第243話 第二章「角の頂への資格」前編
王を選ぶ方法は、王という制度より古い。
腕相撲で選ぶ国があった。
剣で選ぶ国があった。
神託で選ぶ国があり、くじで選ぶ国があり、前王の子を選ぶ国があり、前王を殺した者を選ぶ国もあった。
どの方法にも一理がある。
どの方法にも、一理しかない。
力比べで選べば、力比べに強い王が生まれる。
演説で選べば、演説に強い王が生まれる。
民の声で選べば、民の声を数える者に強い王が生まれる。
試験は、欲しい人物を見つける装置ではない。
試験に勝てる人物を作る装置である。
ゆえに、王選びで最初に問うべきは候補者の強さではなかった。
何を勝ちと呼ぶか。
その方が、ずっと危険な問いだった。
ガンガは、九つの心臓を聞いていた。
九つとも速い。
第一試練を走り終えた直後だからだ。
鈴角獣が二。
双殻亀が二。
雨壺鳥が一。
苔甲獣が二。
風膜鹿が二。
九。
何度数えても九。
十本の角札を握る左手が、汗で滑った。
「確認します」
祭務係が言う。
若い女だった。腕へ七色の記録紐を巻き、数字を読む声だけは驚くほど平らである。
「オルバ候補、第一門から第七門、全門通過。所要、二百八十七拍。停止零。後方確認零。逸脱零」
「一頭いない」
ガンガは言った。
「登録札は十本あります」
「札じゃない」
「競技上の携行物は十本、全て確認しました」
「生き物が一頭いない」
声が低くなった。
周囲の獣が、その低さへ耳を向ける。
怒鳴ってはいない。
だが、ガンガが完全に声を止める前の低さを、ネムは知っていた。
胸太鼓が二拍。
聞いた。
賛成ではない。
ガンガは息を吐く。
「名前のない鈴角獣。左耳が折れてる。角芽が一つ青い。九頭しか戻ってない」
祭務係は記録板をめくった。
「外七個体は、競技群へ含まれません」
「走らせた」
「試験環境へ馴化させる補助個体です」
「十頭目だった」
「札の数は十です」
同じ言葉が、同じ場所へ戻る。
都市の契約文を読む時、ガンガは似た感覚を持つ。
文字は一つずつ分かる。
並ぶと、入口がなくなる。
「札が戻れば、獣は戻らなくていいのか」
後ろからハルが言った。
「ハル」とエリア。
「質問」
「怒りを質問の服へ着替えさせても、怒りです」
「裸よりいいだろ」
「服を着せたなら、礼儀も歩かせてください」
祭務係はハルを見た。
「競技参加者以外の立入は――」
「その前に、失踪届」とセレナ。
黒い外套が間へ入る。
「観測。第一試練の開始時、左耳が折れ、右角芽が青い鈴角獣一頭が候補者の群れへいた。終了時、広場へいない。最終目撃は第七洞門手前。名前、登録番号、所有区分は未確認」
「外七です」
「番号ですか、区分ですか」
「区分です」
「個体識別記録は」
「祭務会の飼育帳へ」
「閲覧を求めます」
「外部機関へは――」
「失踪届を受ける機関は」
「競技中の代表獣なら祭務会。一般獣なら所属群。野生個体なら――」
「所属不明です」
「では、該当窓口がありません」
ハルが息を吸う。
エリアが先に彼の赤い首巻きをつまんだ。
「絞まる!」
「一拍待って」
「本人同意!」
「あなたが一歩出る前に選べる状態へ戻しています」
「最近その言い方、ミラっぽくない?」
「別の議論を持ち込まないで」
ガンガは二人の声を遠く聞いた。
遠いのに、近くの九つの心臓よりはっきりしていた。
一頭がいない。
ガンガには聞こえない。
聞こえないことが、怖かった。
だが、聞こえないことを「いない」にしてはいけないと、ネムはずっと言っている。
声でなく、拒むことで。
「捜す」とガンガ。
「第二試練は十七分後です」と祭務係。
「だから何だ」
「欠場は資格点へ影響します」
「点があるのか」
「総合判定です」
「今、点と言った」
「判定項目は非公開です」
「非公開なのに、欠場が不利だと分かる?」とハル。
「一般的な説明です」
「一般って、都合のいい時だけ人数多い」
「ハル」とエリア。
「礼儀、今歩かせてる」
「迷子です」
祭務係は困った顔をした。
敵の顔ではなかった。
規則を作った者の顔でもない。
規則の中で、質問を受け止める位置へ立たされた者の顔だ。
ガンガは、そういう人間へ怒りをぶつけると、怒りが正しくても届く先を間違えると知っている。
国境で学んだばかりだった。
「捜索班は出せるか」
「祭務会へ申請します」
「いつ」
「第二試練の開始前に回答します」
「十七分」
「はい」
ハダンが杖を鳴らした。
「ガンガ」
祭務係ではなく、候補者だけを見る。
「決めろ」
「捜す」
「何を止める」
「祭を」
「百二十三群、四千頭が角峰の麓へ集まった。水場は三日分。脱皮期へ入る群れが二つ。雨壺鳥の移動窓は今日と明日だけだ。止めれば、何が起きる」
「一頭がいない」
「聞いた。何を止める」
ガンガは答えない。
答えたくないのではない。
答えが一つではない。
「候補者全員の試練を止める」とバルグが横から言った。「群れは待機。捜索は祭務の者へ任せる。ただし日没までだ」
「勝手に決めるな」とガンガ。
「決めぬことも決めたことだ」
「ハダンの言葉を盗るな」
「王は言葉を所有しない」
「使う責任は持て」
「なら、お前が決めろ。候補のまま捜すか、候補を降りて捜すか」
群れの歓声が、まだ遠くに残っている。
第一試練首位。
振り返り零。
誰より速く九頭を戻した。
王へ。
その声は、ガンガが幼い頃から聞いてきた。
王になれば、もっと多くを守れる。
王になれば、水場を開けられる。
王になれば、王獣を国家資産にする制度を変えられる。
王になれば、ネムが誰かの神託として使われることを止められる。
王にならなければ、その全部を裏切るのか。
そう問われるたび、ガンガは自分の胸を二度叩いた。
今は叩けなかった。
「第二試練へ出る」
口から出た答えに、ネムの太鼓が鳴らない。
聞いた、さえない。
「捜索班の回答を待つ。試練の間も、聞く」
「能力で?」とネム。
掠れた一語。
「ああ」
「聞こえなかった」
「範囲を広げる」
「揃える」
「落ち着かせれば、拍が見える」
「違う」
ネムの喉が痛みで切れた。
ガンガは水筒を出さない。
代わりに、待つ。
ネムは自分で一口飲み、小板へ書いた。
『揃えたら、違いが消える』
「消さない。聞き分ける」
『第一門で聞けなかった』
「次は」
『次は、次の失敗』
文字が鋭い。
ガンガの胸へ刺さるのは、内容が正しいからだけではない。
ネムが自分の痛みを使って話したのに、まだ言い返したい自分がいるからだ。
「俺は候補だ」
『知ってる』
「群れを止める責任がある」
『トトは群れ?』
「群れだ」
『どの』
答えられない。
祭務会の登録にない。
所属群がない。
名前も仮だ。
「俺が聞いた」
『聞こえない』
ネムは太鼓を背へ戻し、ガンガへ背を向けた。
第二試練までの十七分は、短くも長くもなかった。
怪我をした獣へ水を飲ませるには足りる。
失踪した一頭を谷から連れ戻すには足りない。
候補者が自分の判断を後悔するには、十分すぎる。
ガンガは試練待機所へ入らず、第一洞門まで戻った。
競技路はすでに次の組のため整えられている。
倒れた花は起こされ、土へ残った蹄跡へ新しい砂が撒かれた。
「消すな」
整備係の手が止まる。
「次の獣が古い足跡を追うと危険です」
「記録したか」
「通過記録は」
「蹄跡」
「競技設備の状態としては――」
「一頭いない」
同じ言葉を、また言う。
整備係は若い。
額へ汗をかき、砂袋を抱えている。
「私へ言われても」
「そうだな」
ガンガはしゃがんだ。
怒りを向ける場所が違う。
「撒く前に、形を取れるか」
「祭務記録者の許可が」
セレナが後ろから言う。
「外部証人として複写します。原状回復を妨げない範囲」
証羽が、蹄跡の上へ薄い黒影を落とす。
十頭の入り。
九頭の出。
入口近くでは、全ての跡が重なっている。
脇道の手前だけ、一つの小さな蹄が横へ向く。
「ここ」とガンガ。
「観測」とセレナ。「左後脚の荷重が浅い幼獣一頭。花斜面側へ逸脱。後続の大蹄により三歩目以降は不鮮明」
「追える?」
「私は証拠を残せます。追跡は別技能です」
できないことを、小さく言わない。
セレナは万能な捜査官ではない。
黒い羽は過去をそのまま再生する魔法でもない。
見えたものを、見えた範囲で残す。
ガンガは足裏を地面へ付けた。
獣の心拍を読む足裏技〈グラウンド・リスン〉。
近くの整備係。
記録者。
待機中の代表獣。
トトの拍はない。
範囲を広げる。
角峰の根へ。
谷の方へ。
数百の心臓が入る。
聞き分けられない。
「頭痛」とセレナ。
「一」
「範囲を狭めて」
「まだ聞いてる」
「聞こえていないから広げています」
「聞こえるまで」
「聞こえない方法を続けている可能性を記録します」
言い方が冷たい。
冷たいから、怒りへ混ざらない。
ガンガは範囲を戻した。
「一頭の拍を探す時、全員を聞くのは間違いか」
「私には判断できません。ただし今、探した個体を識別できなかった」
「事実だけ」
「はい」
セレナは証羽へ刻む。
――候補者は能力範囲を拡大。密集拍により個体識別不能。頭痛一。
「そこまで書く?」
「後で同じ方法を使う時、条件になります」
「失敗も残す」
「成功だけでは、次の人が代償を知らない」
ガンガは頷いた。
整備係へ向き直る。
「砂を撒け」
「いいのですか」
「記録した。次の獣を転ばせない」
過去を残すために、現在の道を危険なままにしない。
両方を取る。
簡単ではない。
だから役割を分ける。