第245話 第三章「最強の一拍」前編
強さには、単位がない。
持ち上げた石の重さなら測れる。
走った距離と時間なら比べられる。
倒した敵の数、耐えた傷、届いた声、従った人数。
だが、それらを全て足したところで、強さという一つの量にはならない。
歴史が「最強」と呼んだ人物の多くは、実際には最も強かったのではなく、強さを測る物差しを自分へ有利な形に変えた者である。
剣の時代には剣士が強い。
金の時代には富者が強い。
声の時代には、大声の者が強い。
そして群れの鼓動を揃える祭では、揃える者が強かった。
それが何を見えなくするかを、誰も測らない限りは。
「立入禁止って、入ったら駄目って意味?」
「他にどんな意味がありますか」
「立たなければいい」
「這っても駄目です」
「飛ぶ」
「ノクスだけです」
禁足谷へ続く細い入口の前で、ハルとエリアは三度目の同じ会話をしていた。
入口には骨杭が二本。
その間へ赤い毛糸。
札には、共通空語とヴァルカの群れ文字で「祭務会管理区・立入禁止」とある。
ノクスは毛糸の下をくぐり、向こうで尻尾を振った。
「ほら」
「ノクスは許可を取っていません」
「じゃ俺も」
「無許可であることを許可と呼ばないで」
ハルの赤い首巻きが、またエリアの指に捕まる。
「首で止めるの危ない!」
「今日は腰索を着けています」
「準備が良すぎる!」
「あなたが悪い方向へ安定しています」
腰索は、ゼロスター号の艇外作業用である。
左肩へ全荷重を掛けないよう、腰と太腿へ力を分ける。今日は船ではなく、ハルを立入禁止線の手前へ固定する用途になった。
身体を守る装具が、行動を止める装具にもなる。
道具は倫理を持たない。持たせるのは、引く側の人間である。
「ノクス!」
セレナが呼ぶ。
命令口調ではない。
黒い夜獣は命令へ従う生き物ではないからだ。
ノクスは谷の匂いを嗅ぎ、毛糸のこちらへ戻ってきた。
口に、白い花弁を一枚くわえている。
花弁は光らない。
「観測」とセレナ。「谷側へ響花。花弁表面へ土。噛み跡はノクス」
「そこ最後いる?」とハル。
「事実です」
「ノクスが持ってきたんだから分かる」
「分かることと、記録へ残ることは別です」
ネムが花弁を受け取る。
耳栓は青灰から薄紫へ変わっていた。
議題ではなく、音量帯で色を替えているらしい。
指で花弁の付け根を押す。
反応しない。
胸太鼓を一度、弱く打つ。
白い花弁へ、青い筋が一本走った。
次に二度、間隔を変えて打つ。
青と黄色へ分かれた。
「音で色が変わる」とハル。
『拍』
「音の間隔」
『近い』
「強い方が濃い?」
ネムは首を横へ振った。
もう一度打つ。
一拍目は強く、二拍目は弱い。
花弁には、同じ幅の二色が出た。
「強さじゃない」
ネムが頷く。
「違い?」
今度は丸。
エリアが地図板へ花弁を載せる。
「群れの弱い一頭を示す響花〈エコー・ブルーム〉。古い航路誌では、獣の個体差を可視化する生態指標として記録されています」
「弱い一頭って名前なのに、強弱じゃない?」
「親文字は用途を説明します。実際には、周囲と異なる拍を複数色へ分ける。群れの中で体調の崩れた個体を見つけるため、飼育者が使ったのでしょう」
「じゃトトの色も」
「記録できる可能性があります」
「谷へ入れば」
「入れません」
「戻った!」
「会話が一周しただけです」
ロロが骨杭の根元へしゃがんだ。
四本の補助腕が、それぞれ別のものを測る。
杭の深さ。
毛糸の張力。
地面の摩耗。
通行札の蝶番。
「この禁止線、昨日今日のじゃねえ」
「どれくらい」とセレナ。
「杭は最低三年。毛糸は半年以内。札は二度付け替え。道は使われてる」
「誰が」
「足跡は多すぎる。人、蹄、小車輪。祭務会管理区ってのは嘘じゃない」
「本当だから、理由も正しいとは限らない」とハル。
「珍しく正確です」とエリア。
「珍しく要る?」
「精度には頻度も含まれます」
遠くで三度、角笛が鳴った。
第三試練の招集。
「ガンガは」とハル。
ネムは角峰の方を見た。
『首位』
「聞いた」
『賛成ではない』
胸太鼓で二拍。
ハルは頷いた。
「分かる。ネムは、ガンガが祭を止めて捜すべきだって――」
太鼓が強く一度鳴った。
休符。
ネムの灰色の目が、ハルを見る。
「違う?」
『私は、花を調べたい』
「でもガンガの判断は」
『私の答えを先へ送るな』
「先へ?」
『聞いてない答えを、速く言うな』
小板の文字は長い。
ネムが声を使わない時、言葉が少ないとは限らない。
ハルは、自分の口がネムの太鼓より早く動いたことに気づく。
「ごめん」
丸は書かれなかった。
聞いた印さえない。
ネムは花弁を布袋へ入れ、禁足谷の入口へ背を向けた。
第三試練は、鼓石運びだった。
候補者一人と、候補者が選んだ補助者一人。
直径二リュムの丸い鼓石を、響花の野を通って丘の上へ運ぶ。
鼓石は重い。
ただし、力だけで持ち上げるものではない。
内部へ無数の空洞があり、周囲の拍と共鳴すると、重さのかかる方向が変わる。押した者の心臓が乱れれば横へ転がり、群れの足音が揃えば軽くなる。
「つまり、心拍能力の試験」とハル。
「候補者の適性を見る祭ですから」とエリア。
「俺、何で呼ばれたの」
ガンガが、隣の鼓石へ掌を置いた。
「お前が能力を使えないからだ」
「褒められてない」
「条件だ」
「言い方」
「細い、速い、うるさい」
「三つ目、能力?」
「障害」
ガンガはハルを補助者へ選んだ。
候補者が誓星術で鼓石を軽くする間、補助者は路面を読み、進路を決め、石が傾いた時に支える。
ハルは零星針を持っていない。
今朝、自分から封印箱へ入れた。
失われた原因を指す針は、トトの失踪原因を指すかもしれない。
だが、針が指すのは原因であって、居場所ではない。さらに、祭場には古い誓い、隠された飼育記録、王位継承、角峰の地脈が重なっている。指した先を一つの答えと誤解する危険の方が大きい。
何より、使えば方向感覚が崩れる可能性がある。
使わないことは、能力がない状態へ戻ることではない。
使えるものを使わないと決め続ける、別の負荷だった。
「肩」とエリア。
「一」
「腰索」
「装着」
「石へ左腕だけでぶら下がらない」
「はい」
「返事が軽い」
「石が重いから釣り合い」
「反省を言葉遊びで相殺しないで」
「相殺できると思ってない」
「ならよろしい」
エリアは観測係として、響花野の外へ立つ。
路図の使用は短時間。踵の痛みは一。
カイルはシアの補助へ入った。
「王子が別の王候補を助ける」とハル。
「王位の兼業ではない」とカイル。
「二国の王になれる?」
「書類だけで腰が折れる」
「肋骨より先に?」
「比喩まで医療記録へ入れるな」
ロロは競技設備の安全確認へ回り、セレナは祭務記録者の板を観測する。
ネムは響花野の端へ座り、胸太鼓を膝へ置いた。
開始前、ガンガがネムを見る。
ネムは見返さない。
ガンガの胸を叩く右手が、二度目だけ少し遅れた。
角笛が鳴る。
七つの鼓石が動いた。
開始地点には、七つの鼓石と七本の出発線があった。
線は真っ直ぐではない。
候補者の体格、補助者の歩幅、石が最初に転がる方向を測り、それぞれ少しずつ角度を変えている。
「公平のため」と祭務係が説明する。
「同じ線じゃないのに?」とハル。
「同じ条件に近づけるため、違う配置にします」
「同じにするのが公平じゃない?」
「同じ石をガンガとヤッカへ渡せば、体格差がそのまま結果になります」
「じゃ違う石?」
「質量は同じ。共鳴空洞の配置を変えます」
「違うものを同じ重さにして、違う場所から同じ丘へ」
「はい」
「公平って、すごく不揃い」
エリアが地図板の端へ書く。
「公平は同一ではありません。誰がどの差を補正するかで、別の不公平も生まれます」
「答えない?」
「一度で答えが出るなら、第二区の入学試験は五期も揉めていません」
「五期も?」と祭務係。
「制度は一度で完成しません」とカイルが滑らかに補う。
ハルは王子を見る。
「今、俺の言い間違いを制度論へした?」
「外交では相手が理解できる語へ翻訳する」
「俺のせい?」
「主に」
祭務係は補助者へ安全帯を渡す。
ハルの帯だけ、左肩を避けた形へ付け替えられていた。
「誰が伝えたの」
「ルーンベルグさん」
「いつ」
「早朝」
エリアは顔を上げない。
「申告された身体条件を、競技設備へ反映しました」
「俺、まだ出るって決めてなかった」
「出る顔をしていました」
「顔に未来形まで出る?」
「今回は出ていました」
「勝手に準備されたの、嫌?」とガンガ。
ハルは帯を見る。
自分へ聞かず、参加を決められたわけではない。
出ると決めた時に危険が減るよう、選択肢を用意された。
「嫌じゃない。でも、次は言って」
「分かりました」とエリア。
すぐに受け取る。
「怒らない?」
「あなたの希望が明確です。反論する必要がありません」
「もっと難しくなると思った」
「難しくしたいのですか」
「違う」
「では、前を向いて」
鼓石の表面へ、細い筋が走っている。
ただの傷ではない。
過去の競技者が押した跡、転倒した跡、修理で埋めた跡。
ロロが指で叩く。
「この石、三年前に割れてる。修理は正しい。左下だけ響きが鈍い」
「有利?」とハル。
「押し方次第。鈍い側を下へすれば安定。上へすれば曲がりにくい」
「答えを教えていいの」と祭務係。
「整備情報を隠すのが試験なら、事故試験だ」
「全候補へ同じ情報を」
「今から言う!」
ロロは機械鳥ピコへ紙筒を付け、七つの出発線を飛ばした。
「修理履歴、空洞偏り、危険温度! 受け取らない候補は勝手だが、知らないまま死ぬな!」
バルグが紙を掴む。
「競技中の助言か」
「開始前の設備開示!」
「費用は」
「祭務会!」
候補者たちの声が重なった。
「またか」
祭務係の顔が遠くなる。
ノクスは鼓石の上へ乗った。
表面を一周し、中央へ丸くなる。
「重さ増える」とハル。
ノクスは目を閉じた。
「降りて」
尾が一度動く。
「競技参加する?」
「翻訳しないで」とセレナ。
「質問」
「本人が降りない場合、石と一緒に運ぶ選択もあります」
「ノクス込みの質量になる」
ロロが計る。
「五・八キロ増。共鳴中心が上へずれる。難易度上がる」
「降ろす?」とガンガ。
ノクスは片目だけ開く。
ガンガは手を伸ばさない。
「乗るなら、落ちるな」
「許可した」とハル。
「ノクスの決定を受けた」
「言い方、学んでる」
「お前より速い」
「競争しないで!」
開始の角笛が、二度目の予告を鳴らす。
観客は、候補者の力を見るため前へ詰めた。
小さな子どもが、母親へ聞く。
「一番重い石を運んだ人が王?」
「一番早い人よ」
「一番転ばない人じゃないの」
「全部よ」
全部。
便利な言葉だった。
全部を一つの順位へできると、誰もが思う。
祭務記録者は、また候補者の名の横へ小さな空欄を三つ用意していた。
何を数える欄かは、説明しない。
ハルはその板を一度見た。
すぐ、目の前の石へ戻る。
答えを先に知るより、今は転がされないことが先だった。
補助者という役目は、昔から補助だったわけではない。
古い祭歌では、候補者を「押す者」、隣に立つ者を「止める者」と呼んだ。
鼓石が速くなりすぎた時。
群れの拍が苦しさへ変わった時。
候補者自身が勝ちたいあまり、自分の身体の音を聞かなくなった時。
止める者が綱を切る。
近代の競技規則では、その綱は安全帯と呼ばれた。
切れば失格。
補助者は候補者の出力を高める者と説明される。
名称が変わると、同じ道具の正しい使い方も変わる。
「これ、切れるようになってる」とハル。
腰へ付けた安全帯の留め具を指す。
「緊急離脱用です」と祭務係。
「切ったら」
「候補組の競技終了」
「何をもって緊急?」
「補助者または候補者の判断です」
「じゃ、俺が止められる」
「規則上は」
「説明で言わなかった」
「通常、使用しないためです」
「使わない道具の説明を抜いたら、使う時に使えない」
祭務係は困った顔をする。
悪意ではない。
説明時間を短くするため、例外を後ろへ置いた。
例外は、起きるまで重要でないように見える。
起きた時には、最も重要になる。
セレナが記録する。
「緊急切離し権、補助者にも存在。開始説明では省略」
「全組へ再説明」とエリア。
祭務係は七つの出発線を走る。
「また増えた」とハル。
「何が」とガンガ。
「競技前に止められる理由」
「止めたいのか」
「止めるか選べる方がいい」
「選べると、迷う」
「迷えないと、止まれない」
「お前は止まらんだろ」
「装備が止める」
「自慢するな」