第241話 第一章「百獣祭の朝」前編

祭りとは、数を増やす技術である。

 一人で食べれば朝食だが、百人で食べれば祝宴になる。

 一頭が走れば逃走だが、百頭が走れば行進になる。

 一つの声は意見と呼ばれ、千の声は民意と呼ばれ、さらに増えると歴史になる。

 もっとも、歴史が数えたがるのは、そこにいる者だけであった。

 広場へ集まった百人。

 戦場へ進んだ千人。

 王へひざまずいた万人。

 来なかった一人、帰らなかった一頭、数えられる前に外された小さな存在は、数字の外へ置かれる。

 人類は長く、数えられないものを無いものとして扱ってきた。

 そして、たいていの祭りは、その無いものの上に旗を立てた。

「百獣祭なのに、獣が百頭じゃない」

 凪野ハルは、ゼロスター号の船首で言った。

「百という語が厳密な個体数を示すとは限りません」

 エリア・ルーンベルグは地図板へ目を落としたまま答えた。

「じゃあ何を示すの」

「多い、です」

「急に雑」

「あなたの質問が雑です。百人力の人物へ九十九人分しか働けないと抗議しますか」

「一人分足りない」

「働かされる本人へ同情してください」

「じゃ百獣祭は、獣が多い祭?」

「暫定的には」

「名前の情報量が減った」

「祭りの名は案内板ではなく、期待を売る看板です」

「公爵令嬢が祭りへ厳しい」

「王都の収穫祭で、全ての屋台を回った者だけが言える評価です」

「回ったんだ」

「地理調査です」

「食べ歩きの意味仮名?」

「次に言ったら船から落とします」

「落ちた先も祭りだから着地になる?」

「落下です」

 前方には、白い角の山があった。

 山、という言い方は正しくない。

 少なくとも翠獣環ヴァルカの住民は、あれを山とは呼ばなかった。

 地の下で眠る古い何かの角。

 王獣が死ぬ時に空へ残した骨。

 大地そのものが突き出した牙。

 由来については群れごとに歌が違い、歌が違うことを誰も統一しようとしない。その白い峰だけが、雲海から七本の枝を伸ばし、朝日を骨の内側へ透かしていた。

 王位候補が登る角峰〈ホーン・クラウン〉

 その麓へ、百の群れが集まっている。

 正確には百二十三群。

 獣は四千を越えたところで、ロロが数えるのをやめた。

「やめたんじゃねえ。数える機械が踏まれた」

 機関口から、十四歳の修理工が顔だけ出す。

 その頭上を、機械鳥ピコが片翼をばたつかせて通り過ぎた。片方の脚には、踏み潰された計数輪がぶら下がっている。

「四千二百七十一までは保証する。四千二百七十二頭目は、俺の保証書を食った」

「草食?」とハル。

「紙食」

「分類、増えた」

「修理代も増えた!」

 ゼロスター号は低速で、角峰を囲む環状停泊場へ入った。

 左右を、生き物が埋めている。

 背中に苔の庭を載せた六本脚の苔甲獣。

 翼の代わりに薄い膜を広げ、地面すれすれを滑る風膜鹿。

 頭より大きな耳で熱を逃がす赤耳牛。

 体内の水を透明な喉袋へ蓄える雨壺鳥。

 親子で一つの殻へ入り、歩幅を相談する双殻亀。

 鳴き声。

 蹄。

 羽ばたき。

 飼育者の鈴。

 屋台の鍋。

 角飾りへ風が通る笛音。

 音が多いのではない。

 音同士の間が少ない。

 ハルは耳を塞ぎたくなったが、隣のネムを見て手を止めた。

 ネム・オルバは、青灰色の耳栓をしていた。

 耳の周りへ扇状に付けた薄い骨板のうち、上二枚だけを内側へ畳み、胸太鼓へ左の指を置いている。

「平気?」

 ハルが聞く。

 ネムは右眉を上げ、腰の小板へ書いた。

『質問が広い』

「音。頭。喉。船酔い。全部」

『音四。頭一。喉一。船酔いゼロ。質問三』

「質問にも痛みあるの?」

『今できた』

「ごめん」

 ネムは小板の端へ、小さな丸を一つ書いた。

 許した印ではない。

 聞いた印だった。

 その違いを、ハルは走る森と国境を巡った前の旅で何度も間違え、そのたびに訂正されている。

「船首、着桟まで一分」

 エリアが言う。

「踵は」

「一。長時間展開はまだしません」

「俺の肩も一」

「申告を聞きました。許可ではありません」

「行動より先に言った」

「成長を自分で採点しないでください」

「採点しないと伸びたか分からない」

「その理屈であなたを百点にすると、残りの九十九点が迷惑です」

「一人で百点じゃないの」

「百人分の迷惑です」

 王太子カイルが笑った。

「安心しろ、ハル。王家では迷惑も資質に数える」

「王になる気なくなる説明」

「最初からなかっただろう」

「そうだけど」

 カイルは船縁から手を離す時、背中を一度伸ばした。

 肋部の痛みは平常時一以下。王盾を長く使う時だけ二へ上がる。本人の申告であり、ロロとエリアが互いに確認した数字でもある。

 軽傷は、旅の場所が変われば消える印ではない。

 治るとは、昨日できなかったことを今日できるようになることだ。

 昨日痛かった事実を、なかったことにすることではない。

「ガンガ」

 セレナ・クロウが船尾から呼んだ。

 返事がない。

 もう一度呼ぶ前に、甲板が一度沈んだ。

 大柄な少年が、客員席から立ち上がったからである。

 ガンガ・オルバ。

 十六歳。

 身長百九十センチ。

 濃緑の髪をたてがみのように束ね、額には白い一本角。腰布と肩掛けの軽装で、足には何も履かない。左手には、自分の背丈より長い鐘棍ドゥルガを持っている。

 ロロが彼のために補強した客員席は、今のところ二度しか壊れていない。

「三度目を数える前提やめろ」とロロ。

「誰も言ってない」

「お前の顔に過去形が出てる」

 ガンガは胸を二度、甲板を一度叩いた。

 考える時の癖。

 だが今は、考えているというより、遠くから来る振動へ返事をしていた。

 停泊場の群れが、彼を見つけたのだ。

 最初に鳴ったのは、低い角笛だった。

 次に太鼓。

 足踏み。

 角飾りを打ち合わせる硬い音。

 ばらばらの音が、徐々に同じ間隔へ寄っていく。

「第一鼓候補!」

 誰かが叫んだ。

「オルバ群のガンガ!」

「角峰へ!」

「王へ!」

 声が重なる。

 ガンガは笑った。

 普段なら、笑う時にも地面を一度見る少年である。

 今日は見なかった。

 胸を張り、ドゥルガを高く掲げる。

 歓声がさらに大きくなった。

 ハルも手を上げた。

「人気者!」

「うるさい」とガンガは言った。

「声届いてるじゃん」

「お前だけ近い」

「遠くにも聞こえる声で言ってる」

「うるさいと、大声は別だ」

「どう違う」

「大声は距離。うるさいは、お前」

「個人名になった!」

 ガンガが歯を見せて笑う。

 その笑いへ、麓の群れがまた応えた。

 ハルは嬉しかった。

 国境線の間で立ち尽くし、誰の声を聞けばいいか迷っていた友人が、ここでは名を呼ばれている。

 王になれと期待されている。

 帰る場所がある。

 嬉しいはずだった。

 なのに、船と岸の間に、まだ渡されていない桟橋より広い距離を感じた。

「友達が有名だと寂しい?」

 エリアが小声で聞いた。

「顔に名詞まで出るの?」

「質問です」

「寂しくない」

「聞きました」

「信じてない?」

「あなたは今、自分へ答えました」

 その言い方が正確すぎて、ハルは反論を思いつけなかった。

 代わりに、ガンガの背後で客員席の小板を外しているネムを見た。

「それ持ってくの?」

 ネムは頷く。

 板には、ロロが取り付けた折り畳み金具がある。ゼロスター号の客員席を自分の体に合わせて変えた痕跡だ。

「降りるから戻すんじゃないの」

『また乗る』

 短い文字。

 ハルの胸の中で、勝手に作られかけた別れが一つ、消えた。

「先に言ってよ」

 ネムは休符を一つ打った。

 知らない。

 聞いていない。

 だから何も決めていない。

 そういう返事だった。

 王獣継承の鼓動祭〈ハート・フェス〉は、王を選ぶ祭だと言われている。

 ただし、ヴァルカにおける王は、都市国家の王とは異なる。

 領土を所有しない。

 税を一律には取らない。

 群れの移動を永遠には命じられない。

 雨期には水場を分け、脱皮期には道を空け、繁殖期には争いを止める。国土そのものが歩き、森が季節ごとに位置を変える空域では、王の仕事は城へ座ることではなく、動くもの同士の衝突を先に聞くことだった。

 ゆえに、王位候補は強いだけでは足りない。

 強さが最も目立つので、たいていの観客はその部分しか見ないが。

 停泊場から祭場へ下りる桟橋には、七種類の幅があった。

 人用。

 小獣用。

 蹄獣用。

 殻獣用。

 滑走獣用。

 地面を嫌う浮袋獣用。

 そして、どれにも合わない者が横へ逸れるための土の余白。

「最後のが道?」とハル。

「道でないことを許す道です」とエリア。

「矛盾してる」

「だから必要です」

 ノクスは七本を全部無視し、桟橋の手すりを渡った。

 二本の尾が、朝日を小さく切る。

「ノクス用もいる」とハル。

「作った瞬間、使わなくなります」とセレナ。

 祭場は匂いの洪水だった。

 燻した根菜。

 酸味の強い乳酪。

 香草へ巻いた肉。

 発酵した果実水。

 雨壺鳥の喉袋で冷やした薄甘い茶。

 ガンガは屋台へ着く前に、六つの小皿を借りた。

「まだ買ってないぞ」とロロ。

「分ける皿が先だ」

「何を」

「買うもの」

「買ってから分けろ!」

「買った後に皿がなかったら、均等になる」

「均等の何が悪い」

「お前と俺が同じ量で足りるか」

「俺に多くよこせって話?」

「お前は小さいが、動く腕が六本だ」

「二本は本物、四本は機械!」

「腹はどれと繋がる」

「一つ!」

「不便だな」

「同情の方向が違う!」

 ガンガは結局、燻し根菜を自分へ三つ、ハルとカイルへ二つずつ、エリアとセレナへ一つずつ、ロロへ二つと半分、ネムへ柔らかい部分だけを一つ、ノクスへ香辛料を落とした端を一切れ配った。

 ノクスは匂いを嗅ぎ、ガンガの分を盗んだ。

「必要量で分けた結果」とハル。

「必要と欲望は違う」とガンガ。

 ノクスは二本の尾を振った。

「勝った顔してる」

「翻訳しないで」とセレナ。

 祭場の中央には、角を模した白い門が七つ並ぶ。

 門の上へ、候補者の名札が掲げられていた。

 ガンガ・オルバ。

 バルグ・モウ。

 シア・トル。

 ヤッカ・ルイ。

 ほか三名。

 バルグは鉄灰色の髪を三本の太い編み紐にし、両腕へ黒い角輪を付けた十八歳の青年だった。ガンガほど背は高くないが、肩幅は同じほどある。彼が一歩進むたび、後ろの鉄蹄獣が一斉に鼻を鳴らした。

「オルバ」

「モウ」

 二人は胸を一度ずつ打ち、前腕を合わせた。

 礼ではある。

 ぶつかった音は決闘の開始に近い。

「国境で線を二本にしたそうだな」とバルグ。

「季節で変える」

「王が決めれば一本で済む」

「王が間違えれば、全員が同じ崖へ落ちる」

「間違えない者を選ぶ祭だ」

「そんな者がいるなら、祭は要らない」

「口が都市人になった」

「都市人の友達がうるさい」

「俺?」とハル。

「自覚が速い」とエリア。

 シア・トルは、その横で風膜鹿の脚へ布を巻いていた。

 十七歳。褐色の頬へ青い点を三つ描き、短い赤茶の髪へ薄い羽を差している。

「王候補が自分で包帯?」とカイル。

「王候補だからでしょう」とシア。「王になってから巻けない人が、王になる前だけ巻けるとは思えない」

「それ、王族へ効く」とハル。

「俺を見るな」とカイル。

 シアはハルの赤い首巻きを見て、次に左肩を見る。

「異空の落下児」

「肩書き、増えてる」

「祭務会の案内に書いてあった」

「俺、競技設備?」

「特別客」

「それも苦手」

「特別は、本人より周りが使いたがる」とネムが掠れた声で言った。

 短い一文の後、喉へ手を置く。

 ガンガが水筒を出しかけた。

 ネムは先に自分の水を飲んだ。

 ガンガの手が途中で止まり、ゆっくり戻る。

 それだけの動作に、兄弟が十年かけてまだ学んでいることがあった。