第234話 第九章「走る森を横断」後編

 走る森の横断が始まった。

 最初はシド。

 傷ついた国土獣は、左へ体重を逃がしながら走る。

 背の森が波のように上下する。

 ハルは前へ縄を投げる。

 木へ掛けない。

 木は根ごとしなる。

 太い毛束へ輪を通す。

 毛は地面であり、手すりであり、獣の身体である。

「痛くない?」

「一本なら」とサム。「束を絞るな」

「髪を引くみたい?」

「村ごと引く強さなら痛い」

「例が大きい」

 ハルは輪を広くする。

 自分が渡る。

 次にネム。

 ロロは補助腕で縄へ滑車を付け、薬籠と機材を渡す。

 ガンガは最後。

 ノクスが彼の肩へいる。

「今回は残ると思った」とハル。

「来た」

「本人の選択」

「ノゥ」

「翻訳しない」

 ノクスは二本の尾を別方向へ立てた。

「何かいる」とガンガ。

「ノクスで決めない」とハル。

「匂いを見ている」

「匂いは見る?」

「獣は」

「俺たちは?」

「喋りながら落ちる」

 シドが跳ねた。

 全員の身体が浮く。

 ハルは縄を締める。

 左肩へ衝撃。

 熱い。

 だが外れていない。

「二」と彼。

「何が」とエリア。

「肩の痛み。四段階」

「申告した」

「する」

「えらい」

「評価は」

「要らない?」

「少し要る」

 エリアの路図が、地面の傾きへ合わせて曲がる。

 固定線ではない。

 光の矢印が、次に置く足の幅へ縮む。

「右、三歩。待つ。根が上がる。今」

 ハルは従う。

「地図じゃなくて振付」と彼。

「あなたが勝手に踊るからです」

「相手は誰」

「地面」

「主導権ある?」

「地面に」

 ハルが跳ぶ。

 シドの外縁からルムへ。

 距離十二リュム。

 下は雲。

 ルムの森が近づく。

 離れる。

 また近づく。

「次の接近、七秒!」とロロ。

「エリアは?」

「六・八」

「どっち!」

「ロロの機械は前回歩幅。私は今の毛流」

「六・九!」とロロ。

「間を取った」

「精度を足した!」

 六・八秒。

 ハルは飛び出す。

 赤いマフラーが雲を切る。

 ルムの端へ届かない。

 縄が伸びる。

 ガンガが後ろで掴む。

「肩!」

「腰索!」

 ガンガは腰の輪へ力を掛けた。

 ハルがルムの毛へ落ちる。

 顔から。

「着いた!」

「顔で」とロロ。

「顔に動詞!」

「今のは動作だ!」

 次々に渡る。

 ネムは跳ぶ前、太鼓へ不規則な拍を打ち始めた。

 短。

 短。

 長。

 休。

 短。

 同じ並びを繰り返さない。

「何の合図」とハル。

 ネムは板へ書けない。

 走っている。

 指で、自分、地面、耳を示す。

「聞き比べ?」

 頷く。

 太鼓の振動が、国土獣の皮膚へ入る。

 健康な背では、拍が遠くまで伸びる。

 毛根を通り、樹脂橋へ返る。

 寄生された背では、途中で消える。

 幼虫が皮下の神経と水路へ集まり、細かな振動を吸収する。

 それはまだ結論ではない。

 だが地図へ重ねられる差になる。

「音が消える場所を赤」とエリア。

 ネムは首を横へ振る。

「赤じゃない?」

 指で青を示す。

「なぜ」

 板へ一語。

『赤、多い』

 エリアの地図には既に、危険を示す赤が増えすぎていた。

 寄生、崩落、軍、傾斜。

 危険を全部同じ色にすると、何が違う危険か分からない。

「青の点線」とエリア。「音が消える範囲。危険度は別記」

 ネムは一拍。

 聞いた。

 ルムの中央で、太鼓の拍が消えた。

 一度だけではない。

 ネムは三か所で叩く。

 三か所とも同じ。

 健康な毛束へ戻ると、振動が返る。

「虫のいる背だけ」とサム。

「深さも分かる?」とロロ。

 ネムは手を低く、高く動かす。

「返りの時間?」

 頷く。

「機械へ入れられる!」

 ロロの目が輝く。

「本人へ先に聞いて」とエリア。

「ネム、使っていいか!」

 ネムは耳栓を片方外す。

 ロロが説明する。

「お前の拍を記録器へ入れる。名前は付けねえ。位置と返り時間だけ。後で消せる。売らねえ。俺の発明名は付けたい」

 ネムは考える。

 板へ書く。

『名前は私が付ける』

「共同発明?」

『私が付ける』

「取り分は?」

『青苦砂三袋』

「高い!」

『ミラなら四』

「お前、港と通信してる?」

 ネムの口元が少し上がった。

「成立!」

「ミラが増殖してる」とハル。

 青の点線が、ルムの背で急に広がった。

 ネムが太鼓を打つ。

 返らない。

 もう一度。

 返らない。

 サムが毛をかき分ける。

「下がれ」

「何」とハル。

「皮下が浅い」

 次の瞬間、毛穴から白い幼虫が噴いた。

 雨ではない。

 地面から上へ降る、小さな棘の群れ。

「踏むな!」

 全員が跳ぶ。

 踏まないために、同じ場所へ着地する。

「密集するな!」とエリア。

「どっち!」

「左右へ三!」

 路図が扇に開く。

 ハルは右。

 ガンガは左。

 ネムは中央。

 ロロが機材箱を背へ上げる。

 補助腕一本の関節へ幼虫が付いた。

「入った?」とハル。

「機械へは寄生しねえ!」

「でも隙間」

「油が嫌いらしい!」

 ロロは腕を振る。

 幼虫が飛び、彼の首元へ落ちる。

「本人へ寄生する!」

 ハルが赤いマフラーで払う。

「汚すな!」

「虫と布どっち!」

「布は洗える!」

 サムが青苦砂を少量、風上へ撒いた。

 幼虫が一斉に向きを変える。

「効く!」

「全部撒くな」とメーザの伝羽。「井戸用が減る!」

「今、ここで使う!」

「使用量を!」

「命を小数にするな!」

「後で足りなくなる方が死ぬ!」

 サムの手が止まる。

 正しい反論である。

 青苦砂は有限。

 危機へ全部使えば、井戸を救えない。

「道幅だけ」とエリア。「二リュム。撒く間隔を空ける」

「虫が間を通る」とハル。

「人が一列で通る。虫を全部止めるのでなく、触れない幅を作る」

 サムが薄く三本、砂線を引く。

 幼虫は線を避け、間へ集まる。

 人は線の上を走る。

「綱渡りより細い!」とハル。

「あなたなら可能」

「褒められた?」

「適材です」

 ロロが遅れる。

 補助腕で機材を持ちすぎている。

「箱を捨てろ!」

「中に振動針!」

「また作れる!」

「ネムの記録は同じ条件で取り直せねえ!」

「本人がいる!」

「本人に同じ危険をもう一回やらせるのか!」

 ハルが止まる。

 記録は物より軽くない。

 ただし記録者より重くしてはいけない。

「半分」とネム。

 掠れた声。

 彼は機材箱を指し、次にロロの補助腕二本を折り畳む動作をする。

「機材を半分置く?」

 頷く。

「どれ」とロロ。

 ネムは振動針と記録板を選ぶ。

 予備電池、外箱、名前札を捨てる。

「名前札!」

『後で』

「発明は名前で売れる!」

『生きてから』

「正しい!」

 ロロは箱を軽くする。

 走り出す。

 十歩。

 呼吸が一度、途切れた。

 彼は何も言わない。

 十五歩。

 二度目。

 ハルが見る。

「二」

「まだ二!」

「撤退条件は三」

「分かってる!」

 二十歩。

 三度目。

「止まる!」とハル。

「道の途中!」

「条件!」

「あと七リュム!」

「条件は距離で値切らない!」

 エリアの路図が横へ曲がる。

 青苦砂線の外に、毛が薄い小さな岩根。

「待避点。右二」

「最短から外れる!」とロロ。

「撤退条件を決めた意味を、今なくさない」

 ロロは歯を食いしばり、右へ曲がる。

 岩根へ座る。

 吸入管を使う。

 補助腕は機材を抱えたまま。

 ネムが一本ずつ、彼の腕から荷を下ろす。

「勝手に」

『許可?』

「……取れ」

 ネムは指で、下ろしてよいか一つずつ確認する。

 ロロは頷く。

 本人が苦しい時ほど、周囲は確認を省きたくなる。

 時間がないから。

 だが助ける速度が、本人の身体を他人の物にすることもある。

「三分」とサム。

「一分で」

「三」

「二!」

「二半」とハル。

「何でお前が値切る!」

「知り合いの文化」

 ロロは二分半休んだ。

 群れは進む。

 目的地は遠ざかる。

 それでも決めた撤退条件を守った。

 守ったから、再び走れた。

 青の点線の先で、ネムの太鼓がまた返る。

 感染域を抜けた。

「記録」とロロ。

 ネムは板へ書く。

『虫がいる場所。砂が効く。ロロは三回で止まる』

「最後いらない!」

『条件』

「公開するな!」

『本人へ返す』

 ロロは板を受け取り、消さなかった。

 第三の背、ラナへ移る頃、群れの速度がさらに上がった。

 居住区の鉱物水を嗅いでいる。

 木々が後ろへ寝る。

 根橋が鞭のように振れる。

 国境兵の一隊が前方へいた。

 ラウガの緑装。

 ティルカの青装。

 彼らは互いへ槍を向けながら、同じ道を塞いでいる。

「通せ!」とハル。

「国境調査隊は停止!」

「今、国境どこ!」

「この線だ!」

 兵士が地面へ白粉を撒く。

 風で流れる。

「消えた!」

「線はある!」

「見えない!」

「法にはある!」

「俺の足にはない!」

 ハルは止まらない。

 槍の下を滑る。

 腰索を一本へ掛け、兵士二人を互いの方へ引く。

 槍先が外を向く。

「暴行!」

「進路変更!」

「言い換えるな!」

「怪我させてない!」

「権威を傷つけた!」

「治療できる?」

「できん!」

「じゃ後!」

 ガンガが兵の前へ出る。

 大柄な身体。

 白い角。

 鐘棍。

 兵は一歩退く。

 ガンガは声を上げない。

「通る」

「王候補の命令か」

「違う」

「なら従えない」

「お前も来い」

「何」

「井戸を救う。国を守りたいなら、水を運べ」

「どちらの国へ」

「まだ決めない」

「命令が曖昧だ」

「命令ではない」

「では拒否する」

「分かった」

 ガンガは横を通る。

 兵士は戸惑う。

 拒否を許された。

 許されたから、拒否の責任が自分へ戻る。

「待て」

 一人の青装兵が槍を下げた。

「井戸までだ」

 緑装兵も言う。

「私は傷の確認だけ」

「同じじゃない」とガンガ。

「同じにするな」とネム。

「分かっている」

 今度は、覚えた後の顔だった。

 ネムの拍が遅れたのは、ラナからペルへ渡る直前だった。

 短。

 長。

 短。

 次が来ない。

 ガンガは前を見ている。

 何千の鼓動。

 居住区の避難。

 近づく国土獣。

 マドラの痛み。

「ペルの背、虫が多い!」とサム。

「右へ三十!」とエリア。

「距離が開く!」とロロ。

 声が重なる。

 ガンガの足裏へ、大きい拍が押し寄せる。

 ネムの細い拍が、その中へ沈む。

 ネムは遅れていた。

 耳の骨板を一枚外し、片膝をついている。

 過敏聴覚の頭痛。

 喉の乾燥。

 本人は申告していない。

 痛みを隠す癖。

 太鼓をもう一度打とうとする。

 音が出ない。

 ラナの皮下へ寄生虫が集中し、振動が吸われている。

 小さな不規則拍は、虫のいる背だけで途切れる。

 公平な手掛かりは、しばしば危機の中で最も弱い音を立てる。

「接近、五秒!」

 エリアの路図がペルへ伸びる。

「全員跳べ!」とロロ。

 ガンガが先へ行く。

 兵二人。

 サム。

 機材。

 ハルも走る。

 一歩。

 二歩。

 何か足りない。

 人数ではない。

 音。

 さっきまで後ろで鳴っていた、同じにならない拍。

 ハルは振り向く。

 ネムがいない。

「ガンガ!」

 返事がない。

 大勢の心拍を聞いている。

「ネムが遅れてる!」

 ガンガの身体が止まりかける。

 その瞬間、ペルとの距離が開く。

「止まるな!」とエリア。「今止まれば全員落ちる!」

「でも」

「先へ!」とハル。

「お前は」

「戻る!」

「最短路を外れる!」

「最短にネムが入ってない!」

 ハルは路図を蹴って外れた。

 光の線はペルへ続く。

 彼は反対へ走る。

 ラナの傾く森。

 虫が振動を吸う青い点線。

 崩れかけた根橋。

 目的地から離れる道。

 今、この群れで最も小さい一人を、最短距離の外へ置かないために。