第242話 第一章「百獣祭の朝」後編
祭場へ入ったガンガは、三十歩ごとに止められた。
歓迎のためである。
歓迎とは、される側が進めなくなる行為らしい。
ある群れは、濃緑の髪へ赤い房を一本編んだ。
別の群れは、白い角へ触れないよう、根元から指二本分離れた位置へ青い紐を結んだ。
水路を使う群れは、小さな貝殻を肩掛けへ縫い付けた。
「全部、応援?」とハル。
「要求だ」とガンガ。
「要求を体に付けるの?」
「赤は北水場の開放。青は脱皮路の優先。貝は乾期の渡し舟」
「候補者が歩く陳情箱」
「箱じゃない」
「歩く陳情角?」
「角を役職にするな」
ガンガは、受け取った房を捨てない。
一つずつ、誰から何を託されたか確認する。
文字の契約を読む速度は遅いが、歩調と匂いを一緒に覚える。
「さっきの赤い人」とハル。
「テマ群。右足が少し短い。歩幅、七対六」
「名前は」
「聞いてない」
「歩幅先?」
「名前だけだと、同じ名がいる」
「歩幅だけでも似た人いる」
「両方で覚える」
「俺は」
「細い。速い。うるさい」
「名前より悪口が先!」
「覚えてるだろ」
エリアが地図板へ視線を落としたまま言う。
「ハルの歩幅は通常時〇・七八リュム、急いだ時〇・九一。焦ると右足の着地点が外へ三度ずれます」
「覚えすぎ!」
「航路情報です」
「人を道にするな」
「動く障害物として」
「さらに悪い!」
ネムも呼び止められた。
「第一鼓候補の弟君」と年長の飼育者が言う。
ネムは立ち止まり、小板へ一行。
『ネム』
「もちろん、ネム殿」
『殿も不要』
「では、ネム君」
『ネム』
飼育者は困った。
ガンガが口を挟みかける。
ネムの視線が来る。
ガンガは閉じる。
飼育者は三度目に言った。
「ネム。この心拍珠を受け取ってくれ。昨年、お前が幼い角鼠の肺病を見つけた礼だ」
ネムは珠を受け取る前に、本人を指し、次に珠を指す。
「私の群れの珠だ。返礼は要らない」
ネムは頷き、受け取った。
礼を拒んだのではない。
兄との関係でなく、自分の仕事へ渡されたと確認した。
「毎回やるの大変」とハル。
ネムが書く。
『毎回やらないと、毎回戻る』
「名前だけ言えばいい世界になれば」
『名前も変わる』
「じゃ、何を固定する」
『固定しない』
短い答えだった。
ハルは、理解した気になる前に一拍待つ。
「それ、疲れない?」
ネムは考え、丸と横線を両方書いた。
疲れる。
それでもやる。
答えは一つではなかった。
祭場の反対側では、バルグが大きな角輪を三つ受け取っている。
シアは何も体へ付けず、要求を全て小さな布札へ書かせ、風膜鹿の鞍へ結んだ。
「候補ごとに方法が違う」とカイル。
「どれが王らしい?」とハル。
「その問いが、もう祭務会の罠かもしれない」
「王子が王らしさを疑う」
「王らしく見える方法を学ばされすぎた」
カイルは笑う。
「冠を軽く被る角度、民へ手を振る速度、負傷を隠しすぎず見せすぎない立ち方。どれも必要だ。必要だから、本物の判断と混ざる」
「ガンガは今、王らしい?」
「友人へ聞け」
「ガンガ」
「聞こえてる」
「王らしい?」
「知らん」
「候補なのに」
「候補だから、知らないことを試す」
その返事へ、ハダンが短く笑った。
「今日は一つ賢い」
「昨日は」とガンガ。
「二つ馬鹿だった」
「差し引き負けてる」
「王位候補の帳面は厳しい」とハル。
「お前は帳面へ入らん」とハダン。
「何で」
「欄が足りん」
「うるさい欄を作って」
「祭の経費が増える」とロロ。
「言葉の欄に金かかる?」
「紙、板、インク、保管箱、人件費! 記録は無料じゃねえ!」
セレナが黒い証羽を一枚飛ばす。
「発言量の記録なら、すでにあります」
「消して!」
「証拠保全」
「何の事件!」
「将来の騒音被害」
笑いが起きる。
ガンガも笑う。
その周囲で、要求の房が揺れた。
王になれば、これらを一つずつ背負う。
ハルはガンガの肩に増えていく色を見て、さっき感じた距離を、少し違う言葉へ置き直した。
遠くなったのではない。
友人の周りへ、自分が知らない道が百本ある。
寂しさは、その道を全部自分へ向けたいという欲望に変わることがある。
ハルはそれを、まだ誰にも言わなかった。
朝の第七鐘で、百獣祭が始まった。
角峰の麓に造られた円形広場へ、百二十三群が七つの方角から入る。
先頭は王位候補。
その後ろへ、各群れの代表獣。
さらに子獣、飼育者、奏者、料理人、薬師、記録者。
観客席はない。
観客も群れの一部として立つからである。
歴史的には立派な理由だった。
実務上は、椅子を四千脚用意できないだけかもしれない。
「両方だ」とハダンが言った。
白髪を低く束ねた六十八歳の拍守は、灰褐色の外套を着て、三叉の杖へ青い草を結んでいる。右膝をかばいながらも、歩みは誰より先へ出る。
「美しい理由と安い理由は、よく同じ道を歩く」
「祭りの長が言っていい?」とハル。
「祭りを守るとは、値段を隠すことではない」
ハダンは塩粒を七つ数え、舌へ載せた。
「祭歌が始まる。口を閉じろ」
「歌うため?」
「お前の質問が入る隙をなくすためだ」
低い太鼓が一つ。
広場の足元から、音が来た。
二つ。
三つ。
百を越える群れが、それぞれ異なる楽器で拍を返す。
革太鼓。
殻板。
角笛。
足踏み。
喉鳴らし。
羽音。
旋律は揃わない。
揃えないまま、同じ長さの間を共有する。
歌が始まった。
百の道より、百の群れ。
百の群れより、百の拍。
高き角へ、強き者。
先に登れ、先に帰れ。
ここまでは、広場の全員が同じ歌詞だった。
最後の一節で、声が割れた。
中央の祭務奏者たちは歌う。
――一拍揃えて、王を連れよ。
外縁の古い飼育者たちは歌う。
――一拍足りぬ者を連れよ。
「今、違った」
ハルが言う。
「歌は群れごとに違う」とガンガ。
「最後だけ」
「最後ほど違う」
「理由は」
「昔の言葉だ」
「説明になってない」
「昔は、説明を歌へ入れすぎる」
ハダンが、歌い終わった口で鼻を鳴らした。
「今は説明を消しすぎる」
「どっちが正しい?」
「歌を覚えるな、理由を覚えろ」
「理由を聞いてる」
「まだ始まってもいない祭の答えを欲しがるな」
「答えがあるって言った」
「お前の耳は、余計なところだけよく働く」
ハダンの杖が地面を鳴らす。
第一試練の門が開いた。
最初の試練は、七門巡りと呼ばれた。
七人の候補者が、それぞれ異なる種類の子獣を十頭ずつ受け持つ。
角峰の麓へ設けられた七つの門を通し、元の広場へ戻す。
速さ。
統率。
異種混成への対応。
危険時の判断。
祭務頭は四項目を読み上げた。
「点数は?」とハル。
「聞け」とセレナ。
「今聞いた」
「最後まで」
祭務頭は、点数を言わなかった。
代わりに、各候補へ十本の短い角札を渡した。
ガンガの組には、鈴角獣が三頭、双殻亀が二頭、雨壺鳥が一羽、短脚の苔甲獣が二頭、風膜鹿が二頭。
そのうち最も小さい鈴角獣は、左耳が途中で折れ、角の芽が片方だけ青白かった。
首札はない。
背へ、薄い灰色の布が巻かれている。
「名前」とガンガ。
若い飼育係が口を開く。
「祭の個体番号、外七――」
「名前」
「登録名はありません」
ガンガの胸を叩く指が止まった。
ネムがその幼獣へ近づく。
急がない。
正面へ立たない。
左側から、地面へ指を二度当てる。
幼獣の耳が動いた。
ネムの右眉が上がる。
胸太鼓へ、七つの細い拍。
同じ間隔ではない。
短い。
短い。
長い。
短い。
休み。
長い。
短い。
幼獣の胸が、同じずれで動いた。
「病気?」とハル。
ネムは首を横へ振る。
『違うだけ』
「違うから病気じゃない?」
『病気かもしれない。違うだけでは決めない』
「じゃ何て呼ぶ」
ネムは幼獣を見る。
幼獣が鼻を鳴らす。
小さく、二回。
『トト』
「今付けた?」
『聞こえた』
「本人の名?」
『本人に聞け』
「会話できない」
『だから勝手に確定しない』
「仮名?」
ネムは丸を一つ書いた。
ガンガが、トトの前へしゃがむ。
大きな体が低くなると、周囲の歓声も少し遠くなった。
「お前の拍を聞かせろ」
トトは、ガンガの白い角へ鼻を伸ばした。
ガンガは反射的に頭を引く。
額角の根元へ触れられるのを嫌う。
「似た者同士」とハル。
「どこがだ」
「角、触られたくない」
「こいつは触ろうとしてる」
「似てない者同士」
「言葉を引っくり返して生き延びるな」
開始の角笛が鳴った。
七組の子獣が、一斉に走る。
ガンガは速かった。
自分が走るのではない。
十頭を走らせるのが速い。
左足を地面へ置く。
胸を二度叩く。
ドゥルガの布を外さず、鐘部へ掌を当てる。
低い振動が、土の下へ広がった。
生物の心拍を束ねる咆哮〈ハート・ハウル〉。
命令ではない。
言葉でもない。
近くにいる生命の拍を、一つの強い基準へ寄せる。
恐怖で速くなった心臓を落ち着け、迷いで乱れた足を揃え、群れへ同じ出発の瞬間を渡す。
十頭が、同時に前へ出た。
観客が沸く。
第一門は、揺れる根の橋。
第二門は、低い霧。
第三門は、耳障りな金属音。
種類の違う子獣は、同じものを怖がらない。
苔甲獣は揺れへ強く、音へ弱い。
雨壺鳥は霧へ喜び、狭い門を嫌う。
風膜鹿は他の足音に驚く。
ガンガの拍は、その違いを一時的に越えた。
「すごい」とハル。
「便利、と言わないんですね」とエリア。
「言いかけた」
「聞こえました」
「心の声まで地図にするな」
「顔です」
「顔、情報漏洩しすぎ」
バルグは、鉄蹄獣の足踏みを基準にした。
地面を強く鳴らし、子獣がその振動を追う。
シアは一頭ずつ違う笛を使う。
速さは劣るが、動物ごとに合図を変えた。
祭務記録者たちは、候補者の後ろへ付いていく。
手にした板へ、数字を刻む。
「通過時刻」とロロ。
「だけじゃない」とセレナ。
黒い証羽が、遠くの記録板を拡大して映す。
縦に七人の名。
横には門の番号。
数字のほかに、小さな切れ目がある。
「何の欄?」とハル。
「観測だけ」とセレナ。「候補者が後方を確認した回数に見えます」
「振り返り?」
「仮称です」
シアは三回。
バルグは一回。
ガンガは、ゼロ。
最終門。
角峰の根元をくぐる白い洞門へ、ガンガの十頭が入った。
中では道が二つへ分かれる。
片方は明るい。
片方は、響花が咲く細い脇道。
群れは明るい方へ進んだ。
トトだけが立ち止まった。
胸の拍が、一つ遅れる。
ガンガの強い拍が来る。
トトの足が前へ出る。
また一つ遅れる。
花が淡く光った。
白。
緑。
青。
そのどれにもならない、色の抜けた輪。
トトは耳を伏せた。
洞門の奥で、誰かが大きな角笛を鳴らした。
十頭の心臓が同時に跳ねる。
ガンガの拍が、すぐに覆う。
九頭は前へ走った。
一頭は、脇道へ落ちた。
音はなかった。
柔らかい花の斜面が、足音を飲み込んだ。
ガンガは振り返らない。
九頭を連れ、最初に広場へ戻った。
歓声。
太鼓。
角笛。
「首位!」
「第一鼓!」
「王へ!」
祭務係が角札を数える。
一。
二。
三。
ガンガが持つ札は十本。
札は、出発時に渡された数のままだ。
子獣へ結ばれてはいない。
広場へいる獣は九頭。
だが、歓声が大きすぎた。
九頭の心音はガンガへ揃いすぎていた。
誰もすぐには気づかない。
ネムだけが、胸太鼓へ七つの拍を打った。
短い。
短い。
長い。
短い。
休み。
長い。
――来ない。
最後の拍の代わりに、休符を打つ。
もう一度。
休符。
ネムは広場の端へ走った。
ガンガがようやく振り返る。
「ネム?」
ネムは空の地面を指した。
十頭分あるはずの影のうち、一つがない。
そして、第一試練の終了を告げる鐘が鳴った。
九頭しか戻っていない広場で。