第231話 第八章「盗まれたのは土地か」前編

領土紛争の記録には、しばしば同じ文が残る。

 土地を奪われた。

 この一文は便利である。

 畑を奪われた。

 井戸を奪われた。

 税を納める先を変えられた。

 祖先の墓へ行けなくなった。

 昨日まで隣人だった者から、今日だけ証明書を求められた。

 子どもの学校が別の国になった。

 夜、兵士が戸口へ立つようになった。

 それらを全部、土地という一語へ畳める。

 畳まれた言葉は持ち運びやすい。

 旗へ書きやすい。

 演説で叫びやすい。

 ただし、畳んだままでは誰も住めない。

「何を盗られた?」

 ハルは、最初にそれをアビナへ聞いた。

「国境を」と彼女。

「国境の何」

「国境は国境だ」

「線?」

「行政権」

「誰への」

「ティルカ登録住民、井戸、道、税、警備、衛生――」

「多い」

「多いものをまとめて国境と呼ぶ」

「今は分けたい」

「なぜ」

「全部を同じ方向へ運べないから」

 ティルカの青瓦村では、二つの避難鐘が鳴っていた。

 国の鐘は南へ逃げろと言う。

 国土獣の動きは南を危険にしている。

 ラウガの角笛は森側へ移れと言う。

 森側からも別の獣が来る。

 人々は荷物を背負い、門前で止まる。

 何を守るか決めなければ、どこへ逃げるかも決まらない。

「行政権を失えば、避難命令が二つになる」とアビナ。

「もう二つある」

「だから一つへ戻す」

「どっちへ」

「法で定めた側へ」

「獣も法を読む?」

「読ませる話ではない」

「じゃ、獣の動きと命令が反対になったら」

「命令を変える」

「誰が」

「権限を持つ者が」

「その権限が争い中」

 アビナの眉が寄る。

「言葉遊びをしている時間はない」

「遊んでない。言葉を一個にすると、命令も一個しか作れない」

「お前は何をする」

「みんなが『土地』って言ってる中身を、別々に聞く」

「聞き終わる前に踏まれる」

「だから走って聞く」

 ハルは赤いマフラーを結び直した。

「走れば質問が速くなるのか」とカイル。

「答える方が置いてかれたくなくなる」

「尋問技法として採用しません」とセレナ。

「一緒に走る?」

「証言者を息切れさせる行為は不適切です」

「じゃ、俺だけ息切れする」

「それも証言精度を下げます」

「何ならいい」

「聞いたまま勝手にまとめないこと」

 ネムが短く一拍した。

 聞いた。

 ハルはその意味を、賛成へ変えなかった。

 最初に聞いたのは、イナだった。

 姓を二つ持つ老女。

 ティルカで生まれ、ラウガへ嫁ぎ、夫をティルカの墓地へ埋めた。

 彼女は避難荷を一つしか持っていない。

 小さな木椅子。

「何を盗られた?」

「椅子を見て分からないのかい」

「分からない」

「いい答えだ」

 イナは椅子を下ろす。

「夫の墓へ置く椅子。足が悪くなって、立ったまま話せない」

「墓?」

「墓そのものは動いちゃいない。行く道に国境札が増えた」

「じゃ、盗られたのは道」

「道だけでもない。『今日は外国だから』と、夫へ会うのを他人に許してもらう必要ができた」

「許可?」

「昨日まで要らなかった許可」

 ハルは札へ書く。

 墓。

 道。

 許可を求めずに会うこと。

「三つ?」

「一つへしたいなら、夫だよ」

「夫は盗られてない」

「死んでるからね」

「でも会えなくなる」

「死者に会うって言うと、星律官が訂正するかい」

「私は、あなたが会うと表現した事実を記録します」とセレナ。

「便利な不便さだ」

「褒め言葉として保留します」

 イナは笑った。

「私は墓地をティルカへ固定してほしい。道は両方から開けてほしい。税はどっちでもいい。家は今の場所がいい」

「一つの線じゃ無理」

「だから年寄りは線を信用しない。杖一本で跨げるくせに、兵士を百人呼ぶ」

 次は、青瓦の商人。

「何を盗られた?」

「仕入れ代だ!」

「土地じゃない」

「土地が動いたせいだ!」

 男は二枚の税札を振った。

 朝、ティルカへ市場税を払った。

 昼、村がラウガ側へ滑り、通過税を求められた。

「同じ荷で二回?」

「同じ荷だから二回だと言われた。二国を通ったと」

「荷は店から動いてない」

「国が通った!」

「国に足がある?」

「今日の国にはある!」

 ハルは札へ書く。

 二重課税。

 移動していない物へ移動税。

「どちらへ払いたい?」

「安い方」

「正直」

「税へ愛国心を払う余裕はない」

 アビナが苦い顔をした。

「税は警備の対価だ」

「なら二国分の警備員を店へ寄越せ」と商人。

「今、避難しろ」

「店を誰が守る」

「命が先だ」

「命の後に借金が残る」

「死ねば借金は」

「家族へ行く!」

 カイルが間へ入る。

「店の商品を共同封印する。両国の印を一つずつ。避難中の盗難は共同補償」

「誰の権限で」とアビナ。

「私の権限ではない。あなた方へ提案している」

「王子が提案すると命令に聞こえる」

「では肩書を外す」

 カイルは王家紋章の留め具を外し、セレナへ渡した。

「ただの負傷歴の多い十七歳として提案する」

「説得力が下がった」とハル。

「お前よりはある」

「俺、負傷歴で負けてる?」

「競うな」

 商人は二枚の税札を見て言った。

「補償額を先に」

「ミラみたい」とハル。

「誰だ」

「正しい人」

「本人が聞いたら三割取るぞ」とロロ。

 学校では、子どもが黒板を二つに分けていた。

 右にティルカの文字。

 左にラウガの樹符。

 朝は右側を習った。

 昼から役人が来て、左側へ変えろと言った。

「何を盗られた?」

「宿題」と小さな少女。

「盗られた?」

「昨日の答えが今日まちがい」

「国が変わったから?」

「先生が、歴史の王様の名前を線で消した」

 教師が慌てる。

「暫定措置だ。教科書がラウガ式に」

「昨日まで正しかった王様が、今日いなかったことになる?」

「いなくはならない」

「じゃ、消さないで」

 ハルは黒板を見る。

 歴史というものは、遠い昔を語る学問ではない。

 今日、誰の名を消さないかを決める技術でもある。

「どっちの学校へ行きたい?」

 少女は迷う。

「友だちがいる方」

「友だちはどっち」

「両方」

「じゃ困る」

「大人が困って」

「その言い方、好き」

 少女は黒板へ一本の横線を引いた。

「ここ、休み時間」

「国に関係ない?」

「先生が笛を吹くまで」

 ハルは札へ書く。

 学校。

 教えたことを翌日、無かったことにしない。

 友だち。

 休み時間。

「最後は土地じゃない」とセレナ。

「最初から土地だけじゃなかった」

 ラウガの根床町では、樹医サムの診療所が動いていた。

 建物が歩くのではない。

 載っているルムが進む。

 患者の寝台へ、揺れ止め縄が張られる。

「何を盗られた?」

「薬の冷蔵」とサム。

「土地じゃない」

「固定座標へ置いた冷気管が、今は別の国。補給を止められた」

「患者は」

「熱病三、骨折五、寄生疑い二。国境兵に刺されたシド一」

「シド、一人で数える?」

「一頭だ」

「大きさは村十個」

「患者は大きさで人数を増やさない」

「じゃロロも一人」

「何で俺を比較に使う!」

「腕六本でも」

「補助腕は身体だが戸籍上の人数には入らねえ!」

「制度に詳しい」

「修理代が一人分だからな!」

 サムは薬棚を閉じる。

「私が守りたいのは、患者へ薬が届くことだ。診療所がどちらの国かは二番目」

「二番目は要る?」

「薬代を誰へ請求するか」

「そこへ来る」

「治療は無料じゃ続かない」

「ミラが増えた」

「誰だ」

「まだ会わせたくない」

 札へ書く。

 医療。

 冷気管。

 請求先。

 同じ診療所の奥で、片足を包帯へ入れた少年が言った。

「俺は、兵が来ない方」

「何を盗られた?」

「夜」

「夜?」

「見張りが松明を焚く。明るくて眠れない」

「安全のためだ」とラウガ兵。

「眠れない安全は、朝に倒れる」

 ネムが少年を見る。

 長い間、見た。

 そして板へ書く。

『静けさ』

 少年が頷く。

 聞こえる者が、代わりに結論を言わなかった。

 ただ、本人の一語へ場所を空けた。

 森の外縁では、若い飼育人が柵を切っていた。

 柵の向こうには、角の長い走羊が二十頭。

 国土獣が加速するたび、四本脚を広げて地面へ張りつく。

「何を盗られた?」

「出口」と飼育人。

「門はそこ」

「国境兵が閉じた」

 北の根橋へ、青と緑の封鎖縄が二重に張られている。

「寄生獣の拡散防止」とティルカ兵。

「群れの越境防止」とラウガ兵。

「理由が二つ」とハル。

「閉じる結果は一つだ」と飼育人。「走羊が逃げられない」

「逃がせば、虫を運ぶ」と兵。

「ここに残せば、国土獣に踏まれる」

「検疫を通せ」

「一頭ずつ調べている間に?」

「規則だ」

「規則が死ぬ順番を決めるのか」

 ハルは柵を見る。

 開ければ病気を広げる可能性。

 閉じれば目の前の命が危ない。

「全部を一つの出口へ出さない」と彼。

「どうやって」

「健康確認済み、未確認、症状ありを分ける」

「三つの柵が要る」

「今あるのは二国の柵二つ」

「国境用だ」

「縄は用途を覚えてる?」

 ロロなら、物は用途を変えられると言う。

 飼育人は二重縄の一方を外し、三つへ結び直した。

 兵が止める。

「国の備品だ!」

「走羊が死ねば、税の家畜も減る!」

「税で命を脅すな」

「命で税を思い出させてる!」

 アビナが遠くから叫んだ。

「一時転用を許可! 番号を残せ!」

 ベグも叫ぶ。

「ラウガ縄は症状ありへ使うな! 樹脂が洗えない!」

「じゃ未確認!」

「長さが足りない!」

「切る!」

「切断記録!」

 人々は争いながら、三つの出口を作った。

 飼育人は走羊の鼻、目、毛を一頭ずつ見る。

「土地より出口」とハル。

「土地がなければ出口もない」

「でも守り方は違う」

「そうだ」

 札へ書く。

 家畜の退避路。

 検疫を、閉鎖だけにしない。

 国境兵にも聞いた。

「何を盗られた?」

 若い青装兵は答えなかった。

「敵に話す必要はない」

「俺、どっちの敵」

「どちらでもない顔をして、両方へ口を出す」

「じゃ両方の敵?」

「そういう軽さが嫌いだ」

「軽い方が走れる」

「兵は走るだけでは守れない」

「何を守ってる」

 兵士の目が、村の向こうへ動く。

 青い小さな屋根。

「家?」

「妹がいる」

「じゃ盗られたのは」

「命令」

「命令?」

「昨日まで、あの家は守備範囲だった。今朝、座標更新でラウガ側になった。隊長は越境するなと言う」

「妹は」

「ティルカ登録のまま」

「守りに行けば違反」

「行かなければ兵ではない」

「兄では?」

 兵士は黙る。

「どっちを選ぶ」

「聞くな」

「答えなくていい。選ぶ時、命令が何を奪ったかだけ知りたい」

「迷わず従う権利だ」

 ハルは筆を止めた。

「権利?」

「命令が正しいと信じられれば、失敗しても自分一人の罪じゃない」

「それを盗られた」

「国境が動いたせいで、命令の外に家族が出た」

「じゃ、命令を一つへ戻したい?」

「戻せば楽だ」

「安全?」

「分からない」

「楽と安全、別」

「兵に説教するな」

「聞いたことを分けただけ」

 兵士は槍を地面へ置いた。

「妹を避難させる。戻ったら処分を受ける」

「俺が行く」

「家族の役を取るな」

 その言葉に、ハルは止まる。

「分かった。道だけ見る」

「頼んでいない」

「頼まれなくても、崩れてる道を教えるのはできる」

「代わりに妹を抱くな」

「本人へ聞く」

 兵士は初めて、ハルを敵でない顔で見た。

 札へ書く。

 命令へ従う安心。

 家族を自分で守る役。

 処分を受けても選ぶ余地。

 墓地の下では、二人の墓守が縄を巡って争っていた。

 一人はティルカ。

 一人はラウガ。

 同じ墓石を別の向きから支える。

「何を盗られた?」

「死者の国籍」とティルカの墓守。

「死者へ国籍を押しつけるな」とラウガの墓守。

「生前の登録だ」

「結婚後はラウガだ」

「改籍届がない」

「焼けた」

「証拠がない」

 墓石には二つの名が刻まれていた。

 ティルカ名。

 ラウガ名。

 生きている間、二つを使った人。

「どっちで呼ばれたいって」とハル。

「葬儀ではティルカ名」と一人。

「孫にはラウガ名」ともう一人。

「両方」

「法は一つを求める」

「石には二つある」

「だから揉めている」

 イナが杖で墓石を叩いた。

「死者を本人抜きの会議へ呼ぶんじゃないよ」

「ではどう記録する」と墓守。

「二つ書いてあるなら、二つ読め」

「所属は」

「墓はここ。会いに来る者は両方。税は死者から取らない」

「簡単に言う」

「死んでからまで役所を喜ばせるな」

 ハルは札へ書く。

 名前を一つへされないこと。

 墓参りの道。

 死者を国境争いの票へしないこと。

「最後は、本人に聞けない」とハル。

「だから生きてるうちに聞きな」とイナ。

「自分の墓、決めてる?」

「まだ死なないよ」

「聞けるうちに」

 椅子が脛へ来た。

「痛い!」

「聞く時刻を選びな」

 セレナが小さく頷く。

「質問の正当性と、質問時期は別です」

「正しい人が増えた」