第233話 第九章「走る森を横断」前編
最短距離とは、二点の間を結ぶ線である。
この定義には、隠された礼儀がある。
二点は待っている。
線を引く間、場所は場所のままでいる。
橋は勝手に歩かない。
谷は横へ逃げない。
目的地が背中を上下させ、別の目的地とぶつかろうとはしない。
地面が生きている土地では、最短距離は礼儀知らずになる。
早く着く道が、最初に消えるからである。
マドラが倒れる。
空が右へ回る。
森が左へ滑る。
家々の固定索が悲鳴を上げた。
「伏せたまま動くな!」
ハダンの命令が残響する。
「その命令を止めろ!」とガンガ。
「一命令は止められん! 次を重ねれば混線する!」
「なら身体で起こす!」
ガンガが鐘棍の布をほどく。
「鳴らすな」とネム。
掠れた声が、揺れる地面より鋭い。
鐘は鳴らせば遠くへ届く。
遠くへ届く声は、遠くの恐怖まで同じ形へする。
ガンガは鐘棍を逆さに持った。
鐘ではなく柄を使う。
地面へ突き立て、傾く森を走る。
「何する!」とハル。
「マドラの肩を押す!」
「人が?」
「人だけじゃない!」
シドが隣を走っている。
両者をつなぐ根橋は限界まで張っている。
ガンガは根橋の付け根へ鐘棍を差した。
梃子にするのではない。
根の振動を、シドへ伝える。
どん。
ど、どん。
押せ。
言葉ではない。
群れが何百年も使ってきた接触拍。
シドの左肩が、マドラへ寄る。
「獣へ命令した」とアビナ。
「頼んだ!」
「違いは」
「断れる!」
シドは一度離れた。
断った。
次に、自分から寄った。
巨大な肩と肩が触れる。
森同士がぶつかる。
木々が折れ、家の窓が割れた。
だがマドラの転倒が一瞬止まる。
「今!」とエリア。
路図が地面へ走った。
固定した一本の光ではない。
住民の足元ごとに違う線。
幼児は低い根の内側。
寝台は傾斜の少ない水路沿い。
荷車は捨てる。
墓地から来た者は、墓石の固定索を掴まない。
「何で最後!」とハル。
「索がマドラをシドへ縛っている。人の重みが加わる」
「墓を離せって言える?」
「言いません。索を掴むなと言う」
言葉を分ける。
墓を捨てろ。
索を掴むな。
同じ動作を求めても、意味は違う。
ハルは墓地へ走った。
石灰根の墓石が傾いている。
イナは木椅子を抱え、夫の墓の前へ座っていた。
「避難!」
「椅子ごとかい」
「椅子は俺が持つ!」
「墓は」
「動かない!」
「それを守ってるのは索だよ!」
「索を切らない! 人が掴むのだけやめる!」
「細かいねえ!」
「今は細かさで生きる!」
ハルは椅子を背へ縛り、イナを肩へ担ごうとする。
「左肩」とエリアの声が伝羽から来る。
「聞こえてる!」
「私の声が?」
「肩の方!」
「では右へ荷重」
「イナ、右側!」
「私は荷物かい」
「大事な人!」
「それは重いよ」
「体重の話じゃない!」
イナは自分でハルの腰索へ掴まる。
「運ぶんじゃない。遅い足を貸しな」
「分かった」
ハルは走らない。
走る方が速い。
だが相手の足を消す速さになる。
傾く墓地を、二人で歩く。
後ろで墓石が一基、倒れかける。
固定索が受け止めた。
線は、死者を守った。
同じ線が、生者の地面を傾けている。
どちらか一方だけを真実にすると、もう一方が嘘になる。
ロロは星鉄杭を抜かなかった。
「抜けよ!」とメーザ。
「今抜いたら筋が裂ける!」
「刺さってる方が裂ける!」
「だから先に周りを止める!」
彼の補助腕四本が別々に動く。
一つは杭の角度を測る。
一つは皮下の圧を読む。
一つは冷却樹脂を押し込む。
一つは、なぜか料金札を支えていた。
「料金札いらない!」とハル。
「後で誰が払うか分からなくなる!」
「今?」
「今書かねえと全員、自分は頼んでないって言う!」
「二国共同」とカイル。
「比率!」
「杭を打った本数、救助人数、資材提供量を後で計算する」
「曖昧!」
「命を比率へしない」
「じゃ修理代は!」
「私が保証人になる」
「王子保証は政治価格がつく!」
「カイル個人」
「個人資産ある?」
「凍結されていない分なら」
「先に一覧!」
「今なのか?」
「今だ!」
ロロは怒鳴りながら、杭の周囲へ三本の支え爪を入れた。
皮膚を刺さない。
毛根と樹脂帯へ負荷を逃がす。
星鉄杭がそれ以上沈むのを止める。
「抜くぞ!」
「さっき抜くなって!」
「抜ける状態にした!」
「説明が後!」
「作業が先!」
メーザとサムが杭へ縄を掛ける。
カイルが王盾を展開した。
炎ではない。
半透明の盾面を、滑車の受けへする。
「右腕に負荷を寄せるな」とセレナ。
「盾は両腕だ」
「右肋部を庇って左へ傾いている」
「見ていたのか」
「監督対象です」
「少し嬉しそうだな」
「痛みで判断が乱れています」
カイルは笑い、足を開いた。
「せーの!」とハル。
「誰が指揮を」とアビナ。
「今だけ俺!」
「権限は」
「縄の近くにいた!」
「弱い!」
「でも全員、もう引いてる!」
杭が抜ける。
黒い血が噴いた。
サムが薬樹脂を叩き込む。
ロロの支え爪が傷口を左右から閉じる。
マドラの身体が震えた。
シドがもう一度、肩を寄せる。
傾きが止まる。
完全には戻らない。
七度傾いたまま、走り続ける。
「転倒回避」とメーザ。
「回避じゃない」とエリア。「保留」
十二枚の地図が揺れている。
マドラは寄生虫を避け、居住区へ向かう。
シドは傷で速度が落ちている。
ルムは後ろから押す。
群れ全体が、歪んだ列になる。
「青脈井へ行く」とサム。
「ここにある」とアビナ。
「井戸口は」とサム。「濾過根の病変は、マドラ左腹の下だ」
「直線で六百リュム」とメーザ。
「直線が崩れている」とエリア。
マドラ中央の林道は、転倒しかけた時に裂けた。
家二棟が倒れ、根の亀裂から蒸気が上がる。
井戸口へ直接行けない。
左腹の濾過根へ入るには、隣のシドへ渡り、ルムへ移り、再びマドラの低い側へ戻る必要がある。
二点間の最短線は壊れた。
「走る森を三つ渡る」とハル。
「五つです」とエリア。
「増えた」
「今、ペルが進路へ入った」
「地図が喋るたび遠くなる」
「現実が動いています」
「地図に合わせて止まってもらえない?」
「今のエリアへそれを言う?」とロロ。
「冗談」
「冗談の時刻が悪い」とセレナ。
「じゃ、いい時刻に笑って」
「予約してください」
作戦は、四分で決めた。
四分しかなかったのではない。
四分を超えたら、先頭のルムがティルカ貯水区へ入る。
エリアが十二枚の地図を重ねる。
「目的は二つ。青脈井の濾過根へ到達し、寄生の深さを確認する。もう一つは、群れが安全に向かえる水場候補を探す」
「井戸を治すんじゃない?」とハル。
「治せるとまだ決まっていない」
「治せないなら」
「避難路を開く」
「どっちを先に」
「現地で決める。ただし決める人を一人にしない」
エリアは役割札を置く。
ハル。
先行索、救助、目視確認。
ガンガ。
国土獣の体調と接触拍。ただし万獣鼓動〈ハート・ハウル〉は禁止。多数の感情を一拍へ集めない。
ネム。
異常振動の分離記録。本人の体調申告を優先。
ロロ。
濾過根の機械診断と仮設通路。
サム。
寄生治療。
エリア。
動的路図。連続使用は十八分まで。
「短い」とハル。
「両踵の発熱が四段階中二。肺は一。十八分を越えると精度が落ちる」
「自分で言った」
「言います」
「えらい」
「評価は要りません」
「でも聞いた」
エリアは一瞬だけ目を逸らした。
カイルとセレナは現地へ行かない。
カイルは二国の兵を分け、居住区の避難を担当。
セレナは卵試料、検疫記録、軍の行動を保全する。
「一緒に来ない?」とハル。
「行きたい」とカイル。
「正直」
「だから行かない。私が抜けると二国が互いの避難列を敵軍と呼ぶ」
「王子がいるから止まる?」
「王子だからではない。両方に、私を信用しない同じ理由がある」
「共通点」
「不名誉だが使える」
セレナは言う。
「撤退条件を」
ハルが指を折る。
「エリアが精度低下。ネムの痛み申告。ロロの呼吸が」
「俺は行ける!」
「申告じゃない。呼吸が三回続けて途切れたら」
「二回!」
「三」
「二半」
「半分どう数える」
「吸ったけど吐けない」
「それは危険です」とセレナ。
「じゃ二回!」
「三」とハル。
「隊長ぶるな!」
「縄の近くにいる」
「今は作戦卓だ!」
サムが薬籠を叩く。
「寄生幼虫が地表へ大量に出たら退く。皮下へ入られた者が二人出たら退く。国土獣同士の距離が十リュムを切ったら、飛び移らず待つ」
「待ったら離れる」とガンガ。
「近すぎる方が潰れる」
「分かった」
「本当に?」とネム。
ガンガは胸を二度叩かない。
「聞いた。賛成だ」
ネムは太鼓を長短へ打つ。
聞いた。
賛成ではない。
「お前は」
『賛成と言わない。行く』
「違うのか」
『違う』
ハルは笑う。
「一緒に行くって、同じ考えって意味じゃない」
「分かっている」とガンガ。
「今、覚えた顔」
「顔に動詞があるのはロロだけだ」
「俺を共通単位にすんな!」