第235話 第十章「井戸を先に救う」前編
王は、何を救ったかで記録される。
国を救った王。
民を救った王。
森を救った王。
水を救った王。
歴史書は順番を書かないことが多い。
国を先に救い、そのために民を捨てたのか。
民を先に救い、その結果として国が残ったのか。
同じ四文字でも、選んだ順番によって王は別人になる。
そして王にならなかった者の順番は、もっと残りにくい。
ガンガには、世界が音ではなかった。
音より前のものだった。
足裏へ来る圧。
胸骨へ返る振動。
土の下で水が曲がる気配。
森を載せた巨大な肺が、空を吸い込む間。
人間の声は、その後に来る。
「最短にネムが入ってない!」
ハルの声が、風へ切れた。
彼の拍は速い。
細い身体の割に、足へ出る力が大きい。
左肩を庇うたび、二拍目が浅くなる。
今、その拍が後ろへ戻っていく。
ネムの拍は聞こえない。
聞こえないのではない。
大きいものが多すぎる。
居住区で走る人。
転びかけたマドラ。
傷ついたシド。
水を求めるルム。
恐怖する兵。
寄生虫の細かな揺れ。
全てが、ガンガの足裏へ同時に来る。
群れの声。
彼はそれを聞くために育てられた。
王獣候補は、最も多くを聞く者だと教えられた。
だが多くを聞くことは、小さい一つを聞くことと同じではない。
「ガンガ、行け!」
ハルの声。
「ネムが」
「俺が行く!」
「俺のきょうだいだ!」
「ネムだ!」
その訂正は、刃より深く入った。
きょうだい。
守るべき年下。
自分の失敗を思い出させる者。
その言葉へ押し込めれば、ネム本人をもう一度見失う。
「……ネムだ」
ガンガは言い直した。
「任せる!」
「受けた!」
ハルの拍が遠ざかる。
ガンガは前へ跳んだ。
後ろへ戻りたい身体を、前へ運ぶ。
信頼とは、同じ場所へ駆けつけることだけではない。
自分が行きたい場所を、他人へ任せることでもある。
それは彼にとって、鐘棍で岩を割るより重かった。
ペルの背へ着地した時、ガンガの左足裏が焼けた。
寄生虫の多い毛流。
皮下の熱。
彼はすぐ足を上げる。
「何がある」とサム。
「細い拍。多い。浅い」
「場所を」
「俺へ聞くな」
ガンガは言ってから、自分でも驚いた。
聞けるのに、答えへしない。
「ネムの青い点線を使え」
エリアが地図を開く。
青の点線は、太鼓の振動が消えた範囲。
赤い毛流は、皮下の防御反応。
黄色は傾斜。
白は兵。
色が多い。
「地図が病気に見える」とガンガ。
「病気を隠して健康に見せるより正確です」
「正確なら、治るか」
「治療方法は別」
「地図は答えじゃない」
「はい」
「でも、問いを分ける」
エリアは一瞬だけ彼を見る。
「今のは覚えておきます」
「俺の言葉を取るな」
「出典を付けます」
「ならいい」
ロロが前方で叫ぶ。
「井戸の腹口、見えた!」
青脈井の地上口は、マドラの背にある。
しかし水を濾す根は、国土獣の左腹へ沿って広がっている。
マドラが傾いたため、その根の一部が空へ露出していた。
根ではない。
青い血管のような管束。
表面へ白い卵塊が貼りつき、ところどころ黒く腐っている。
「濾過根、三割死んでる」とサム。
「三割なら七割生きてる」とハルなら言うだろう。
ガンガは言わない。
七割が生きていることは、三割の死を軽くしない。
「直せるか」
「ここで全部は無理。菌床を取り替え、青苦砂を戻せば水は変わる」
「砂は」
「ティルカの倉庫。居住区」
「群れが向かっている場所」
「そうだ」
「取りに行けば、群れとぶつかる」
「だから井戸を動かす」とロロ。
ガンガが彼を見る。
「井戸は穴だ」
「この井戸は穴じゃねえ!」
ロロの補助腕が、露出した構造を指す。
「石輪。濾過根。菌床籠。集水膜。下の水嚢へ刺さる導水管。穴だと思ってたから座標で所有した。でも実物は部品だ。全部じゃねえが、核は運べる」
「水嚢はマドラの中」
「今は空になりかけ。水を汲む場所を変える。別の国土獣の背へ共同水槽を作って、青苦砂を入れる」
「どの獣」
エリアが十二枚を重ねる。
「ラナとペルの間。両国の居住区から離れ、群れの逃げ道が三方向ある」
「国境は」
「今の線では、季節ごとに変わる帯の中央」
「どちらの国」
「まだ決めません」
「水場は決める前に作る?」
「飲む者は待ちません」
ガンガは胸を二度叩いた。
自分の拍。
地面の拍。
王候補なら、国境石を先に立て直すべきだ。
国の形を決め、命令系統を一つにし、水場を配る。
ハダンが教えた緊急の順番。
だが虫は国境を読まない。
国土獣は王位を待たない。
石を先に救えば、石を守るために井戸が遅れる。
井戸を先に救えば、どちらの国のものか決まらないまま水を共有する。
後者は、王にとって危険である。
決める権利が、水を運ぶ人々へ散るからだ。
「ガンガ」
ハダンの声が伝羽から来る。
「聞こえるか」
「聞こえる」
「石を守れ。国境石が倒れれば、二国の兵は互いを敵と決める。先に旗を一本立てろ」
「どちらの旗」
「お前の旗だ」
「俺の国はここ全部じゃない」
「王になれば、全部をまとめられる」
「まとめたら、ネムの拍が消える」
「今はネムの話ではない」
「いつならネムの話になる」
ハダンが黙る。
ガンガは続ける。
「大きい危機の後か。国が決まった後か。王になった後か。小さい拍はいつも後へ置かれる」
「後へ置かなければ、全員が死ぬ時もある」
「分かってる」
「なら決めろ」
「井戸だ」
ガンガは言った。
「石より先に、井戸を救う」
「国境を捨てるか」
「捨てない。後へ置く」
「兵は従わん」
「従わせない」
「では動かん」
「頼む。断れるように」
ハダンの呼吸が、伝羽の向こうで一度だけ乱れた。
「王の言葉ではない」
「まだ王じゃない」
「王になれなくなるぞ」
「水がなければ、王になる群れもいない」
沈黙。
「……決めぬことも決めたことだ」とハダン。
「決めた」
「なら責任を持て」
「持つ」
「一人で持つな。潰れる」
通信が切れた。
ガンガは、その最後の一言を聞き違えたかと思った。
だが聞き直す時間はない。
ハルは、ネムへ届いた。
ラナの森が大きく沈む。
ネムは根の割れ目へ片脚を挟み、耳の骨板を外していた。
太鼓は手の届かない斜面へ落ちている。
「生きてる?」
ネムが睨む。
「質問が雑?」
頷く。
「どこが痛い」
ネムは左耳、喉、右足首を指す。
「三つ。意識は」
自分の額を指し、それからハルへ中指を立てかける。
「元気」
首を横へ振る。
「元気ではないけど、怒れる」
頷く。
「救助していい?」
ネムは一瞬止まる。
その問いを待っていた。
頷く。
「足を抜く。肩貸す。太鼓は後。順番変えたい?」
ネムは太鼓を指す。
「先?」
頷く。
「大事だから?」
板はない。
ネムは地面へ指で書く。
拍。
「みんなに送るため」
頷く。
「分かった。太鼓から」
最短救助なら、身体を先に引く。
だが本人が必要とする道具を置き去りにすれば、救助後に声を奪う。
ハルは斜面を下りた。
左肩を使わず、腰縄を太鼓へ掛ける。
寄生幼虫が毛の間から出てくる。
乳白色の身体。
黒い棘。
「多い!」
ノクスがいない。
ガンガの肩だ。
ハルは虫を蹴らない。
踏めば汁が飛び、傷へ入る。
赤いマフラーを外し、太鼓へ巻く。
「汚れるけど」
ネムが眉を上げる。
「洗う。洗っていい?」
首を縦。
縄を引く。
太鼓が戻る。
ネムはすぐ、短い不規則拍を打った。
短。
休。
長。
短。
地面へ入る。
感染域で消える。
ただし、完全には消えない。
右側だけ返りが速い。
ネムが目を見開く。
もう一度。
同じ。
「何か分かった?」
ネムは虫の流れと、右側の根を指す。
「右へ逃げてる?」
頷く。
その先は、青い鉱物を含む古い岩根。
虫はそこを避けている。
「青苦砂」
ネムが短く声を出す。
「分かった。伝える」
伝羽を取る。
「エリア、ネムの拍、感染域の中でも青い岩根側だけ返る。虫が避けてる」
『確認済みの青苦砂反応と一致』
「井戸を動かせる?」
『今、ロロが同じ案を』
「ロロ、俺より先」
『悔しい?』
「少し。でもネムが証拠を増やした」
ネムがハルの腕を叩く。
「何」
地面へ書く。
『私が先』
「ロロより?」
頷く。
「伝える」
『伝えなくていい』
「どっち!」
ネムは、初めて声を出して笑った。
掠れた、短い音。
すぐ喉を押さえる。
「笑うと痛い?」
頷く。
「じゃ俺が代わりに笑う?」
強く首を横へ振る。
「代わりにしない」
ハルはネムの足を抜いた。
右足首は捻挫。
歩けない。
「背負う?」
ネムはハルの左肩を見る。
「右へ乗せる」
考え、頷く。
「途中で降りたいなら二回叩いて」
ネムは太鼓を長短へ打つ。
聞いた。
賛成ではない。
「また?」
次に、一度だけ長く打つ。
それが、今だけの同意だった。
井戸を運ぶには、石輪を外す必要があった。
青脈井の石輪は、直径十二リュム。
厚さ一・五。
青鉱石、樹脂、古い星鉄の帯。
重さは、ロロの計算で二百八十六トン。
「運べない」とアビナ。
「運ぶ」とロロ。
「数字を聞いたか」
「聞いたから分割する!」
「井戸を壊すのか」
「井戸は輪じゃねえ。水を安全に通す機能だ!」
「形を失えば、ティルカの所有証明が」
「所有証明を持って飲め!」
「侮辱か」
「水へ紙を混ぜるなって話だ!」
ベグが言う。
「濾過根を外せば、森が枯れる」
「全部外さない」とサム。「生きている七割から、分けられる菌床を取る。残りはマドラへ残す」
「二つの井戸?」とハルの声が伝羽から入る。
「お前、無事か!」とロロ。
『ネムと戻ってる。ネムが先に青苦砂の逃避反応を見つけた』
「俺も見つけた!」
『どっちが先』
「発想は俺!」
ネムの太鼓が通信越しに一拍。
「何だ!」
『ネムが、ロロは名前を後から付けたって』
「聞こえてねえだろ!」
『書いた』
「足怪我してるのに書く余裕!」
『元気ではないけど怒れる』
「誰の評価だ!」
その掛け合いの間にも、群れは進む。
ガンガは鐘棍を地面へ置いた。
「二つにする」
「何を」とアビナ。
「水場。古い井戸を残す。新しい共有水場を作る」
「共有の法がない」
「先に水を作る」
「法のない水は争いになる」
「水のない法は死体を分ける」
アビナが息を呑む。
ガンガは続ける。
「命令は一つにしない。ティルカ兵は石輪を分ける。ラウガ兵は濾過根を守る。オルバ群は獣の逃げ道を開く。誰も他の役を指揮しない」
「統率がない」とハダン。
いつの間にか現場へ来ていた。
右膝へ硬い布を巻き、三叉杖をつく。
「違う」とガンガ。「統率を分ける」
「合図が衝突する」
「同じ音を使わない」
ネムがハルの背で到着した。
顔色は悪い。
だが太鼓を抱えている。
ガンガは駆け寄りかける。
止まる。
「ネム」
「ここ」
短い声。
「痛みは」
ネムは三本指を立てる。
「三?」
頷く。
「戻れ」
ネムが睨む。
ガンガは言い直す。
「戻ってほしい。お前が決めろ」
ネムは太鼓を二度打つ。
長。
短。
聞いた。
賛成ではない。
「残る?」
頷く。
「役は」
ネムは石輪、三方向、兵を順に指す。
「合図を分ける」
頷く。
異なる心拍を混ぜず光へ分ける譜〈セパレート・ビート〉。
ネムの細い太鼓から、三色の光拍が出た。
青。
緑。
白。
音は小さい。
地面へ届く振動だけが、役割ごとに違う。
青はティルカの石輪班。
緑はラウガの濾過根班。
白はオルバ群の獣路班。
同じ拍へしない。
互いの速さを揃えない。
「全員の拍を一つへする術の反対」とハル。
「反対ではない」とネム。
喉が痛み、顔をしかめる。
「違うまま、見える」
ガンガはその光を見る。
自分の能力なら、一つの大きな鼓動へ束ねられる。
ネムの譜は、違いを消さずに並べる。
「俺の術は使わない」とガンガ。
「使え」とハダン。
「なぜ」
「反対へ使え」
ガンガが見る。
ハダンは杖を鳴らす。
「全員を同じ方向へ押すな。離れる力を強くしろ」
「群れを分ける?」
「逃げ道は三つだ。三つの恐怖を、三つのまま走らせろ」
「できるか分からない」
「なら失敗条件を言え」
「心拍が同じ速さへ寄り始めたら止める。ネムの光が一色へ混ざったら止める。俺が頭痛を三と言ったら止めろ」
「自分で言えるか」
「言う」
「聞いたぞ」
「賛成か」
「まだだ」
ハダンの口元が、少しだけ上がる。