第248話 第四章「響花の欠け」後編
検証の前に、エリアは靴を脱いだ。
「何してるの」とハル。
「踵の確認です」
「ここで?」
「痛みを申告した後、原因を見ずに歩き続ける方が不自然です」
響花野の端へ折り畳み布を敷き、靴下をずらす。
両踵には、長旅で硬くなった皮膚と、過去の路図過使用で残った赤い痕がある。
今日は腫れなし。熱感、わずか。圧痛、一。
カイルが自然に背を向け、観客の視線を遮る。
ロロは靴底を見る。
「右外側だけ減ってる。動く地面で外へ逃がす歩き方が残ってる」
「矯正すると別の痛みが出ますか」
「一気に直すと。薄板を一枚、左内側へ」
「費用」
「お前は払うから聞かなくていい」
「確認はします」
「銀貨一枚」
「高い」
「材料と技術!」
「材料はゼロスター号の端材」
「端材を作った元材料に金がかかる!」
「銀貨半枚」
「交渉がミラ化してる!」
「適正価格です」
ロロは文句を言いながら薄板を入れた。
エリアは立ち、五歩だけ歩く。
「痛み一。外へのずれ、減少」
「長距離で確認」とロロ。
自分の身体を、物語の都合で無視しない。
ネムはその様子を見ていた。
次に、自分の耳栓を外す。
「頭痛」とエリア。
指二本。
「外す理由」
ネムは響花を指す。
「環境音を直接比較する」
頷く。
「時間」
心拍珠を三つ並べる。
「三十拍?」
頷く。
「私が数えますか」
首を横。
ネムは小さな砂時計を出した。
本人が自分の終了を持つ。
耳栓を外す。
祭場の音が一気に入る。
右眉が上がる。
肩が固くなる。
胸太鼓は打たない。
花の音を聞く。
響花は鳴かない。
花弁が開閉する時、薄い膜同士が擦れ、紙より小さな音を出す。
色のある場所では、開く時刻が少しずつ違う。
赤の花。
青の花。
黄色の花。
無色帯では、全てが同じ瞬間に開いていた。
ネムが砂時計を止め、耳栓を戻す。
頭痛、三。
自分で水を飲む。
「何が違った」とエリア。
小板。
『色がないのでなく、同時』
「同時に開くから、分離色が重なる」
『白へ戻る』
「光の混色」
響花は、異なる拍を別々の色へする。
同じ時刻へ重なりすぎると、複数色が白く見える。
無色ではない。
全色が、区別できないほど揃っている。
「地図へ、色だけでなく開花時刻を入れます」
エリアは透明板をもう一枚重ねる。
一枚目、位置。
二枚目、色。
三枚目、時刻。
「地図が三枚」とハル。
「一枚へ重ねれば平均になります」
「読みにくい」
「読みやすさのために違いを消しません」
「でも、使う人が読めないと」
「用途別に表示を切り替えます。元データは分けて残す」
ネムが丸。
この方法は、後に彼が作ろうとする種路網の基礎になるかもしれない。
今は、誰も未来の用途を言わない。
目の前の一頭を捜すための地図である。
エリアは無色帯へ、色を塗らなかった。
代わりに、極細の縦線を密に描く。
「これは何」とハル。
「同時化領域」
「意味仮名つける?」
「今は仮称です。言葉を作ると、分かった気になります」
「俺がよくやる」
「はい」
「即答」
「観測回数が多いので」
ネムの小板。
『記録あり』
「セレナが三人目!」
黒い証羽が頭上を通る。
「私は一人です」
「本人来た!」
セレナは三層の地図を見る。
「証拠として複写します。名称は付けません。花色消失ではなく、開花同期と記録」
「言葉を変えただけで、見え方が変わる」とハル。
「最初の言葉が間違っていたからです」とエリア。
「無色じゃなく、揃いすぎ」
ネムの指が、角峰の方へ向く。
ガンガの万獣鼓動が届くたび、縦線の領域が広がっている。
トトの道を隠しているのは、色の欠如ではない。
違いを残さないほど正確な統一だった。
問題は、三枚の地図を持って走れないことだった。
「重ねると平均。分けると手が足りない」とハル。
「人間の腕は二本ですから」とエリア。
「ロロは六本」
「俺を規格にするな!」
ロロは透明板の縁へ小さな蝶番を付けた。
一枚目を上げれば位置。
二枚目で色。
三枚目で開花時刻。
「本みたい」とハル。
「本は読む順番を固定する」とネムが掠れた声で言う。
長く話さない。
小板へ続ける。
『これは、順番を選ぶ』
「位置から見る人。色から見る人。時刻から見る人」
丸。
「一つの正しい読み方にしない地図」とエリア。
『でも、原点は同じ』
ネムは三枚の角へ、同じ穴を開けた。
角峰の根元を示す一点。
好きな順へめくっても、位置の基準だけはずれない。
「自由だけど、好き勝手じゃない」とハル。
「基準を共有した上で、見る層を選ぶ」とエリア。
「会議にも使えそう」
「あなたはまず地図に使ってください」
「応用を考えたのに」
「目の前の用途を終えてから」
ノクスが三枚板の上へ前脚を置いた。
「重い」とロロ。
夜獣は退かない。
二本の尾が、色板と時刻板を別々に押す。
「めくりたい?」とハル。
「翻訳しないで」とセレナ。
「選択肢を出す。色?」
右尾が動く。
「時刻?」
左尾。
「両方?」
二本。
ロロが板を左右へ開くよう蝶番を付け替えた。
「本じゃなく窓だ。二枚同時に見られる」
「ノクスが設計した」とハル。
「本人の意図は不明」とセレナ。
「でも改良のきっかけ」
「それは事実です」
ネムは響花の間へ七つの心拍珠を置いた。
ノクスがその中を歩く。
黒い足が花へ近づくたび、色が一つ増える。
尾が地面へ触れる時だけ、開花時刻が半拍ずれる。
「種の平均じゃない」とエリア。「ノクスという一個体の歩き方が出ています」
次にピコを飛ばす。
機械鳥には心臓がない。
羽ばたきの周期はある。
響花は色を出さない。
ただし開花時刻だけ、風圧で揃う。
「生命拍と機械周期を分ける」とロロ。
「花は何を生命と判断してる?」とハル。
「まだ分かりません」
「分からないことが増えた」
「地図が正確になった証拠です」
「普通、正確になると分かること増えない?」
「境界が見えれば、境界の向こうが未知だと分かります」
ネムが丸を描いた。
無色帯の地図には、色を塗らない。
代わりに、観測できない理由を三層へ分けて残す。
遠い。
重なっている。
開花時刻が揃いすぎている。
一つの空白の中にも、違う未知があった。
検証は、祭の第四試練と同時に行われた。
候補者たちは、角峰の外周を走る代表獣へ乗り、七つの旗を取る。
ガンガは騎乗を嫌った。自分が地面から離れると、足裏で拍を読めない。
それでも候補者の条件として、背高い角駝獣へ跨がる。
鞍へ座るのではない。
背中の毛束へ裸足を差し、立ったまま進む。
「落ちるぞ!」とハル。
「立つ方が聞こえる!」
「地面じゃなく獣の背!」
「こいつの足が地面へ着く!」
「理屈は分かるけど怖い!」
「お前に言われたくない!」
角笛。
七頭の代表獣が走り出す。
地面へ広がる拍が、響花野を横切る。
エリアは地図板を見る。
色の帯が動く。
ガンガの万獣鼓動が広がるたび、近くの花から色差が消える。
消えるのは一瞬ではない。
残響が土へ残る。
「三十拍」とエリア。
ロロが計時輪を回す。
「中央は四十七。土の空洞が多い」
ネムが太鼓を打つ。
光の筋が、花ごとに分かれる。
無色帯の外では、ガンガの拍が通った後も、個別の色が戻る。
帯の内側では戻らない。
「別の拍が下にある」とエリア。
『遠い』とネム。
「花の根は地中で繋がっています。遠ざかった個体の拍を、根が弱く運ぶ。万獣鼓動の強い残響が上へ重なり、分離限界を越える」
トトは生きている可能性が高い。
そして、禁足谷の奥へ進んでいる。
地図上の無色帯が、細く伸びる。
その時、第四試練の角駝獣が一頭、進路を外れた。
シアの獣だ。
花畑へ入る。
大きな脚が、柔らかい根を踏み抜いた。
地面が沈む。
「空洞!」とロロ。
シアと角駝獣が、花ごと斜面へ傾く。
エリアは地図針を振る。
「使用、二分へ延長。踵一、呼吸一」
「許可」とハル。
「報告です」
光の道が、沈む斜面の上へ走る。
実在する足場だけを繋ぐ。
花の根が厚い場所、骨筋が地表へ近い場所、ロロの杭が刺さった場所。
「シア、左へ三歩!」
「左は沈んでる!」
「二歩目の後、右へ跳ぶ!」
「説明が後!」
「時間が先!」
シアが角駝獣の首から飛び降りる。
左へ一歩。
二歩。
足元が割れる。
右へ跳ぶ。
光路の上へ着地した。
カイルが王盾を展開する。
守る人数が多いほど燃える盾は、今はシアと角駝獣の二者を守るためだけに薄く広がる。
強度は高くない。
だが、落ちる土を一度受けるには足りる。
「痛み」とエリア。
「一!」とカイル。「盾、二十秒!」
「ロロ!」
「右杭、三十センチ! 左は駄目、空洞!」
ハルが腰索を右杭へ掛ける。
左肩へ通さない。
両脚と腰で支える。
「シア、索!」
「獣が先!」
「二本ある!」
「一本しか見えない!」
「ノクス!」
黒い夜獣が、二本目の細索を口にくわえて走る。
花の沈む斜面を、重さがないように渡る。
シアは角駝獣の胸帯へ索を回す。
ガンガが競技路から戻った。
順位を捨てるほどではない。
旗を一つ取った直後、代表獣を反転させただけだ。
後方確認、一。
大板の記録者が刻む。
ガンガは角駝獣から飛び降り、ドゥルガを地面へ横たえた。
「拍を揃えるな!」とネム。
喉を使った長い声。
ガンガの手が止まる。
代わりに、獣一頭の胸だけへ掌を置く。
「お前の拍を聞かせろ」
角駝獣は恐怖で速い。
ガンガは自分へ揃えない。
速いまま、足がどこへ動こうとしているかを読む。
「右後ろを上げる! ハル、引くな、支えろ!」
「引かない支え方って!」
「索を張るだけ!」
「張ったら引いてる!」
「言葉より脚!」
「説明を諦めた!」
角駝獣が後脚を上げる。
シアが首帯を引く。
カイルの盾が土を受ける。
エリアの光路が次の足場を示す。
ロロの杭が沈下を止める。
ノクスが尾で合図する。
一頭と一人が、斜面から戻った。
カイルが盾を解く。
「痛み」
「二。上がらない」
「エリア」
「踵二。呼吸一。路図終了」
光路が消える。
地面へ膝をつかない。
用意していた低い折り畳み椅子へ座る。
休むことを失敗の演出にしない。
シアが息を整え、ガンガを見る。
「助かった」
「お前の獣が、自分で戻った」
「それを聞いたのは誰」
「俺」
「なら、助けた」
「聞いただけだ」
「聞くだけで助かる時もある」
ネムが太鼓を二拍。
聞いた。
賛成ではない。
ガンガは苦い顔をする。
「今の何が違う」
ネムは小板へ書いた。
『聞いただけ、と言うな。聞いた後、選んだ』
ガンガは胸を二度、地面を一度叩いた。
「分かった」
『聞いた』
「賛成は」
『保留』
「厳しい」
「家族だから甘いと思った?」とハル。
ネムの小板がすぐ上がる。
『家族だから、ではない』
「ごめん」
『今日二回目』
「数えてる」
『記録』
「セレナが増えた」
「私は事実だけです」とセレナ。
沈んだ花畑の縁から、足跡が見つかった。
小さい。
鈴角獣の二つ割れた蹄。
左側だけ浅い。
トトは左耳だけでなく、左後脚も弱いらしい。
足跡は無色帯の中央を進む。
競技路から外れ、赤い毛糸の向こうへ。
禁足谷へ続いている。
セレナが証羽へ刻む。
「観測。幼獣相当の蹄跡。第一試練後と推定。禁足線の内側へ連続」
「推定の根拠」とエリア。
「花の折れが新しい。朝露の上へ土。左後脚の荷重差が第一試練の個体と一致」
「失踪届、受理できる?」とハル。
「証拠は増えました」
「窓口は」
「まだありません」
「窓口を作る?」
「私が作れば、王国機関の越権です」
「じゃ誰が」
全員が、角峰の上を見る。
第四試練の順位板で、ガンガは首位から二位へ落ちていた。
バルグ、一位。
ガンガ、二位。
シア、四位。
そして別の小さな記録板には、ガンガの名の横へ一がある。
振り返った回数。
「祭務会へもう一度申請する」とガンガ。
「拒否されたら」とハル。
「決める」
「何を」
ガンガは禁足谷を見た。
「何を止めるかを」
その言葉が終わる前に、赤い毛糸の向こうから、細い鳴き声がした。
一度だけ。
角峰の太鼓が鳴ると、聞こえなくなった。