル。
「石の下は温かい」とサム。「雨を避け、樹脂がある」
「国境が巣?」
「虫に国境の意味はない」
「人間にはある物が、虫には屋根」
「そうです」とセレナ。
エリアは毛流地図の赤い線をたどる。
シドの鞍台。
マドラ北斜面。
根橋。
井戸の濾過根。
「一か所ではない」
ロロが別の表土箱を開ける。
白い粒。
マドラにも。
ルムにも。
国境石の底だけではない。
ただ、石の下に最も多い。
ガンガが地面へ足を置く。
毛の下を、無数の小さな振動が移動している。
森の毛流は、風と逆へ立つ。
エリアの地図へ、赤い線が増える。
地図はもう、国を二色へ分けていない。
生き物の皮膚の下を走る、名も所属もない動きを描いている。
「誰かが放った」と青い兵士。
「まだ断定しない」とセレナ。
「敵国の兵器だ」
「敵国はどちらですか」とハル。
二国の兵士が、同時に相手を指す。
卵は答えない。
半透明の殻の中で、小さな拍だけが続く。