第232話 第八章「盗まれたのは土地か」後編
最後に、何も盗られていないと言う者がいた。
ラウガの若いパン焼き。
「家も店も動いた。税も変わった。何も?」
「売上が増えた」
「避難で?」
「兵も役人も腹は減る」
「困ってない?」
「困ってる。だが、損した顔をしないと会議へ入れないのがもっと困る」
「利益があると発言できない?」
「国境争いで儲けた者は不道徳だと言われる。だから値上げ分を隠す」
「値上げした?」
「薪が二倍だ」
「正当?」
「半分は。半分は売れるから」
「正直」
「記録するなよ」
「先に言って」とセレナ。
パン焼きが跳ねる。
「いつからいた!」
「『何も盗られていない』から」
「記録した?」
「価格上昇、薪費、利益率は事件後の経済影響として。氏名の公開は同意を取ります」
「断る」
「氏名非公開」
「利益は」
「数字を確認」
「そこは逃げられない?」
「税務ではありません」
パン焼きはため息をつき、焼きたてを一つハルへ投げた。
「聞き賃」
「無料じゃない」
「無料の質問は、後から高い」
「ミラみたい」
「誰だ」
「今度会ったら、パンの値段を小数まで聞く人」
「会わせるな」
札へ書く。
利益を得た者も、制度の欠点を言えること。
価格の理由と便乗を分けること。
土地を奪われた、と叫ぶ一群の中に、得をした者がいても事件は消えない。
被害と利益は、同じ人の中へ同居できる。
答えを増やすほど、線は薄くなると思っていた。
実際には逆だった。
線が何を切っているか、一つずつ濃くなった。
灰布の仕立屋は、店の戸へ二重の錠を掛けていた。
家そのものは動いていない。
国境だけが、三日で二度、戸口を通った。
「何を盗られた?」とハル。
「追い払う権利」
「誰を」
「元夫」
仕立屋は、ティルカの青印が付いた薄板を見せる。
『接近禁止。家屋から二百リュム以内への立入りを禁ず』
「昨日までは兵が守った。今朝、ここはラウガ側だと言われた」
「ラウガへ同じ申請を」とアビナ。
「証人を三人、連れて来いと言われた。逃げた時は一人だった」
「相手は今どこ」
「国境の向こう。向こうが、どっちかは毎朝違う」
動く線は、逃げる者を自由にする。
同じ動く線が、追う者の命令違反まで移動させる。
「固定線が欲しい?」
「固定した効力が欲しい。家をどちらの国へするかは、どうでもいい」
ハルは札へ書く。
保護命令。
線が動いても付いてくる。
「土地じゃない」と彼。
「私に付く権利だよ」
「正確」
エリアが少し離れたところで頷いた。
黄緑の外套を着た少年は、土地を守りたくないと言った。
「何を盗られた?」
「出ていく理由」
「逆?」
「村が外国になったから逃げる、と言えた。今、また戻った」
「何から逃げたい」
「家業」
少年の家は、三代続く苗床だった。
父は、森を育てることを誇りと呼ぶ。
少年は、空船の機関士になりたい。
「国境が動けば、家族が許す?」
「許さない。でも、徴用名簿が別になる」
「制度の隙間を使う?」
「隙間しか出口がない」
ロロが工具箱から顔を上げた。
「機関士は逃げ道じゃねえぞ」
「知ってる」
「油まみれ、寝不足、修理代を払わねえ船長」
「最後は人による」
「多い!」
「それでもやりたい」
ロロは少年の手を見る。
指先に、苗の樹脂。
親指の腹に、細かな火傷。
「何で火傷」
「夜、壊れた灌水機を直した」
「工具は」
「自作」
「見せろ」
「面接?」とハル。
「違う! 粗悪工具の監査だ!」
少年が初めて笑った。
ハルは札へ書く。
移る自由。
家業を継がない自由。
国境の混乱を利用しなくても出られる道。
「地図へ書ける?」と少年。
「航路なら」とエリア。
「誰かの許可が要る?」
「乗る船には。夢そのものには要りません」
最後に聞いた家では、食卓の中央を国境紐が通っていた。
父はティルカ登録。
母はラウガ登録。
子どもは、出生時に国境帳が燃えて未登録。
「何を盗られた?」
父は「家」と言った。
母は「家族」と言った。
子どもは「スープ」と言った。
「スープ?」
「鍋が向こう。匙がこっち」
「また炊事場」
「国境兵が、食料を越境させるなら申告しろって」
「一口ごと?」
「だから冷めた」
ハルは国境紐を跨がず、床へ座った。
「家をどっちへしたい?」
父と母が同時に違う国を言う。
子どもは、冷めたスープを飲む。
「二つじゃだめ?」
「税籍が重複する」とアビナ。
「ないのは?」
「無籍になる」
「じゃ、この子は」
「現在確認中」
「生まれてから何年」
「九年」と母。
「確認、長い」
「記録が焼けた」
「本人は焼けてない」
子どもが匙を置いた。
「私は、どっちでもない?」
「どっちかを決めるまで」とアビナ。
「決めたら、片方じゃなくなる?」
誰もすぐ答えない。
ガンガが裸足を床へ置く。
父の強い拍。
母の強い拍。
子どもの速い拍。
「三つ聞こえる」と彼。
「何を選んでる」とハル。
「父はティルカ。母はラウガ」
「子どもは」
ガンガは目を閉じる。
両親の拍が大きい。
言葉も大きい。
「分からない」
「本人へ聞く」とネム。
「どっちがいい?」とガンガ。
子どもは首を横へ振る。
「答えない?」
「違う。質問が嫌」
「どう聞く」
「何を残したい、って聞いて」
ガンガが言い直す。
「何を残したい」
「二人」
父と母を指す。
「あとスープ」
「三つ」とハル。
「一つへしない」とガンガ。
その言葉を言う時、彼は心拍を使わなかった。
ハルは札へ書く。
家族を分割しない。
未登録を不在と扱わない。
食事を冷まさない。
「最後、法に要る?」とアビナ。
「生活に要る」と子ども。
アビナは反論できなかった。
聞き取りの終わりに、ガンガは一度だけ群れの拍を聞こうとした。
固定線を望む拍が多かった。
動く線を望む拍も多かった。
不安は、どちらにもあった。
「多い方を言う?」とハル。
ガンガは足を離した。
「言わない」
「聞こえたのに」
「聞こえた数は、答えたくない者を数えない」
ネムは何も打たなかった。
その無音を一票へすることも、反対票へすることもしない。
ハルは、まだ空白の札を一枚、集まった札の横へ置いた。
誰のものでもない。
あとから来る者のための場所だった。
ハルは、四十三人へ聞いた。
四十三の答えがあった。
畑。
水。
家。
墓。
税。
薬。
仕事。
家畜の通り道。
教科書。
夜。
呼ばれる名前。
兵に説明せず渡れる門。
同じ答えも、意味が違った。
水を守りたい者。
水代を守りたい者。
水を飲む順番を守りたい者。
水場へ行かない自由を守りたい者。
ハルはゼロスター号へ戻り、零星針を机へ置いた。
黒い文字盤。
中央の空白。
失われたものを問えば、針は方向を示す。
万能ではない。
問いが悪ければ、悪い答えを正確に返す。
「使うの」とエリア。
「一回だけ」
「何を聞く」
「盗まれた土地はどこ」
「その問い、もう違うと分かった」
「だから違う動きをするか見たい」
「危険です」
「答えにしない」
エリアは彼の顔を見る。
九日前なら、止めたかもしれない。
あるいは情報を隠して、使わせない手を選んだかもしれない。
「条件を先に」と彼女。
「針の動きだけで決めない。質問は一回。肩へ負荷が来たら止める。エリアが閉じろと言ったら閉じる」
「最後だけ私へ責任を寄せている」
「じゃ、俺も閉じられる」
「最初からそうして」
「成立?」
「契約ではありません」
ハルは針へ指を置く。
「ここで盗まれた土地は、どこだ」
針が震えた。
北。
南。
井戸。
墓。
市場。
村。
一本の針が、複数の方向を同時に指そうとする。
文字盤の縁へ当たり、細かく跳ねた。
左肩の奥が熱くなる。
「閉じて」とエリア。
ハルは閉じた。
針は止まる。
「答えなし?」とロロ。
「問いが一個すぎた」とハル。
「普通、一個の方が答えやすい」
「中身が多すぎる一個」
「土地って単語が箱?」
「箱に家も税も死者も入れて、どこって聞いた」
「壊れ物と液体を同梱するな」とロロ。
「配送の例、分かる」
「じゃ仕分けろ」
エリアは四十三枚の札を床へ置く。
線ではなく、守る対象ごとに並べる。
移動してよいもの。
移動させてはいけないもの。
移動しても権利が付いてくるもの。
位置に関係なく開くべきもの。
当人が選ばなければ決められないもの。
「地図にできる?」とハル。
「今の地図にはできません」
「また破る?」
「紙が足りない」
「ロロが喜ぶ」
「高い紙!」と機関室から声がした。
固定線にも、守っているものがあった。
墓地である。
国土獣マドラの背には、石灰根で固めた共同墓地がある。
墓石は毛根へ深く結ばれ、獣が走っても倒れない。
ティルカは墓地を自国側へ固定するため、北縁の通路を閉じようとした。
ラウガは森の退避路を開くため、同じ北縁を空けようとした。
どちらも正しい。
墓地を開放すれば、走る国土獣が根橋を踏み、墓石が崩れる。
通路を閉じれば、寄生虫を避ける獣の群れが行き止まりになる。
「墓を守る線が、生き物を止める」とハル。
「死者を捨てろと言うな」とアビナ。
「言ってない」
「獣の道を優先すれば同じだ」
「優先じゃなく、別の通り方を」
「時間がない」
「時間がない時ほど一個にすると」
「話を増やすな!」
アビナの声が割れた。
彼女の背後で、青瓦村の屋根が揺れる。
国土獣ルムが近づいている。
避難路へ人が詰まっている。
「私は、全員の言葉を聞く役ではない」
アビナは言う。
「門を閉じる役だ。閉じなければ、墓も村も踏まれる」
「閉じたら獣が転ぶ」
「転ばせないために、石を固定する」
「何の石」
「国境石だ」
ハルの胃が冷えた。
「どこへ」
「地盤へ」
「ここに地盤ない」
「星鉄杭をマドラの根盤まで打つ」
「それは地面じゃない。背中だ」
「根盤は百年以上動いていない」
「マドラは動いてる!」
「根盤を固定すれば、周囲の鞍索を束ねられる。群れの流入を止め、避難路を一本へする」
「一本へするな!」
ガンガが立った。
声を上げた瞬間、周囲の心拍が一段速くなる。
彼は気づき、鐘棍を布で包んだ。
「獣は逃げ道を探している。一本へ追えば、弱い背が潰れる」
「では王候補が止めろ」とアビナ。
「一つの拍へはしない」
「何もしないのか」
「違う道を」
「まだ決まっていない」
「決める」
「いつ」
「聞いてから」
「間に合わない!」
ハダンの三叉杖が、地面へ打たれた。
「ガンガ」
「分かってる」
「分かっている者の顔ではない」
「石を打つな」
「なら代案を言え」
ガンガは黙った。
国境石。
青脈井。
十二頭の国土獣。
二つの居住区。
墓地。
何千の心拍。
聞こえすぎる。
聞こえることが、選べることにはならない。
「俺が同調させれば」
ネムの太鼓。
休符。
ガンガが振り向く。
「でも」
ネムは書く。
『恐怖を一つにするな』
「ばらばらの恐怖で、ぶつかる」
『一つの恐怖なら、同じ崖へ走る』
「じゃ、どうする」
『私は答えではない』
ガンガの顔が歪む。
「聞こえるのに」
『聞いた。選ぶのは、お前』
それは拒絶ではない。
代わりに王にならないという線引きだった。
兵は先に動いた。
ティルカの青装兵。
ラウガの緑装兵。
両方が、同じ国境石へ縄を掛ける。
目的は違う。
ティルカは石を根盤へ打ち、行政線を固定したい。
ラウガは石を外縁へ移し、森の退路を確保したい。
反対方向へ引いた結果、石は中央で立った。
「合意してない!」とメーザ。
「見た目は合意!」とロロ。
「最悪の合意だ!」
国境石の底へ、三本の星鉄杭が差し込まれる。
一本目。
マドラの背毛が逆立つ。
二本目。
地面の下で、低い音が走る。
どぉん。
ガンガが胸を押さえた。
「根盤じゃない」
「何だ!」
「肩帯」
マドラの皮下を走る巨大な筋。
十二頭が根橋を通じて近づく時、背の森を支える筋帯。
そこへ杭が入った。
「抜け!」
「抜けば石が倒れる!」
「倒せ!」
「国境を倒せと言うのか!」
「石だ!」
「国境だ!」
「今は刃だ!」
ハルが走る。
三本目の杭を打つ槌へ飛びつく。
兵が腕を振る。
ハルは避け、槌柄へ縄を巻く。
左肩を引かない。
腰で回す。
槌が横へ逸れる。
だが二本目は深い。
マドラが前脚を折った。
森が傾く。
家が滑る。
墓石が鳴る。
青脈井の石輪から水が噴く。
「全員伏せろ!」
ハダンが一命令〈グラウンド・コール〉を放つ。
声が地面の震動へ変わる。
伏せろ。
一つの短い指示だけが、森全体を走った。
人々が伏せる。
獣も反応する。
マドラがさらに身体を低くした。
「違う!」とガンガ。
伏せる動きが、転倒へ変わる。
巨大な背が右へ沈む。
隣のシドとつながる根橋が張り切る。
墓地の固定索が、逃げる獣二頭を縛る。
固定線は墓を守った。
同時に、群れの逃げ道を塞いだ。
地平が回る。
空が下へ落ちる。
村一つを載せたマドラが、雲海へ向けて転倒しかけた。