第229話 第七章「寄生獣の卵」前編

疫病が国境を越えたとき、人はまず病名をつける。

 次に、責任者の名をつける。

 病名がまだ分からなくとも、責任者だけは決められることがある。

 むしろ、分からない病ほど犯人を求める。

 病は謝らない。

 虫は裁判へ出ない。

 風は国籍を答えない。

 だから人間は、人間へ問いを向ける。

 誰が放った。

 誰が運んだ。

 誰が止めなかった。

 この三つは似ているようで、別の問いである。

 そして歴史上、最も都合よく混ぜられてきた三つでもあった。

「触るな」

 セレナ・クロウは、三度言った。

 一度目はティルカ兵へ。

 二度目はラウガ兵へ。

 三度目はハルへ。

「俺、触ってない」

「触ろうとした」

「指を近づけただけ」

「接触の予備動作です」

「予備ならまだ本番じゃない」

「本番にしないため止めました」

「止まった。だから成功」

「あなたの成功ではありません」

 半透明の卵塊は、シドの鞍台下でぬるく光っていた。

 国境石の影。

 薬樹脂のにおい。

 毛の根元に残る熱。

 百以上の小さな殻が互いへ貼りつき、細い血管の線を共有している。

 セレナは左眼へ六角単眼鏡を当てた。

 右手で時刻を書く。

 左手で黒い羽根型証拠札を三枚、卵塊の周囲へ置く。

「八時十七分。シド背面、旧国境鞍台の北側。発見者ネム・オルバ。最初の接触なし。周囲温度二十九・二。樹脂湿度――」

「樹脂に湿度ってあるのか」とハル。

「あります」

「聞いてよかった」

「今は聞かなくてよかった」

「聞く時刻も証拠?」

「邪魔の記録にはなります」

 セレナは羽根を一本伏せる。

 証羽〈テスタ・フェザー〉は、見たものを保存する。

 ただし見たものしか保存しない。

 卵の殻に刻まれた微細な筋は写せる。

 それが兵器であるかは写せない。

 人の顔に浮かぶ恐怖は写せる。

 恐怖した理由までは写せない。

 記録とは、真実を丸ごと捕える網ではない。

 網の目より小さいものを落とす器具である。

 セレナは、その落ちたものを勝手に補わないために星律官になった。

「敵国の証拠だ」

 ティルカ兵が言う。

「こちらの台座へ卵がある。ラウガが仕掛けた」

「シドは今、ラウガ側へいる」

 ラウガ兵が返す。

「お前たちが移動前に仕掛けた」

「国境石を盗んだのはそちらだ」

「石を背負った獣が移動した」

「なら獣を使った」

「どちらが?」とハル。

 二人は同時に相手を指した。

「便利だね」とハル。

「何がだ」

「同じ証拠が二つの反対を証明してる」

「片方が嘘だ」

「あるいは両方が、証拠に言わせたいことを喋ってる」

「石は喋らない」とロロ。

「卵も」

「喋らねえ物は、代理人が多い」

 セレナは二人の兵へ向き直る。

「兵器である可能性は検証します」

「可能性では遅い」

 アビナ・トール境務官が、青い測量外套を翻した。

「居住区へ避難命令を出すには、どちらからの攻撃か定める必要がある」

「なぜです」

「避難方向が変わる」

「病原が双方にある場合は」

「双方から離す」

「双方の居住区へ群れが向かっている場合は」

「まだ向かっていない」

 アビナは断言した。

 断言は早い。

 しかし彼女が軽率なのではない。

 国境官の仕事は、不明を不明のまま保存することではない。

 不明の中でも門を開け、閉じ、人を動かすことだ。

 セレナの職務は、断言を遅らせる。

 アビナの職務は、遅れる前に断言する。

 職務が違えば、同じ時計が敵になる。

「現在向かっている方向を、エリアが測っています」とセレナ。「攻撃元の認定と避難経路は分けてください」

「攻撃元を知らず、敵側へ避難させるのか」

「敵が病原であると証明されていない」

「証明を待って死者が出れば」

「待つとは言っていません」

 セレナは羽根を一枚、立てた。

「検疫は始める。治療も始める。原因の断定だけを保留する」

「三つを分けるのか」とベグ・サイ。

「分けなければ、誤った犯人へ向かう兵が治療者を減らします」

 カイルが頷く。

「先に救い、後で責任を問う。責任を問うためにも、先に救う」

「王子が言うと恩赦に聞こえる」とハル。

「王子だからではない。負傷者が証言できなくなるのを避けるためだ」

「セレナみたいになった」

「監督され続けると感染する」

「私を病名へしないでください」

 セレナは菫色の襟を閉じた。

 甘味を食べる合図ではない。

 苛立ちを隠す合図でもない。

 風が強くなったのだ。

 事実だけを言えば、そうなる。

 卵は四つの容器へ分けた。

 一つは現地観察。

 一つは樹医サムの解剖。

 一つはティルカ側の立会保管。

 一つはラウガ側の立会保管。

「四つにしたら四つとも違う結果が出るかも」とハル。

「だから手順を同じにする」

「同じ結果なら信用できる?」

「一致は強くなります。一致しない場合も、差の場所が分かる」

「事実が増える」

「不都合も増えます」

「同じ意味?」

「権力にとっては」

 セレナは自分が言った言葉を一度記録し、横線を引いた。

「今のは意見です」

「消す?」

「消しません。分類を変える」

 ハルはその横線を見る。

「間違いを消さないんだ」

「消した記録は、最初から正しかったように見える」

 その時、ネムが細い太鼓を二度打った。

 短。

 長。

 聞いた。

 賛成ではない。

 セレナは彼へ向く。

「訂正がありますか」

 ネムは喉へ手を当てた。

 声を使わない。

 帯から薄い板を出し、炭筆で書く。

『卵を四つに分けた。巣は分けていない』

「巣の範囲を先に調べろ、という意味ですか」

 ネムは首を横へ振る。

 さらに書く。

『巣だと決めた』

 セレナは単眼鏡の縁を一度押した。

 国境石の下に卵が多い。

 温度が高い。

 樹脂がある。

 それを巣と呼んだ。

 呼称が仮説を一段、事実へ近づけてしまった。

「訂正します。卵の集中地点。繁殖場所か、運搬途中の蓄積かは未確定」

 ネムは短く一度叩く。

 それでよい、ではない。

 聞いた、である。

「神託みたいに扱わないんだね」とハル。

「本人が嫌います」

「嫌うことも記録?」

「本人の表明として」

「じゃあ俺、朝の根粥が嫌い」

「事件との関連を示してください」

「胃が重いと走る速度が」

「却下」

「却下も記録?」

「あなたは黙れますか」

「可能性は検証する」

 ネムが、かすかに笑った。

 声ではなく、肩が一度だけ揺れた。

 セレナは記録しない。

 見た。

 だが事件の証拠ではない。

 人間の生活は、証拠でないものの方が多い。

 樹医サムは、卵を割らなかった。

「割れば早い」とティルカの測量技官メーザ。

「早く死ぬ」とサム。

「虫だぞ」

「死なせたら、生きている時の動きが分からない」

「動けば危険だ」

「動かない病気なら、森は走らない」

「病気が走らせていると決まってない」

「お前、セレナに似たな」

「長さで言え」

「似方、二リュム」

「少ない」

 サムは透明樹脂の薄皿へ卵を一粒移した。

 青脈井の水。

 マドラの毛。

 ラウガの苗床土。

 ティルカの保存塩。

 それぞれを皿の四方へ置く。

「何を選ぶか見る」とサム。

「卵が?」とロロ。

「孵れば幼虫が」

「どれくらい」

「自然なら三日」

「遅い!」

「温めると半日」

「まだ遅い!」

「お前の機械へ入れるな」

「言う前に止められた」

「顔が熱炉だった」

 ロロは補助腕二本を背へ畳む。

「卵を殺さず早める。温度二十九・湿度七十、振動はシドの歩行と同じ」

「できるのか」

「だから偽物の心臓って言うな」

 ガンガがいた。

「言っていない」

「顔で言った」

「顔に動詞が出るのはロロだけだ」とハル。

「俺の顔は文法か!」

 ロロが作った小さな揺籃器は、古い灯具、壊れた計器、ピコの予備歯車、そして本人が『予備ではなく保険』と呼ぶ部品からできていた。

 機械は、シドの歩行をまねる。

 どす。

 間。

 どす。

 完全ではない。

 完全でないから、再現だと分かる。

 サムが皿を入れる。

 ガンガは胸を近づけようとした。

「聞くな」とネム。

 掠れた声。

 一語で、喉が痛む。

 ガンガの身体が止まる。

「なぜ」

 ネムは板へ書く。

『聞けば、聞こえたものへ答えを寄せる』

「寄せない」

『昨日、寄せた』

「昨日は」

『今日も昨日の続き』

 ガンガは胸を二度叩きかける。

 やめた。

「俺が聞かないなら、誰が」

 ネムはセレナを指す。

 セレナは目を細める。

「私は心拍を聞けません」

『だから』

 乾いた答えである。

 セレナは少し考え、揺籃器へ機械式の振動針を付けた。

「見える形へします。ネム、針の揺れを読む補助を。あなたの感覚を結論にはしない」

 ネムは頷く。

 ガンガは頷かなかった。

「俺を外すのか」

「今だけです」とセレナ。

「聞けるのに」

「聞けるからです」

 ガンガの口が閉じる。

 聞こえる者を使わない。

 能力を奪うのではない。

 能力へ仕事を独占させない。

 王候補の少年は、床へ裸足を置いたまま、一歩下がった。

 それがこの朝、彼にとって最も難しい行動だった。

 卵の分布を調べるには、森を市場へ戻す必要があった。

 市場は森の上にある。

 森は獣の背にある。

 獣は走っている。

 つまり市場へ戻るとは、止まっている場所へ帰ることではない。

 追いつくことである。

 セレナ、ハル、カイル、メーザ、サム、ネム。

 そしてガンガ。

 七人はラナからペルへ渡る根橋へ出た。

 根橋は道の顔をしているが、道ではない。

 一本の巨大な根が二頭の国土獣の背をまたぎ、互いが近づく季節だけ使える。

 今は距離が開きつつある。

「残り何秒」とハル。

「十九」とメーザ。

「渡る人数七」

「一人二秒なら十四」

「計算が人を走らせる!」

「お前は最初」

「計算に入ってる?」

「最も軽い」

「理由が体重」

「細いが速い」とガンガ。

「評価が固定した」

 ハルは走った。

 根橋が沈む。

 下は雲。

 雲のさらに下へ、別の巨大獣の影が泳ぐ。

 足裏へ根の弾力。

 左肩へ引き戻す風。

 肩は日常動作なら戻っている。

 日常の定義へ、走る森の根橋は入らない。

 ハルは腕でなく腰へ縄を回し、反対側の枝へ投げた。

 肩を引かない。

 身体を振り子にする。

「三秒!」とメーザ。

「今の三秒、長くない?」

「喋った分!」

 ハルがペルへ着く。

 ネムが続く。

 骨板が風に鳴らないよう耳へ伏せられている。

 サム。

 セレナ。

 カイル。

 メーザ。

 最後にガンガ。

 根橋が外れた。

 ガンガは跳ばない。

 外れる根へ鐘棍を差し、身体を一回転させてペルへ降りる。

 九十三キロと鐘棍の重さが着地した。

 森の鳥が一斉に飛ぶ。

「静かに」とセレナ。

「静かに着地した」

「比較対象が崖崩れです」

 ペル背市場は、半分閉じていた。

 赤布の天幕は畳まれ、商品箱は縄で屋根へ固定されている。

 住民は避難準備をしながら、店を捨て切れずにいる。

 商売とは、物を売る行為だけではない。

 いつでも戻れる場所を、毎朝同じ手順で作る行為でもある。

 走る森では、その『同じ』が毎日少しずつ違う。

 セレナは市場記録を集めた。

 ラウガの苗根包み。

 ティルカの井戸石粉。

 オルバ群の乾燥獣皮。

 南群から来た塩袋。

 北群の種子籠。

 卵は、白い泡として何か月も見つかっていた。

「捨てていた」と種屋の女。

「いつから」

「雨前から」

「日付を」

「雨前は雨前」

「何回前の雨」

「大きい雨なら二。細い雨なら九」

「暦が違う」とハル。

「暦は場所へ合っています」とセレナ。「私たちの記録へ換算する」

「正すんじゃなく?」

「正しいものが二つある場合、片方を誤りにしない」

「じゃ、日付も国境みたいに動く」

「比喩を増やさないで」

 しかしセレナは書いた。

 大雨二回前。

 細雨九回前。

 王都暦へ換算すれば、約四か月。

 国境石が動くより前。

 現在の対立より前。

 別の店では五か月。

 別の倉庫では三か月。

 ティルカ側の荷にもある。

 ラウガ側の荷にもある。

「混ぜた可能性」とアビナは言う。

 彼女は遠隔鏡を通じて調査を見ていた。

「発覚後に敵側の荷へ卵を移した」

「最古の荷札は封蝋が切れていません」とセレナ。

「封蝋ごと偽造」

「その可能性も調べます」

「否定しないのか」

「否定する証拠がまだ足りない」

「なら攻撃説は残る」

「残ります。残ることと、採用することは別です」

「可能性を全部残せば、いつまでも決められない」

「全部は残しません。証拠に耐えないものから落とす」

「いつ落ちる」

「落ちた時です」

「答えになっていない」

「時刻を先に決めれば、証拠が時刻へ従います」

 ハダンの声が鏡の向こうから割り込んだ。

「決めぬことも決めたことだ」

「だから、決めないと決めた理由を残しています」とセレナ。

 ハダンは笑わなかった。

「星律官。お前は遅さの責任を取れるか」

「取ります」

「死者へも言えるか」

「死者の名を、私の決断の盾にはしません」

 セレナの左眼が痛んだ。

 単眼鏡を外さない。

 痛みは証拠ではない。

 だが身体の限界は作業条件である。

「十七分休止」とカイル。

「不要です」

「左眼を三度押した」

「二度です」

「私が見たのは三度」

「証拠を」

「セレナ、これは監督命令だ」

「あなたに監督権は」

「ない。だからお願いだ」

 セレナは言葉に詰まった。

 命令なら拒める。

 お願いは、証拠規則の外にある。

「十二分」と彼女。

「十五」

「十三」

「成立」とハル。

「ミラがいないのに使わないでください」

 セレナは単眼鏡を外した。

 左側に、カイルが立つ。

 近すぎず、遠すぎず。

 彼は何も言わない。

 見えていない側へ人がいる不安を、埋める距離だった。