第249話 第五章「幼獣の足跡」前編
都市は、不要なものを遠くへ置く。
墓地を城壁の外へ。
汚水を川下へ。
病人を隔離区へ。
敗者の名を年代記の脚注へ。
遠くへ置けば、消えたように見える。
だが、遠くは無ではない。
捨て場には捨て場の道があり、そこで働く者の食事があり、夜に灯す明かりがあり、戻ってこない荷車を待つ家族がいる。
捨てられたものより先に、捨てる仕組みが暮らし始める。
祭りの裏側も同じであった。
表へ角飾りが増えるほど、裏には飾れないものを置く場所が必要になる。
「入る」
ネムが言った。
掠れた一語だった。
ハルは赤い毛糸の前で、返事を一拍待った。
「一緒に?」
頷き。
「俺が先?」
首を横。
「ネムが先?」
また横。
小板へ書く。
『並ぶ』
「分かった」
聞いた、ではない。
実行する返事だった。
ハルは腰索を確認する。
左肩の痛み、一。
方向感覚、通常。
零星針は船の封印箱。
ネムは耳栓を濃い青へ替えた。
頭痛、二。
喉、一。
胸太鼓の皮を少し緩め、谷の反響が強すぎないようにする。
ノクスはすでに毛糸の向こうへいる。
「許可は」とハル。
ネムは、切れた毛糸を指した。
第四試練で地面が沈んだ時、禁足線の左端が杭ごと倒れている。新たな立入禁止札はまだ置かれていない。
「線が切れたら、禁止も切れる?」
『規則は糸ではない』
「入っちゃ駄目?」
『駄目』
「入る?」
『入る』
「悪いことって分かってやる」
『責任が違う』
「言葉にすると重いな」
『軽くして入るな』
ネムは倒れた杭をまたぐ。
ハルも並んで越えた。
禁足谷は、禁じるほど恐ろしい場所には見えなかった。
入口からしばらくは、響花が続く。
競技路より背が高く、手入れされていないため花弁が互いへ重なる。風が通ると色が移り、谷全体がゆっくり呼吸しているようだった。
ただし、音が少ない。
祭場の太鼓は角峰に遮られ、低い振動だけが地面を通ってくる。
鳥の声もない。
小動物は花の下へ隠れている。
無色帯が、細い道として続く。
「トトの拍、聞こえる?」
ネムは地面へ指を当てる。
待つ。
首を横に振る。
『花だけ』
「花が運んでる残り?」
頷く。
ノクスが先へ走り、戻る。
二本の尾のうち一本だけを立て、鼻先を左へ向けた。
「左?」
ノクスは右へ行った。
「違う?」
「翻訳しないで」と、いないはずのセレナの声が頭に浮かぶ。
ハルは自分で言い直した。
「ノクスは右へ行った」
ネムが小板へ丸を書いた。
「今のは正しい?」
『観測』
「セレナが二人になった」
ノクスは振り返り、「ノゥ」と低く鳴いた。
谷の右壁に、細い道があった。
草で隠れている。
自然にできた獣道ではない。地面へ平たい骨板が敷かれ、車輪が通れる幅を保っている。
最近の跡がある。
小さな二輪車。
人の靴。
蹄。
「管理区」
ハルが言う。
ネムは頷かない。
『見たことだけ』
「道が使われてる」
丸。
ハルは舌の内側で、結論を一つ飲み込んだ。
誰かがトトを連れ去った。
まだ、足跡だけでは言えない。
トト自身が歩いたかもしれない。別の幼獣かもしれない。祭の前に付いた跡かもしれない。
早く答えへ着くのは、走るのと似ている。
景色より先へ行ける気がする。
だが、答えだけ先へ着けば、置いていくのは他人の言葉だ。
ネムがそれを教えた。
正確には、ハルが何度も間違えるたび、止めている。
谷の奥に、柵があった。
白い骨材。
高さはハルの胸ほど。
内側へ向けて丸く曲がり、角や翼が引っかからない形になっている。
外へ出さないための柵ではない。
中の獣を傷つけずに留めるための柵だった。
「飼育場」
今度はネムが頷く。
門は開いていた。
錠が壊れたのではない。掛け金が上げられ、横の壁へ紐で固定されている。
誰かが開けたままにした。
中には、六つの小屋。
水桶。
乾いた飼料棚。
治療台。
地面へ埋め込まれた心拍測定盤。
祭場の華やかな飼育区と違い、角飾りも群れ旗もない。
どの小屋にも、灰色の布が掛かっている。
トトの背に巻かれていたものと同じ色。
ノクスが一番奥の水桶へ近づいた。
鼻を寄せる。
くしゃみをする。
次に、桶の縁を前脚で引っかいた。
「破られた約束?」
ハルが聞く。
ノクスは返事をしない。
夜獣は、人間の質問へ答える道具ではない。
破られた約束の匂いへ反応することはあるが、どの約束か、誰が破ったか、何が真実かを言葉にしない。
ハルは桶を見る。
縁へ古い文字が刻まれていた。
――百の群れに、外なし。
その下へ、新しい金属札。
――祭外個体用。
「同じ場所に、反対がある」
ネムが指で古い文字をなぞる。
ノクスの尾が低く光った。
「約束を追っただけ」
ハルは自分へ言う。
ネムが丸。
「証拠にはならない」
もう一つ丸。
「でも、気になる」
休符。
聞いた。
賛成ではない。
「厳しい」
『正確』
小屋の一つへ入る。
床には柔らかい苔。
壁へ、心拍珠が並んでいる。
名前ではない。
色と番号。
外一。
外二。
外三。
外七の棚だけ空いている。
「トト」
ネムは棚の下へしゃがむ。
灰色の布の切れ端。
青白い毛。
鈴角獣の角芽から剥がれた薄皮。
間違いなく、第一試練の幼獣がここにいた。
セレナなら、間違いなくとは言わない。
同一個体である可能性が高い、と言う。
ハルはその言い方を借りた。
「トトがここにいた可能性、高い」
ネムが丸。
棚の上へ、古い記録板がある。
紙ではない。
薄い骨片を束ね、焼き針で線を刻んだものだ。
ハルは群れ文字を読めない。
「何て書いてある?」
ネムは一枚ずつ見る。
読む速度は速い。
ただし、文字を声へしない。
小板へ書く。
『拍ずれ。七』
「七回ずれる?」
『七つで戻る』
「病気」
『違う』
「さっき病気かもしれないって」
『検査済み。生育正常』
次の板。
『共鳴器へ干渉』
「祭の太鼓?」
『鐘、花、測定盤』
さらに一枚。
『代表群へ入れず』
「何で」
ネムの指が止まる。
文字を読み直す。
小板へ、ゆっくり書いた。
『王獣様反響。公開不適』
「王獣みたいな拍だから、隠した?」
ネムは首を横に振る。
『書いた人の判断』
「事実じゃない」
頷く。
だが、記録は十分に悪かった。
トトは弱いから捨てられたのではない。
病気だから隔離されたのでもない。
祭の共鳴器へ干渉する。
響花が普通と違う色を出す。
古い王獣の反響に似ている。
だから表へ出せない。
祭が王獣継承を名乗るほど、王獣に似た幼獣を隠す。
「特別すぎるから、外された」
ハルは言った。
胸の奥へ、地球の教室が浮かんだ。
異世界へ落ちた子。
父がいない子。
零星針を持つ子。
世界の裏側という言葉に名を結ばれた子。
特別と呼ばれる時、人は近づいてくる。
同時に、普通の場所から遠ざけられる。
「分かる」
口から出た。
ネムが顔を上げる。
「俺も、特別って勝手に――」
太鼓が一度鳴った。
止まれ。
ネムの小板。
『トトは、お前ではない』
「同じって言ってない」
『私も、お前ではない』
「ネムの話は――」
『していない』
ハルは言葉を失う。
自分は、ネムの話を理解したつもりだった。
兄の物語へ吸収されること。
聞こえるため神託として使われること。
特別な役割を押しつけられること。
だが、ネムは今、その話をしていない。
トトの記録を読んでいる。
ハルは自分の孤独を、相手の口へ入れた。
共感という名前で。
「ごめん」
ネムは小板を下ろさない。
『何が』
「自分と同じだって決めた」
『次』
「次?」
『何を変える』
謝罪だけで終わると、同じ形が繰り返される。
ハルは考える。
「先に聞く。似てると思っても、ネムの答えにしない。トトのことも、特別な子の話にしない」
ネムはしばらく見た。
小板へ丸を一つ。
許した印ではない。
聞いた印。
そのまま次の記録へ移る。