第230話 第七章「寄生獣の卵」後編
最初の卵が孵ったのは、休止から十一分後だった。
ロロの揺籃器から、細い針が跳ねる。
ネムが机へ指を二度当てた。
サムが樹脂皿を取り出す。
殻の裂け目から、乳白色の虫が出た。
長さは二センチほど。
頭部に黒い棘。
腹の左右へ、吸着する短い脚。
「棘眠虫」とサム。
「大きいと言った」とメーザ。
「幼虫が小さい。卵塊が大きい」
「名前のどこが眠る」とハル。
「皮下へ入り、宿主の神経を鈍らせる。痛みを感じにくくして動き続けさせる」
「それ、眠るの虫じゃなくて、眠らせる虫」
「名前は虫の都合で付かない」
「人間が付けるから?」
「最初に見つけた獣医が、眠れなくなった」
「もっと人間の都合だった」
幼虫は四方の試料へ触角を向ける。
苗床土へ進む。
獣毛へ進む。
保存塩へ近づき、止まる。
青脈井の水へ向かう。
一歩。
二歩。
急に身体を反らした。
逆へ逃げる。
「水が嫌い?」とハル。
「違う」とネム。
声が掠れる。
サムが別の水を置く。
市場の雨水。
幼虫は寄る。
青脈井の水。
逃げる。
「青苦砂」とメーザ。
サムは首を傾げる。
「昨日の井戸水は匂いが薄かった」
「濃度を測った」とメーザ。「通常の三割二分」
「虫が飲んだ?」
「虫は鉱物を飲まない」
「濾過根」とサム。「根の表面を食われた。青苦砂を水へ溶かす菌床が減っている」
「じゃ、虫は嫌いな水を自分で嫌いじゃなくしてる?」とハル。
「食べたいものを食べた結果だ」とサム。
「目的がなくても、結果はある」
「虫を悪役へするな」
「寄生してるけど」
「生き方だ」
「宿主は困る」
「だから治す。憎むのとは別だ」
ガンガは揺籃器から離れた場所で、拳を握っている。
「森が水を避けた」
「水ではなく、虫の多い水場を」とセレナ。
「青苦砂が減ったから、虫が増えた」
「今の証拠で言える範囲では」
「そして虫がいる背は、別の水へ走る」
ガンガは胸を一度叩く。
「居住区の貯水槽」
メーザが地図を開く。
ティルカの家々は、屋根の青瓦へ井戸石粉を混ぜている。
雨水は青苦砂をわずかに溶かして貯水槽へ入る。
ラウガの家々は、根腐れを防ぐため青鉱粘土を床下へ敷く。
両方とも、今の青脈井より濃い。
国土獣にとって、居住区は敵国ではない。
虫を避けられる水の匂いがする場所である。
「待て」とアビナ。「それは、群れが家へ水を求めて突っ込むということか」
「突っ込むかは未確定です」とセレナ。
「向かう可能性は」
「高い」
「断定した」
「方向、速度、貯水鉱物、四つの観測が一致した」
「攻撃元は」
「まだ未確定」
「では避難を」
「両国で」
ベグが鏡の向こうで息を呑む。
「ラウガも?」
「はい」
「ティルカの虫ではないと」
「どちらの虫とも証明できません」
「なら――」
「どちらの住民も守ります」
兵器説は、その日の午後に大きく崩れた。
完全には消えない。
陰謀は、証拠がないことを巧妙さの証拠へ変えられる。
だが事実は増えた。
卵の古い殻が、両国の市場倉庫から見つかった。
国境争い以前の帳簿に、白泡除去の作業賃が記されていた。
ティルカの塩袋と、ラウガの苗根包みと、オルバ群の獣皮籠で同じ樹脂片が付着していた。
樹脂片の歯形は、人の刃ではない。
小さい六本脚。
尾が箒のように広がる巡回獣、根走りの歯だった。
根走りは森の害虫を食べる。
店のこぼれ種を拾う。
夜には国土獣の背から背へ、根橋を渡る。
「検疫記録は」とセレナ。
アビナはティルカの帳簿を出す。
「貨物、旅人、家畜は検査している」
「根走りは」
「野生生物」
ベグもラウガの帳簿を出す。
「森の一部だ。貨物ではない」
「国境を越えます」
「森が動けば、越えたとは言えない」
「では誰が検査を」
アビナは言う。
「ラウガ」
ベグは同時に言う。
「ティルカ」
その瞬間、ハルが笑わなかった。
誰かが嘘をついたのではない。
ティルカの法では、根走りはラウガの森から来る生物。
ラウガの法では、国境設備や市場貨物へ寄る根走りはティルカの管理対象。
固定国境の両側が、動く生き物を相手側へ分類した。
根走りは毎晩、どちらの検査にも入らず、両方の市場を巡った。
毛へ卵を付け、樹脂箱へ潜り、苗根の間で眠った。
「犯人は制度?」とハル。
「制度は卵を運んでいません」とセレナ。
「じゃ根走り?」
「根走りは検疫責任を設計していません」
「なら誰」
「一人へまとめないでください」
セレナは証羽を机へ並べる。
「市場管理者は白泡を廃棄したが報告しなかった。報告基準に該当しなかったからです。両国の検疫官は根走りを検査しなかった。相手の所管だと法が定めたからです。商人は汚染を知りながら売った証拠がない。兵が放った証拠もない。だが、検査の空白が長期間続いた事実はある」
「責任者なし?」とアビナ。
「責任なし、ではありません」
「誰を罰する」
「原因を止める前に罰名だけ決めれば、次の根走りが別の空白を通ります」
「罰は止めるためにある」
「罰だけで止まるなら、検査表は要りません」
「お前は誰も裁かないのか」
「裁くために、役割を分けます」
セレナの声は低い。
「報告基準を作らなかった行政。相互所管を確認しなかった国境官。異常を記録しなかった市場組合。危険を軽視した者。今後の治療費と検疫費を誰が負担するか。すべて別です。『敵が放った』一行にすれば、こちら側の空白は残る」
アビナは黙った。
ベグも。
沈黙は同意ではない。
だが反論がまだ言葉になっていないことはある。
ネムが、長短二拍を打つ。
聞いた。
賛成ではない。
「何が違う」とガンガ。
ネムは板へ書いた。
『根走りだけでは、皮下へ入った数を説明できない』
サムが頷く。
「卵を運ぶ。孵った後は水場と濾過根で増える。二段階だ」
「市場の空白と、井戸の弱り」とエリア。
「国境だけじゃない」とハル。
「国境は一つの条件です」とセレナ。「原因を一語へしない」
ロロが指を折る。
「巡回獣が運ぶ。検疫が抜ける。井戸の菌床を虫が食う。青苦砂が減る。虫が増える。獣が水を避ける。森が走る」
「七つ」とハル。
「何が」
「犯人を一人にしたい人が怒る数」
「工程だ」
「原因の列?」
「鎖」
「鎖なら切れる」
「どこか一個を切れば、全部止まるとは限らねえ。もう虫はいる」
「じゃ、いくつ切る」
「切れるだけ全部」
「ロロらしい」
「修理屋だからな」
制度の問題は、機械の故障と似ている。
部品一つを悪者にすれば、直した気になれる。
だが負荷の偏り、点検の省略、交換部品の互換、使用者の癖。
壊れるまでには、複数の正しさが同じ場所へ重なる。
この翠獣環では、国境石が動いたのではなかった。
固定されていると思った前提が、生き物の背へ載っていた。
病も同じだった。
敵が放った一つの悪意ではない。
誰も担当しないよう丁寧に分けられた仕事の隙間を、命が通った。
夕刻。
エリアの十二枚地図が、同時に傾いた。
マドラ。
シド。
ルム。
ラナ。
ペル。
ほか七頭。
毛流の赤線が、二つの居住区へ収束する。
ティルカの青瓦村。
ラウガの根床町。
どちらも青苦砂を含む貯水槽を持つ。
「速度、上がった!」とメーザ。
「青脈井の水位、二・一!」
「濾過根が崩れる!」とサム。
遠くで、国土獣が鳴いた。
空気ではなく、足元から来る声。
どおおおん。
森全体の葉が、一拍遅れて裏返る。
ガンガが裸足を地面へ置く。
何千。
何万。
人の心臓。
獣の心臓。
虫の小さな震え。
多すぎる。
彼の額へ汗が浮く。
「全員、怖い」
「それは分かる」とハル。
「居住区へ行く。止めないと」
「どう止める」
「俺が群れを」
ガンガの手が鐘棍へ伸びる。
ネムの太鼓が鳴った。
休符。
音を打たない一拍。
ガンガは手を止める。
「今、一つにするな」とハル。
「ばらばらなら、家を踏む」
「一つなら、全員で同じ家を踏む」
「時間がない」
ハダンが来た。
右膝を庇いながら、三叉杖を地面へ打つ。
「決めぬことも決めたことだ」
「分かってる」とガンガ。
「なら決めろ」
「何を」
「石か、井戸か、人か、獣か。全部を同時に抱えるな。腕は二本だ」
「群れは一つだ」
「だから潰すのか」
ガンガが顔を上げる。
ハダンは、彼を王候補と呼ばない。
「大声だけが群れの声じゃない、と言ったのは誰だ」
「俺だ」
「なら、大きい危機だけを聞くな」
ネムが、板へ一語を書く。
『まだ』
まだ、決めるな。
まだ、止まるな。
まだ、聞き終えていない。
どの意味かは、本人しか決めない。
その時、北の森が持ち上がった。
国土獣ルムが、居住区へ向けて前脚を上げる。
脚一本で、村の広場より大きい。
ティルカの鐘。
ラウガの角笛。
二国の避難合図が同時に鳴り、互いに反対の方向を指した。
人々が中央でぶつかる。
群れは水場を避けた。
そして、両国の暮らしへ向かった。