第239話 第十二章「死んだ王の声」前編
祭りは、危機の反対ではない。
危機が終わったから祭るのではなく、危機の後にも暮らしを続けるため祭る。
怪我人の包帯は、祭りの日にも白い。
壊れた家は、音楽が鳴っても壊れている。
昨日まで敵と呼び合った者が、同じ鍋を囲んでも、条約は自動的に完成しない。
それでも人は火を焚く。
歴史書は戦争の開始日をよく記す。
暮らしを再開した最初の朝を、同じ熱心さでは記さない。
だが国を残すのは、たいてい後者である。
新しい水場へ、最初に並んだのは人ではなかった。
国土獣の幼獣である。
大きさは家ほど。
成獣が村を十個載せるので、小さいと言ってよいかは比較の問題だった。
「子ども」とハル。
「幼獣」とサム。
「同じじゃない?」
「人間の子どもと呼べば、服を着せる者が出る」
「着ない?」
「噛む」
「服を?」
「着せる者を」
幼獣は、石輪を組み直した水槽へ長い鼻先を入れた。
青苦砂の匂い。
新しい菌床。
寄生虫の少ない水。
ごく。
ごく。
水面が一杯ごとに下がる。
「量!」とメーザ。
「最初の利用者だ」とベグ。
「配分表に幼獣一頭分がない」とアビナ。
「今書く」とエリア。
「後から追加するのか」
「改訂欄です」
「初日から」
「初日に間違った」
「認めるのが早い」
「遅い方がいいですか」
「よくない」
「では追加」
エリアは地図の右下へ書く。
『幼獣および登録外の生物利用を、予定外使用として拒まない。水量不足時は人間居住区との配分を公開協議』
「長い」とロロ。
「短くして」とエリア。
「知らない奴も飲める」
「短すぎる」
「じゃ『名簿にない口も乾く』」とハル。
イナが笑う。
「それでいい」
「法文書です」とアビナ。
「法が分からなければ、水を飲む前に死ぬよ」
アビナは眉間を押さえた。
「本文はエリア案。掲示標語はハル案」
「採用?」
「仮採用だ」
「一日目から役に立った」とハル。
「一日目から穴があった」とアビナ。
「同じ事実」
「言い方が違う」
「地図と暮らし」
「お前は全てを言葉遊びへするのか」
「遊べる言葉は、まだ壊れてない」
アビナは返さなかった。
その代わり、自分の水筒を幼獣の鼻先へ置いた。
幼獣は水筒ごと噛んだ。
「服じゃなくても噛む!」
「幼獣だ」とサム。
シドの手当ては、三日続いた。
国境杭が入った傷。
鞍台の擦過傷。
寄生幼虫の摘出。
サムとラウガの樹医。
メーザとティルカの技官。
ロロ。
三者は、毎朝同じことで争う。
「薬樹脂を先」とサム。
「深さ測定が先」とメーザ。
「傷口固定具が先」とロロ。
「測るために開くな!」
「薬で埋めたら測れない!」
「固定しねえと両方できない!」
「誰が決める」とハル。
三人が同時に言う。
「私だ」
「増えた」とハル。
結局、順番は日ごとに変えた。
初日は固定、測定、薬。
二日目は薬、固定、測定。
三日目は測定、薬、固定。
「比較試験」とセレナ。
「患者で試すな」とサム。
「患者の状態に合わせた順序変更を記録しているだけです」
「言い方が法だ」
「手順です」
「結果は」とハル。
「三日目が最良」とメーザ。
「傷が回復したからだ」とサム。
「なら順番の比較にならない」とロロ。
「全員、正しいから決まらない」とハル。
「正しさへ順番を付けるのが治療だ」とサム。
シドが低く鳴いた。
どぉん。
「うるさい、と言っている」とガンガ。
「翻訳?」とハル。
「推定」
「セレナみたい」
「事実だけを」とセレナ。
「本人へ聞けない?」
「聞いた」とガンガ。
「答えは」
「薬の匂いが嫌い」
「それは聞ける?」
「鼻を背けた」
「心拍じゃない」
「心拍だけで獣を読むな」
自分へ言っていた。
ガンガはシドの傷へ近づく前、床を裸足で一度踏んだ。
胸を二度。
地面を一度。
名を覚える時の癖。
歩調と一緒に覚える。
シドの拍は、初日より遅い。
痛みの跳ねも減っている。
「良くなった」と彼。
「何割」とメーザ。
「数字にするな」
「比較できない」
「痛みは本人のものだ」
「本人が数字を使わない」
「使わせるな」
「治療計画に要る」
また始まる。
シドは長く息を吐いた。
「今度は、呆れた」とハル。
「推定」とガンガ。
国境石は、元の形へ戻さなかった。
大半は証拠保全される。
星鉄杭の穴。
鞍構造の摩耗。
卵塊の痕。
一部は、住民が使うことになった。
「証拠を加工するのか」とセレナ。
「保全範囲を切り分けた」とロロ。「全体を倉庫へ置いたら、また石が場所を取る」
「用途を」
「未定」
未定だったのは、半日だけである。
ネムが小さな石片を持っていった。
掌二つ分。
角が丸い。
ロロの工房で穴を三つ開ける。
「何を作る」とロロ。
ネムは答えない。
「工具代」
青苦砂三袋、と書く。
「それは俺が払う方!」
『相殺』
「いつの契約!」
『昨日』
「青い振動記録器の名前を付ける契約だろ!」
『名前をまだ付けていない。履行前』
「法律を誰に習った!」
『ミラ』
「遠隔で弟子を増やすな!」
ネムの肩が揺れる。
笑っている。
石片へ短い縄を通す。
中央へ種殻を入れる。
振る。
ころ。
ころころ。
重い音。
「楽器?」とハル。
ネムは首を横へ振る。
「玩具?」
頷く。
「誰の」
国土獣の幼獣を指す。
「大きさ足りる?」
『口へ入らない大きさ』
「そこ基準」
幼獣へ投げる。
石の玩具は地面を転がる。
ころころ。
幼獣が追う。
鼻先で押す。
また転がる。
かつて二国の兵が奪い合った国境石は、幼獣の鼻で泥へ転がされた。
「侮辱だ」と一人のティルカ兵。
「何への」とハル。
「国境へ」
「石?」
「象徴だ」
「象徴が遊ばれてる」
「だからだ」
ネムが板へ書く。
『噛めない。踏んでも割れない。役に立つ』
「国境より?」とハル。
『今は』
兵士は言葉を失う。
ラウガ兵が笑う。
「お前の国境、鼻で押されたぞ」
幼獣が勢い余って、石玩具を彼の脛へぶつける。
「痛っ!」
「ラウガも押された」とハル。
「公平」とロロ。
セレナは加工された石片の番号を記録した。
「証拠用途から生活用途へ移管。使用者――」
幼獣を見る。
「登録名は」
「ない」とサム。
「仮番号を」
「名簿にない口も乾く」とハル。
「乾く話ではありません」
「名簿にない鼻も遊ぶ」
「標語を増やさないでください」
セレナは少し考えた。
『使用者未登録。所有者は定めず、共同水場へ常備』
「幼獣の物じゃないの」とハル。
「所有を理解している証拠がない」
「取ったら怒る」
「感情と所有権は別です」
「取ってみる?」
「あなたが」
ハルが手を伸ばす。
幼獣が低く唸る。
「証拠出た」
「所有権ではなく占有意思」
「難しい怒り」
「返してください」
祭りは、共同水場の初回検査を通過した夜に始まった。
百獣祭ではない。
その前の、小さな手当て祭。
病気や移動事故の後、森へ火を返す儀式である。
火を大きくしない。
国土獣の毛を焦がさないよう、石皿へ小さな灯を百置く。
ティルカの青い油灯。
ラウガの緑の樹脂灯。
オルバ群の白い骨灯。
色を混ぜない。
並べる。
「三色のまま」とハル。
「混ぜれば茶色になる」とロロ。
「政治の話?」
「絵具の話だ!」
「政治も?」
「俺に聞くな!」
料理も三つだった。
ティルカの青鉱塩で焼いた根魚。
ラウガの発酵葉包み。
オルバ群の燻した根菜。
ガンガは大皿から取らない。
最初から六つの小皿へ分ける。
ハル。
エリア。
カイル。
ロロ。
セレナ。
自分。
ノクスが肩から皿を見る。
「七」とハル。
「獣は別」
「差別?」
「必要量が違う」
ガンガはノクス用に、魚の皮と根肉を別の皿へ多く盛る。
「人より豪華」とロロ。
「体格と必要量」
「俺、成長期!」
「何キロ」
「体重で配るのか!」
「必要量を聞いた」
「四皿!」
「多い」
「交渉!」
「二皿」
「三!」
「二半」
「成立!」
ロロは二皿半を受け取る。
「皿を半分にする?」とハル。
「量だ!」
カイルは座る前、背中を一度伸ばした。
肋部の痛みは日常動作では減っている。
王盾を滑車へ使った後だけ、深く息を吸うと残る。
「痛い?」とハル。
「一」
「申告した」
「エリアに教育された」
「私の教育ではありません」とエリア。
「ではハルに」
「俺?」
「お前が先に二と言った」
「痛みも伝染」
「適切な共有です」とセレナ。
彼女は蜂蜜を塗った小さな焼菓子を一つ、外套の襟を閉じて食べた。
「証拠番号は」とハル。
「菓子十二。十九時四分」
「祭りでも」
「祭りだから記録を止める理由はありません」
「味は」
「主観」
「記録する?」
「甘味、樹脂香強め、端部の焼き過ぎ。再購入」
「点が辛いのに買う」
「欠点と拒否は別です」
ネムが一拍。
聞いた。
誰も賛成と数えない。
エリアは祭りの最中も地図を直していた。
「休め」とハル。
「作業時間は終わっています」
「じゃ何」
「生活を見る」
「地図に?」
「入れるか判断する前に」
彼女の両踵は包帯へ入っている。
路図を十八分使った翌日、熱が残った。
座っている。
自分から言った。
ハルは隣へ座る。
距離を測らない。
近すぎれば彼女が言う。
「何を見てる」
「共同水場へ行く人が、ティルカ側の階段だけ使う」
「ラウガ側は?」
「根橋の段差が高い。高齢者が避ける」
「地図に道はある」
「使える道とは限らない」
「また間違い」
「はい」
「嬉しそう」
「直せる間違いです」
「直せないのは」
エリアは少し黙る。
「隠して選ばせたこと」
九日前の作戦。
ハルだけへ真実を知らせず、反応を利用した。
事件は成功した。
関係の傷は成功へ吸収されなかった。
「まだ気にしてる」とハル。
「忘れれば繰り返す」
「忘れないと、ずっと同じ場所?」
「地図へ残しても、進めます」
「古い線みたいに」
「はい」
「消さない。上に書く」
「上へ書いた線も、古い線を隠すことがあります」
「難しい」
「だから時々、透かして見る」
ハルは彼女の十二枚地図を見る。
「俺たちも十二枚?」
「例えが雑」
「一枚じゃない?」
「一枚へ固定しません」
「じゃ、今は」
「話している」
「成立?」
「契約ではありません」
「保留?」
「続行」
エリアは地図へ、新しい段差記号を描いた。
関係も、地図も、完成を宣言しない。
続いているから変えられる。