第244話 第二章「角の頂への資格」後編

 待機所では、候補者ごとに十本の水筒が用意されていた。

 一本は本人。

 九本は、試練後の獣へ。

 バルグは自分の水筒を最初に飲んだ。

「王候補が先?」とハルが遠慮なく聞く。

「俺が倒れれば九頭へ水を運べない」

「正論」

「気に入らないか」

「正論って、気に入るかで変わらない」

「お前、ガンガの友か」

「細くて速くてうるさい友」

「最後は自称か」

「公認」

 バルグは鼻で笑い、二口だけ飲む。

 残りを鉄蹄獣の水鉢へ分けた。

「一頭のため祭を止めるか」とハル。

「止めない」

「即答」

「止めないことと、捜さないことは別だ」

「でも祭務会は捜さない」

「なら所属群が捜す」

「所属がない」

 バルグの手が止まる。

 正論が、条件不足へ当たった顔だった。

「それは制度の穴だ」

「穴へ落ちた一頭は、制度が直るまで待てる?」

「待てない」

「じゃ」

「だから候補者が王になる必要がある」

「王になるまで待てない」

「全てを今変えることもできない」

 二人の言葉はぶつかる。

 どちらも、相手が分かっていないからではない。

 時間のどこを先に救うかが違う。

 シアが水筒の栓を閉じる。

「二人とも、王を万能な未来形へしてる」

「どういう意味」とハル。

「王になれば変えられる。今は変えられない。そう言えば、今日の失敗を明日へ送れる」

 バルグが睨む。

「では今、祭を止めるか」

「止める条件を公開して、全候補へ選ばせる。止めなかった者の理由も残す」

「遅い」

「速い決定へ、後から戻れる道を付ける」

「王が決める」

「王も間違う」

「間違うから、責任を一人へ集める」

「一人が責任を取っても、踏まれた一頭は戻らない」

 ガンガは二人を聞く。

 どちらを正しいと揃えない。

 だが、自分の胸はバルグの言葉へ引かれる。

 王になれば。

 長く抱えてきた未来形。

 それが今、一頭を後へ置く理由になっている。

「オルバ」とシア。

「何だ」

「あなたは何を待ってる」

「捜索班の回答」

「それ以外」

 ガンガは答えない。

 王になって、全てを変えられる日。

 言葉にすると、遠すぎる。

 第二試練の招集太鼓が鳴る。

 待機所の入口で、ハダンが候補者一人ずつへ細い骨札を渡した。

 表には名。

 裏には空欄が三つ。

「得点札?」とバルグ。

「記録札だ」

「何を記録する」

「お前が見るもの」

「曖昧だ」

「試験前に答えが欲しいか」

「勝つ条件を知らずに競うのか」

「王は、全ての条件を先に渡されると思うか」

「条件を隠す王選びは、公平か」とシア。

「公平だと言っていない」

「なら何を試す」

「歩け」

 ハダンは答えない。

 その沈黙を、ガンガは伝統の深さと受け取るべきか。

 権威が説明を避けていると受け取るべきか。

 ネムなら、聞いただけでは決めないだろう。

 ガンガは骨札を受け取る。

 空欄は三つ。

 後に分かる。

 連れ出した数。

 戻した数。

 見失った数。

 この時、候補者たちはそれを得点欄だと思った。

 第二試練は、百拍渡りと呼ばれた。

 角峰の根から伸びる七枚の骨橋を、五十頭の混成群とともに渡る。

 橋は固定されていない。

 下を歩く巨大な根獣の呼吸で上下し、獣の総重量が片側へ偏れば傾く。

 候補者は先頭へ立つ。

 群れを進ませる。

 途中の三か所で道を選ぶ。

 戻ってはいけない、とは誰も言わなかった。

 ただ、観客は最初に向こう岸へ着く者を待っている。

「観客が採点するのか」とガンガ。

「観客は見る」とハダン。

「祭務会が判定する」

「祭務会は記録する」

「誰が決める」

 ハダンは三叉杖で骨橋を指した。

「歩け」

「答えろ」

「歩けば質問が増える。良い試験だ」

「性格が悪い」

「今知ったなら、耳が悪い」

 ガンガは裸足を橋へ置いた。

 骨は冷たい。

 内部に空洞があり、遠くで水が移る音がする。

 五十の心臓。

 速いもの。

 遅いもの。

 殻の中で二重に響くもの。

 羽ばたきと同じ速さで震えるもの。

 その外側に、観客の数千。

 ガンガは聞く範囲を狭めた。

 橋の上だけ。

 それでも多い。

 胸骨の古傷が、白い線の内側から熱を持つ。

「頭痛」とエリアの声が岸から飛ぶ。「開始前、数値」

「一」

「吐き気」

「零」

「感情混線」

「ない」

「強がり」とハル。

「項目にない」

「じゃ追加」

「お前の声を減らせ」

「減らしたら聞こえない」

「それでいい」

 角笛。

 五十頭が動く。

 最初の揺れで、群れは右へ寄った。

 橋が傾く。

 ガンガは左足を打ち、胸を二度叩く。

 ドゥルガの布は外さない。

 鐘を鳴らさず、棍の内部へある共鳴骨だけを震わせる。

 万獣鼓動が広がった。

 五十の心臓が、ガンガの拍へ近づく。

 完全に同じではない。

 近い。

 一歩目。

 二歩目。

 三歩目。

 蹄が揃う。

 骨橋の揺れが、群れの足と一致する。

 橋は傾かなくなった。

 歓声が来る。

 ガンガは聞かない。

 第一分岐。

 左は短いが狭い。

 右は長いが広い。

 五十頭の体格を一瞬で読む。

 殻獣が三。

 角幅の広い赤耳牛が五。

 右。

 足裏で橋を叩く。

 群れが右へ流れる。

 記録者が何かを刻む。

 次の揺れ。

 後ろで、小さな鳴き声。

 ガンガの肩が動いた。

 振り返りかける。

 耳へ入ったのは、橋の上の五十頭の声だった。

 風膜鹿が隣の殻へ翼膜を挟んだだけだ。

 痛みではない。

 すぐ外れた。

 前へ進める。

 ガンガは振り返らなかった。

 第二分岐。

 中央の橋が一拍遅れて沈む。

 地面ではない。

 骨の下から、巨大な呼吸が来る。

 左へ。

 群れを寄せる。

 後ろの心臓が一つ、速くなる。

 すぐに万獣鼓動へ揃う。

 速さは消えた。

 恐怖も、少し薄くなる。

 ガンガは前へ進む。

 トトの拍を探す。

 短い、短い、長い、短い、休み、長い、短い。

 聞こえない。

 範囲を広げる。

 橋の外へ。

 角峰の根へ。

 響花の斜面へ。

 観客の心臓が入る。

 千。

 二千。

 頭の奥へ、別人の焦りが流れ込む。

 誰かの喜び。

 誰かの嫉妬。

 子獣を見失った飼育者の恐怖。

 それが誰のものか分からない。

 吐き気が一へ上がる。

 ガンガは範囲を戻した。

 橋の上だけ。

「後ろ!」

 ハルの声。

 振り返るな、と観客の声。

 どちらも命令ではない。

 第三分岐で、一頭の雨壺鳥が足を止めていた。

 喉袋が水で重く、骨橋の細い亀裂へ足を取られている。

 ガンガは前を向いたまま、拍を落とす。

 後方の群れも止まる。

 橋が揺れる。

 バルグの組が隣の橋を追い抜いた。

 歓声が移る。

 ガンガは振り返らない。

 胸へ一度。

 地面へ一度。

 雨壺鳥の拍だけを探る。

 見えるわけではない。

 足裏へ返る振動の間で、位置を測る。

 右後ろ、十二歩。

 ドゥルガの柄を橋へ寝かせる。

 共鳴を一本だけ送る。

 雨壺鳥が足を上げる。

 亀裂から抜けた。

 群れが再び動く。

 ガンガは前へ進んだ。

 向こう岸へ、二番目に着いた。

 だが、バルグの組は一頭を橋の途中へ残していた。

 鉄蹄獣の幼体が、恐怖で伏せている。

 バルグは向こう岸から号令を飛ばした。

 幼体が立ち、遅れて渡る。

 全頭が着く。

 記録者は、到着時刻より先に何かを書いた。

 ガンガの名の横へ、零。

 バルグの横へ、二。

 後方確認回数。

 シアは四。

 ヤッカは七。

 観客用の大板には、別の数字が上がる。

 一位、ガンガ。

 二位、バルグ。

 三位、シア。

「俺が二番に着いた」とガンガ。

 祭務係は言う。

「総合首位です」

「何の」

「角峰資格の暫定順位」

「何を数えた」

「非公開です」

 ガンガは振り返った。

 橋の向こう。

 ネムは、広場にいない。

 ハルもいない。

 ノクスも。

 エリアだけが岸へ残り、地図板を抱えている。

「捜索班は」とガンガ。

「祭務会の回答は、該当個体なしです」とセレナ。

「該当しない?」

「登録群へ属さないため、失踪として受理しない」

 ガンガは自分の胸を二度叩こうとした。

 右手が、一度目の前で止まる。

 橋の上で、振り返り零。

 第一試練でも、零。

 大板の一番上へ、ガンガ・オルバの名がある。

 群れは彼を首位と呼ぶ。

 首位の少年は、いなくなった一頭がどちらへ行ったのか知らなかった。