第240話 第十二章「死んだ王の声」後編
ガンガは火の輪へ入らなかった。
外側で、群れの心拍を聞いている。
術は使わない。
ただ、足裏へ来る違いを覚える。
ティルカの踊りは二拍。
ラウガの足踏みは三拍。
オルバ群の手拍子は五拍。
重なると、きれいには揃わない。
以前の彼なら、一つへ合わせたかもしれない。
今はずれを聞く。
ネムが隣へ座る。
右足首へ固定布。
喉へ湿布。
「痛み」
ネムは二本指。
「二」
頷く。
「昨日は三」
頷く。
「良くなった」
首を縦。
「俺は、聞かなかった」
ネムは待つ。
「大勢を聞いて、お前を聞かなかった」
『知ってる』
「怒っているか」
『いる』
「謝る」
『聞いた』
「許す?」
『まだ』
「何をすれば」
ネムは長く考える。
『次に聞き落とした時、私がいなくても探す仕組み』
「お前がいないのに」
『だから』
「機械?」
『人。数。休符』
「分からない」
『今は』
「まだ」
ネムが頷く。
答えを与えない。
ネムの決断を、兄の成長の材料へしない。
彼自身にも、兄とは別の明日がある。
「ガンガ」とハダン。
拍守が杖をついて来る。
「祭りへ来い」
「ここも祭りだ」
「百獣祭だ」
周囲が静かになる。
百獣祭。
群獣環テラの七群れが集まり、走る森を渡り、古い王獣の歌を競う大祭。
都市の記録では、獣王候補を選ぶ祭とされる。
現地では、そう単純ではない。
「いつ」とハル。
「次の二月が重なる日」とガンガ。
「何日」
「月が決める」
「暦で」
「月がずれる」
「また動く」
「来るか」
「祭り?」
「百獣祭」
「何する」
ガンガが口を開く。
ハダンの杖が彼の脛を打った。
「痛い」
「言うな」
「なぜ」
「来て見ろ」
「勝ち方だけ」とハル。
「言うな」とハダン。
「負け方は」
「言うな」
「危険は」
「ある」
「どのくらい」
「百獣祭だ」
「答えが祭名」
「来るか」
ハルは仲間を見る。
エリアは既に地図を広げている。
ロロは費用を計算している。
カイルは王都への報告日程を考え、セレナは危険条件の一覧を書き始めている。
「行く気だ」とハル。
「身体条件を先に」とエリア。
「船の修理」とロロ。
「外交連絡」とカイル。
「祭の規則と救護体制」とセレナ。
「行く気だ」
「保留です」と四人。
「同じ!」
「同じ言葉で意味が違う」とガンガ。
「覚えた」
「お前から」
「言葉、増えた?」
「勝手に使うな」
「出典つける」
「ならいい」
ノクスがガンガの白い角へ前脚を掛けた。
「そこ嫌いだぞ」とハル。
ガンガの身体が固まる。
額角の根元を触られるのを嫌う。
だがノクスを振り落とさない。
「本人に聞け」とエリア。
「ノクス、降りる?」
「ナァ」
「翻訳しない」
ガンガはゆっくり、ノクスを肩へ移した。
「角は触るな」
ノクスは二本尾で彼の頬を叩いた。
「契約不成立」とハル。
「言葉が通じない」
「でも嫌って言った」
「次は止める」
ガンガはノクスの前脚を、角から外した。
小さな拒否を、大きな群れの笑いで消さなかった。
祭りの火へ、二通の伝羽が着いた。
一通は学院から。
ティアの字は、定規で引いたように真っ直ぐだった。
『混成救難班、初回出動。全員へ同じ荷を持たせる規則を撤回。代わりに、各自の身体条件を公開し、担当を選ぶ方式を試行。結果、救助時間は短縮。ただし、申告を恥とする生徒が二名。規則だけでは解決していない。次回、マオが匿名申告箱を試す。箱の高さについて既に争いあり』
「続いてる」とハル。
「箱の高さで?」とロロ。
「車椅子、立ってる人、背の低い人」とエリア。
「可動式にしろ」
「設計を送る?」
「先に依頼!」
伝羽の末尾には、細い追伸。
『救難班の紋章案を募集。秤は禁止。私が嫌だからではなく、誤解を招くためだ』
「嫌だからも入ってる」とハル。
「事実は複数」とセレナ。
もう一通は自由港。
ミラの字は、金額だけ異様に丁寧だった。
『憲章会議、四時間三十六分保留。署名以外の参加方法を三案。声、結び札、同席証人。ジルは全部へ反対。理由、制度が本人の拒否まで代理人へ渡す危険。パルは会議室へ入ったが、机の下を正式席として要求。床清掃費、一回〇・六ルク。現在赤字。なお、そちらの無償相談料を請求する予定はない。今のところ』
「最後、請求する気」とハル。
「予定はない」とエリア。
「今のところがある」
「価格未定」とロロ。
伝羽には、小さな紙片が結ばれていた。
署名欄。
結び欄。
声を聞いた者の欄。
参加しないと記す欄。
どれも未完成。
ハルはネムへ見せる。
「似てる」
ネムは『参加しない』の横へ、さらに一つ書いた。
『聞いた。まだ決めない』
「送る?」
頷く。
「ネムの名前で」
首を横へ振る。
「匿名?」
また横。
板へ書く。
『名前は書く。採用は本人たちが決める』
「出典と所有、別」
頷く。
離れた仲間の時間は、近況報告のために止まっていない。
成功だけを送らない。
失敗だけを助けてくれと送らない。
途中を持ち寄る。
ゼロスター号の主帆で、二枚の航路札が別々に鳴った。
翌朝、ゼロスター号の客員席が壊れた。
「座っただけだ」とガンガ。
「座るって動詞の範囲を超えてる!」とロロ。
客員席は、ミラが使っていた非対称の脚置きを残している。
左側は星晶義足へ合わせて高い。
右側は低い。
ガンガの体格には、どちらも小さい。
「細い椅子が嫌い」とハル。
「嫌いではない。怖い」
「椅子が?」
「俺を」
「正しい」とロロ。「脚二本、梁一本、死亡!」
「椅子が死んだ」
「修理代!」
「獣皮一枚」
「通貨!」
「祭りまでに教えろ」
「今から教える!」
ロロは床へ大きな座布を固定した。
「椅子を直さない?」
「ミラ用の形は残す。次に来た時、別の奴に合わせて消えてたら怒る」
「客員席が二つ?」とハル。
「一席と一床!」
「人数は」
「増やすな!」
ガンガは床へ座る。
ネムは客員席の端へ、自分で小さな板を付けた。
「お前も乗る?」とガンガ。
「研究」
「祭りへ?」
「種路」
彼は群れ横断の振動記録を集めるつもりらしい。
兄の同行者ではない。
自分の目的で船へ乗る。
「運賃」とロロ。
ネムは青苦砂三袋の契約板を見せる。
「それ、まだ生きてるのか!」
『相殺』
「何と!」
『席の補修』
「お前、補修してねえ!」
ネムは客員席へ付けた小板を指す。
「それで三袋は高い!」
『ミラなら四』
「絶対連絡取ってるだろ!」
主帆に二枚の航路札が鳴る。
ティアの目盛り片。
ミラの三風鈴。
離れた仲間は、飾りではない。
学院で救難班を続ける。
自由港で署名以外の参加方法を探す。
ゼロスター号にいなくても、彼らの時間は進む。
ガンガとネムが乗るからといって、二人の空席を埋めるわけでもない。
客員席は、交換ではない。
道が一時、重なる場所だった。
出航前、セレナがハルを起こした。
夜明け前。
「事件?」
「観測です」
「違いは」
「まだ因果がない」
「場所」
「谷」
「誰」
「誰もいません」
だから呼ばれた。
ハル、エリア、カイル、ロロ、ノクス、セレナ。
ガンガ、ネム、ハダン。
九人は共同水場の北にある浅い谷へ向かった。
夜露が毛の草原へ残っている。
その中央に、足跡があった。
巨大。
一つで家ほど。
四本の指。
踵に角状の窪み。
「昨日はなかった」とメーザ。
「時刻」とセレナ。
「夜半の見回り、二十三時にはなし。三時の見回りで発見」
「目撃者」
「なし」
「匂い」とサム。
「生物臭なし」
ガンガが裸足を足跡の縁へ置く。
「聞く?」とハル。
「聞かない。まず見る」
深さ。
毛の折れ。
露の押し出され方。
ロロが荷重板を入れる。
「偽物じゃない」
「誰も言ってない」とガンガ。
「先に言う!」
「重さは」とメーザ。
「一歩で最低四千トン」
「生物なら」
「大きい」
「雑」とハル。
「測定範囲が足りねえ!」
足跡には、物理的な重みがある。
幻ではない。
光の跡でもない。
だが歩いたものは見つからない。
毛へ体液なし。
皮下へ新しい心拍なし。
周囲の国土獣も、巨大な接近へ反応した痕がない。
「死んだ王」とハル。
「断定しないで」とセレナ。
「歌との形の一致は」とハダン。
「伝承比較として記録」
「足跡は新しい」
「はい」
「死んだのは古い」
「はい」
「矛盾」とハル。
「未解明です」とセレナ。
ネムが足跡の中央へ太鼓を置く。
打たない。
しばらく待つ。
返る拍はない。
ただ、太鼓の皮がゆっくり沈んだ。
下からではない。
上から、見えない重さをもう一度受けたように。
ネムがすぐ太鼓を引く。
『音ではない』
「重さ」とガンガ。
足跡は一つではなかった。
二つ目。
三つ目。
谷を出る。
草原を横切る。
誰もいない朝霧の中、巨大な足跡が一定の歩幅で続いている。
国境石を踏まない。
共同水場も踏まない。
季節境界の空白欄を、避けたようにも見える。
「意味を足すな」とセレナ。
「まだ言ってない」
「顔に出ています」
「顔に動詞が出るのはロロ」
「俺を逃げ道に使うな!」
足跡は北へ向かう。
翠獣環のさらに奥。
雲を突き抜ける、白い角のような山。
角の頂。
百獣祭が開かれると、ガンガが言った場所。
「祭りへ行く?」とハル。
「足跡が」とエリア。
「俺たちも」
「身体条件を先に」
「分かってる」
「船の修理」とロロ。
「報告」とカイル。
「封印箱の監査」とセレナ。
「水場の一季試験」とガンガ。
「種路の記録」とネム。
「全部終わってから?」
ハダンが杖を鳴らす。
「全部は終わらん」
「じゃ、どこで出る」
「終わらないものを、残す手順を作った時だ」
ハルは振り返る。
共同水場。
十二頭の走る森。
薄墨で残した古い線。
その上へ重なる季節境界。
空白の改訂欄。
事件は終わった。
国境盗難の真相は分かった。
寄生虫の経路は止め始めた。
水場は移した。
争いには暫定の手順を作った。
暮らしは、終わらない。
だから出発できる。
夜明けの光が、巨大な足跡へ入る。
誰もいない谷を越え、物理的な重みだけを残した足跡は、白い角の頂へ続いていた。